◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


柿本人麻呂のこの歌に戻ろう。この歌は、天皇(天武)が「いかづちのをか」(雷丘)に行き、仮宮に入った時のものだという。一説によると、天武の息子のひとり、オサカベ(忍壁)に献じたものが元だという。


雷丘は明日香にある小高い(というか低い)丘で、おそらく落雷もしがちな場所だ。天武天皇が、遊行で、そこの仮宮に入った。天武天皇の息子たちも近くまで来ていて、それを見ている。柿本人麻呂は、息子たちに仕えている。


柿本人麻呂が、ほぼ同年の長男・高市皇子と深いつながりがあることは、後年の高市皇子に対する挽歌にも明らかだが、その弟たちにも親しく接していたようだ。


この歌には、前史が関係している。大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱の折、まさに決戦に臨んで野上(関ヶ原の東端)の仮宮にいた夜、大雷雨が襲った。大海人皇子は、「神の助けがあるならばこの雷雨を止めん」と占った、そのことを前提としている。


桑名にいた天武天皇が、援軍2万騎が集結している関ヶ原周辺に移動したのは、軍事を任された長男・高市皇子が「桑名では遠すぎるのでもっと近くに来てください」と依頼したからだ。そこで大雷雨が起こり、大海人皇子は吉凶を占った。


その大雷雨と、今、天皇となって「いかづちをか(雷丘)」の仮宮に入った天武天皇を連想しているわけだ。壬申のとき幼児だった忍壁は、野上の大雷雨は体験していない。しかし、高市は18歳で全軍の将だった。


だからこの歌は、忍壁に献じたとしても、高市を強く意識しているのだろう。


「あの時の決死の大雷雨」と、大海人皇子が今や天皇になって「明日香の雷丘という低い丘に遊行している」、それを息子たちも見守っている、その情景をとらえているわけだ。


深刻な歌ではない。「神だから雷の上に仮宮をつくったのだろう」というのは、平和への安堵、ユーモアも感じられる。


もしこの歌を、柿本人麻呂が現場でとっさにつくったとすれば、決戦前夜の大雷雨を現地(野上)で体験していたのではないか、と思わざるをえない。そうだとすると、高市皇子と柿本人麻呂の関係はなお深く、天武天皇や持統天皇が柿本人麻呂を側近として政治任用した理由も自然だ。


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# by kugayama2005 | 2019-07-16 01:19 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

道教は、身体的でもあります。北方の儒教や、西方の仏教との違いです。


ニンゲンの統治規範(儒教)や、脳内瞑想(仏教)ではなく、「体を大事に長生き」という現実的な目標があり、それを極めれば不老不死の仙人になるわけです。


「本草」や「錬丹」も、例えば抗がん物質の発見にもつながるわけなので、始皇帝が夢中になったのも理解できます。


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# by kugayama2005 | 2019-07-15 04:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

道教の特質のひとつに、「本草」と「錬丹」への強烈な傾倒があります。場合によっては、神仙思想よりも、「本草」「錬丹」が主目的のようにも見えます。


「本草」は、植物エンサイクロペディアで、漢方薬などに実用化されています。


「錬丹」は、金属への深い関心です。錬金術を研究した。銅器をつくり、剣と鏡を神聖視した。さらに辰砂から水銀をつくり、不老不死の薬石を発見しようとした(気の早い人は水銀を飲んで死んだ)。


「錬丹」の初歩は、辰砂から「丹」を生成することでしょうか。畿内ヤマトでも辰砂を産出し、宮の柱などを「丹塗り」し、朱色に染めたのでしょう。


福永光司氏によると、「錬丹」には大きな投資が必要で、秦国のような大帝国でないと財政的に無理らしいです。小規模予算でできるのは「本草」で、小国では「本草」が主流になるようです。


これまで触れてきた、畿内ヤマトに現れた、巫女アカデミーでの薬草知識、三種の神器の2つである剣と鏡、鉱物採取への執念などは道教からの強い影響が感じられます。


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# by kugayama2005 | 2019-07-14 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

南方(揚子江下流域)からの道教の伝播があれば、それは例えば秦の始皇帝のころでしょう。


繰り返しになりますが、始皇帝(道教の強力な支持者)の秦帝国の強い命令によって、錬丹術(錬金術)をおこない、不老不死の薬草を求めて四方八方を探索した(させられた)、多くの官人などがいたのです。


