◼️ 戸田茂睡「御当代記」から
承前:
1「御当代(徳川綱吉の時代)になりて犬をおいたわりあそばされ候」1687/貞享4年2月/(続々々々)
.
◼️「上記『もし粗末な調査をした者があれば、責任者に告発せよ』という責任者とは、町人の場合は町奉行、警固役の武士(番衆)ならば番頭、役職のない旗本御家人(小普請)ならば御留守居年寄というそれぞれの支配方のことだ。この犬対策の最高責任者(犬大支配役)は、喜多美(喜多見)若狭守(重政)だ」
.
※戸田茂睡の記録した犬大支配役の喜多見重政(1651〜1693)は、徳川綱吉の寵臣(側用人)で、急な出世を果たした。綱吉より5歳年少だが、犬保護という目玉施策を任されていることから、将軍との意思疎通は高度なものだったろう。喜多見は自国の喜多見藩(現:東京都世田谷区喜多見周辺)陣屋にも犬小屋をつくって野良犬を収容したらしい。ところが元禄2年(1689)、綱吉将軍は「職務怠慢」を理由に喜多見重政の所領を没収、桑名藩預けとして追放した。元禄6年(1693)、喜多見は餓死したという。簡易年表には「1692/元禄5年1月 喜多見村(現:東京都世田谷区喜多見)の犬小屋設置」と書いたが、喜多見重政が没収された領地跡は幕府の直轄地となり、改めて犬小屋が設置されたのだろう。
.
※戸田茂睡による喜多見(喜多美)若狭守重政の失脚の経緯は、次の通り。
◼️ 戸田茂睡「御当代記」から
「(元禄2年(1689)1月)20日過ぎごろ朝岡伊代守が狂乱し、喜多美茂平(若狭守重政の弟)を斬る。茂平は手負ながら刀を抜き合わせて受け流し、次の間に出ると、茂平の家来が朝岡伊代守を斬り殺した。朝岡伊代守の15歳になる息子がすぐ茂平の家来を討った。(という事件が報告され御目付ふたりが仮詮議をしていたところ)実は朝岡伊代守は『喜多美茂平は不届者につき一太刀あびせてやる』と言っていたが、喜多美茂平が逃げてしまったのでどこにいるからわからずともかく追って行ったところ、喜多美の家老が朝岡伊代守を斬殺し切腹してしまった。(事件の背景には、喜多美茂平が朝岡伊代守の長期不在中、朝岡邸を乗っ取り自分のものにしていたという事実があった。『朝岡伊代守狂乱』という嘘でごまかそうとしたのだ)
※喜多美茂平というのは喜多美(見)若狭守重政のグレた弟で、斬罪に処せられた。茂睡は2月2日の『喜多美若狭守重政の失脚は、この件の処分』と記している。松本清張が「栄落不測」という小説にしているらしい。
.
葛飾北斎 犬