彼らのうちの何人かが、列島にも到達した。徐福伝説が事実かどうかはさておき、派遣地で定住する覚悟の人間を伴ってやって来た。そのリーダー格の何人かは、道教の教義を持参し、当然それは漢字で書かれていたわけです。


一般的に、王仁(わに)という人物が、紀元400年ころに、漢字(論語や千字文)を列島に伝えたというように言われていますが、これはおそらく楽浪郡(半島にあった中国の出先機関)出身の帰化人が、日本書紀編さんの際に、先祖の功績として挿入したのでしょう。


徐福的な人物が列島に到達していたとすると、紀元前200年くらいのことですから、漢字の伝来は600年早まるのです。


それら、道教の教義と漢字を保持するグループが、古代の列島に点在していた。例えば、空海の先祖など、という妄想です。空海は、遣唐使の一員に抜擢されるまでは、無名の若者(讃岐のマオくん)です。しかし彼は、すでに漢文をこなし、それだけではなく中国語を使うことができたという説もある。


空海があっという間に習得してきた真言密教は、相当部分、道教と習合しているらしい。父は讃岐国の有力者だったというので、「道教の教義と漢字を保持するグループ」と関係があるのかもしれない。


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# by kugayama2005 | 2019-07-13 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

福永光司氏によると、「天皇」や「神社」という文字自体、古代道教の経典に存在するという。ということは、例えば「天皇」は、仏教的、あるいは儒教的概念ではないので、それを採用したと思われる天武・持統朝は、特に道教への傾倒が強かった。


さらに柿本人麻呂の、


◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


における「神」も、われわれが近現代で認識している「神」とは、別の概念なのではないか。


福永光司氏は端的に、この神は「道教の神仙、神人の神と重なり合う」として、「神のような人、すなわち人が修行努力して、超越的存在の境地に到達しえたということで、基礎はあくまで人にある」として、仏教系の「現人神」(神が人に姿になって現れる)とは別のものと示唆されている。


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# by kugayama2005 | 2019-07-12 00:48 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

福永光司氏は「明日香と道教」という対談で、「縄文期からの日本土着の思想信仰がタテ軸とすると、ヨコ軸には大陸からの(道教の)影響が考えられる」と仰っている。


このことがまさに、強い緊張感を伴って現実におきて記録される、つまり歴史化するのが、斉明(天智・天武)持統期だと思うし、福永光司氏も斉明天皇、天武・持統天皇の道教的行動について指摘されている。


そのことの表現者としての柿本人麻呂が、そのヨコ軸に強く牽制されていたことは間違いない。


また、秦の始皇帝の中国統一にともなって、その帝国から追放されあるいは逃亡した人々が、道教的考え方とともに列島にやって来たのだろう。例えば徐福伝説のように列島に、あるいは馬韓を経てやって来た秦人のように。


徐福や秦人は、当然ながら海路で列島に来た。また、機織りの技術者を求めて列島側から、おしなべて「呉」の国と認識されていた江南に航海もしている。


道教が海を渡って来た時、そこには思いがけなく同質の、縄文以来の自然精霊信仰があり、急速に習合していったのではないか。


縄文以来の自然精霊信仰になかったのは、


神社という組織性

金属への傾倒(銅器信仰・錬丹術)


ではなかったか。


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# by kugayama2005 | 2019-07-11 03:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️妄想。柿本人麻呂は、摂津国の凡海(オオアマ)氏と関係があり、天武天皇(大海人皇子)や高市皇子(母がムナカタ)の周辺にいた。


柿本人麻呂は、その後、うののさらら<持統天皇>に認められて、(おそらく額田王の後任として)宮廷詩人になる。


その過程で、高市皇子との関係はきわめて大きかっただろう。


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# by kugayama2005 | 2019-07-10 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️妄想。柿本人麻呂は、摂津国の凡海(オオアマ)氏と関係がある。


凡海氏は、その名の通り、海運の氏族であろう。当然、アズミ氏や、ムナカタ氏とも通じている。


天武天皇の長男に高市皇子(たけちのみこ)がいる。推定18歳、壬申の乱で、関ヶ原あたりに集まった2万の援軍を指揮した。桑名にいた父に「遠すぎるのでもっと近くに来てください」と呼び寄せた。(大海人皇子<天武>は万一敗戦の時、うののさらら<持統>や年少の子を海路東国に逃がすつもりだったのだろう)


高市皇子は、軍事を父から全権委任されていたのだ。


そういう高市が、なぜ天皇になれなかったのか。母の身分が低かったからだが、その母の家が、ムナカタなのだ。「ムナカタからオオアマ」とは、すなわち北九州(ハカタ)から難波津(スミノエ)までを網羅している。


また、壬申の乱に東国から援軍としてやってきたのは尾張勢で、尾張は縄文時代から海洋交通の集結地だったらしい。もちろん、熊野の海族ともつながっている。


天武天皇の養育者(オオアマ)、天武天皇の長男の母(ムナカタ)。そのラインに柿本人麻呂もいるのだと思う。


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# by kugayama2005 | 2019-07-09 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の海に関する歌は、実感が伴っている。幼少より、海川や船に親しんでいたのだろう。


◾️荒たへの藤江の浦にすずき釣る海人(あま)とか見らむ旅行く我を

  (旅ゆく私の姿を見て、人々はスズキを釣る明石あたりの漁師だと思うだろう)


明石の浦にスズキを釣る。浦というのは海岸線が入り組んでいる岩礁まじりの海だ。そこへスズキが回遊してくる。海人は、50cm以上はあるスズキを掛けて、豪快に抜き上げるのだろう。プロの釣りだ。


「旅ゆく我」は、そいういう海人さながら、小舟に乗って海を行く。


妄想。柿本人麻呂は、摂津国(大阪〜神戸)の凡海(おおあま)氏と関係がある。凡海氏は、幼少の天武天皇を養育したとされている。天武天皇が大海人皇子(おおあまのおうじ)と呼ばれたのもそのためだという。


凡海氏を通じて、少年柿本人麻呂は、天武天皇の周辺に就職?したのだろう。


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# by kugayama2005 | 2019-07-08 00:57 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️白川静氏「古代集団(坐祝集団)は都を追われ、諸処の聖地を彷徨しながらついに崩壊する」


ということを柿本人麻呂に重ね合わせて考えると、人麻呂の実像が垣間見えてくる。


柿本人麻呂は、天武・持統に政治任用された詩人だ。つまり、既存の貴族体系とは無関係なのだろう。持統天皇の最側近にいながら、必ずしも天皇の視線でものを見ていないという面もある。


持統側近の歌人として活動していた時期「以外」の人麻呂の役割は、全国の情報を朝廷もたらすことにあったと思う。人麻呂の行動範囲の広さのゆえんは、海運を駆使できたことにある。


当時のさし迫った問題とは、


大陸との緊張関係を応用し、近畿ヤマト支配を完結すること

戦略物資(米や金属・鉱物)の帰属を朝廷に一元化すること


であり、柿本人麻呂はそのことに関連して、諸方を旅しているのではないか。同時に、天皇一族のもっとも奥深く隠されている、継承問題をも深く知ることになった。ーーーそのことが、統一国家が現れてきた時(大宝律令制定)、朝廷には柿本人麻呂の居場所がなくなったのだろう。


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# by kugayama2005 | 2019-07-07 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

◾️白川静氏「古代集団(坐祝集団)は都を追われ、諸処の聖地を彷徨しながらついに崩壊する」


古代集団の崩壊は、統一国家の誕生とセットになっている、というのは秦が大陸を併呑した過程で現れる。


例えば、反秦を屈原とした場合、屈原は全過程における敗亡者だ。屈原には、一度も勝つチャンスがない。「楚辞」をまとめ、おそらく「楚辞」を懐に隠棲し、あるいは追放され、逃亡し、自死した---何人もの屈原がいた。「楚辞」とは、崩壊したものの全体なのだ。


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# by kugayama2005 | 2019-07-06 00:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️古代中国の詩集=北方の「詩経」、南方の「楚辞」


「詩経」は、もともと舞踊を伴う歌謡だそうだ。そして、「楚辞」は読むものだという。


初期万葉にも、舞踏を伴う歌謡があり、旧約聖書の「詩篇」も歌謡だという。


「歌い舞うもの」から「読むもの」への変遷は、もちろん文字によって起こったことだろう。


「言葉が神だった」時代が終わって、「文字が神になった」時代となる。


旧約聖書では、「神は「光あれ」と言われた。すると光があった」と言うが、有名な「始めに言葉ありき」(ヨハネ福音書)は、イエスの死後100年余りたって書かれ(まとめられ)たものだから、すでに神の言葉は客観的に定義され、文字に定着されている。


列島でも「荒ぶる神」が過去のものになりつつある時代、そのことが起こったのだろう。白川静氏の言う、「古代集団(坐祝集団)は都を追われ、諸処の聖地を彷徨しながらついに崩壊する」時だ。


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# by kugayama2005 | 2019-07-05 01:59 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

屈原がなぜ人気があるのか。屈原は、楚の国で、少数派の反秦論者だった。そのため、追放された。


楚王はだまされて秦で虜になり、楚の首都は秦軍によって陥落した。屈原は汨羅(洞庭湖に流れ込む長江の支流)に沈んで自死。


しかし、秦の巧みな戦略(遠交近攻など)にかかって、周辺国が次々と滅亡するなか、楚国には生き残る道があったのだろうか。


この時代(戦国時代)は、鉄器の農具が普及して、耕作が高能率化、人口が激増したらしい。そのため、戦車戦中心の戦争から、歩兵中心の戦争になったという。おそらく、武器も鉄製が一般的になった。


戦車戦による戦争は、プロの戦闘者による戦争だが、歩兵戦は一般人を大量に動員する。戦争で死ぬのは、武人というより農民なのだ。捕虜の反乱を懸念して、大量に生き埋めにしたりもするので、せっかく増えた人口が激減してしまう。(後の三国志の時代も同様)


秦の大陸統一によって、さらに首都や万里の長城の建設に、農民が動員される。そういう中で、周辺地に逃亡する集団もいた。半島に馬韓を建国した「秦人」も、その逃亡組だ。


屈原が編さんしたという「楚辞」は、北方の「詩経」とともに古代中国を代表する詩集だが、「楚辞」はおそらく、反秦的な知識人たちの熱い共感を集めたのではないか。


有名な始皇帝の「焚書坑儒」(書物を燃やし、儒者を生き埋めにする)のターゲットは、主に儒教に向けられていたけれど、「楚辞」などはそれ以前に禁書だったに違いない。


秦に敗亡した知識人たちは、ひそかに屈原を読んでいたのだろう。ということは、列島にも反秦知識人の手で、「楚辞」が持ち込まれていた?


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# by kugayama2005 | 2019-07-04 03:19 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


◾️柿本人麻呂の祖先のワニ氏は、畿内の代表的な水運業者


として、畿内の水運は、淀川水系、琵琶湖などの閉ざされた水面だけではない。


難波津から海に出るのだ。彼らが、水神を通じて、屈原の故事を知っていても不思議ではない。


古代律令制は、北方(隋唐の長安)から輸入されたが、それ以前に南方の大陸文化が、水田稲作、環濠集落などを伴って、船でやってきた。船には屈原伝説も乗ってやってきたはずだ。柿本人麻呂の祖先のワニ氏は、屈原について知っていて当然だろう。


つまり、柿本人麻呂は、特に都を追われた晩年、屈原を意識していたというのが我が妄想。


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# by kugayama2005 | 2019-07-03 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


さらに、那覇のハーリー(爬竜)や、長崎のペーロン(白竜)を含め、龍船による競争は、


◾️入水自殺をした屈原を助けようと、地元の漁師たちが競って船を出した


という伝承によっているという。さらに、屈原の死体が魚に食われないよう、(陽動のため)人びとは粽(ちまき)を作って湖に沈めたという。屈原の自死は五月五日で、この日に龍船競争をし、粽(ちまき)を作るのはそのためだというのだ。


屈原の自殺は、楚の滅亡とともに記憶され、屈原は海運業者に水神として祀られた。


一方、柿本人麻呂は、ワニ氏の末裔といわれている。ワニというのは鮫であって、豊玉姫が日南海岸でワニの姿となり、山幸彦の子(神武天皇の父)を産んだことが思い出されるが、それはさておき、


柿本人麻呂の祖先のワニ氏は、畿内の代表的な水運業者だったらしい。


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# by kugayama2005 | 2019-07-02 02:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

柿本人麻呂(709年没)

屈原(前278年没)


この2人は、千年の時を隔てているのだが、私的妄想ではつながっている。


台南の「水仙宮」は、海運業者が1703年に建立したそうだが、水仙尊王を祀っている。「屈平」(=屈原)の像もあるらしい。1703年とは、日本では赤穂浪士の討ち入りがあった年で、ごく最近のことだけれど、大陸南方では、屈原は欠かすことができない水神なのだ。水神は龍舟(ドラゴンボート)に乗っている。


楚が秦によって滅亡せられた時、一部の楚人は海に逃れたのだろう。龍舟(ドラゴンボート)は、那覇のハーリー(爬竜)や、長崎のペーロン(白竜)へと伝播している。


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# by kugayama2005 | 2019-07-01 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白川静氏は、屈原の時代について、


「楚が列国と対峙し、競合するために古い氏族制的な形態から法家的な専制王政を志向したとき、古代集団(坐祝集団)は都を追われ、諸処の聖地を彷徨しながらついに崩壊する」、と指摘して(「初期万葉論」)、


屈原と柿本人麻呂を比較している。


◾️古い氏族制的な形態法家的な専制王政


は、まさに持統期の律令制確立と同じだ。さらに、


古代集団(坐祝集団)=ヤマトにおいての呪歌の担い手とすると、柿本人麻呂が都から消えていった経過にも重なる。


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# by kugayama2005 | 2019-06-30 00:34 | 2019日記 | Comments(0)

白川静氏は、柿本人麻呂に現れ、そして衰退していった「呪歌」を、古代中国の屈原と対比している。


屈原は、戦国、楚の人。


楚は紀元前223年まで、900年ほど大陸南東部に存在していた。屈原のころは、淮(わい)河や長江の下流部へ進出し、越を併合したが、次第に西方の秦に追いつめらていく。(越が滅びた時、海上に逃避した人々の一部が流れ着いて、日本の越<越前・越中・越後>を興したという説もある)


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# by kugayama2005 | 2019-06-29 00:03 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️北方(隋・唐)の影響(長安へのあこがれ)は、本質的なものではない。


◾️歌が「公的に歌われる」ものではなく、「私的に記述される」ものに変わった時こそ、質的変化が起きた。


というようなことをなぞって行くために頼りとするのは、折口信夫と白川静です。


もちろん 笑)、◾️ジュリアン・ジェインズによる「二分心」(Bicameral Mind)の喪失=神の声を聴く「脳」の喪失、がその背景にあるのですが。


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# by kugayama2005 | 2019-06-28 00:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

列島における古代歌踊と、文字の受容、


について探りはじめる前に、道しるべを置いておきたい。


ひとつは、

◾️大陸の北方文化が伝来するより相当以前に、南方文化が(人の移動を伴って)流入していること。長江文明の存在が明らかになったのは最近なので、列島と南方文化の関係は多くの場合、無視されている。

◾️大陸では寒冷化によって、北方の畑作・遊牧民が南下し、長江(揚子江)周辺の水田稲作民を駆逐した。その結果、水田稲作民は奥地の山岳に逃れ、あるいは海を渡った。


(したがって、北方(隋・唐)の影響(長安へのあこがれ)は、本質的なものではない。)


もうひとつは、

◾️初期万葉、古事記、日本書紀は、編さんの実務に多くの外国人が携わっているが、それは漢文(中国語)の記述のためには不可欠だったからだ。しかし、記述の内容についてはかなり藤原氏等の校訂が入っており、漢文(中国語)の巧拙とは無関係に、(書いてあることが事実という意味ではなく、編さんの真摯さについて)相当信頼できると考える。

◾️初期万葉、古事記、日本書紀の詩(歌)については、多くが体の動きを伴うもので、舞踊と一体化するためには自然な母音の数(音節)を守る必要がある。したがって、文字化される際に無理に5音節や7音節に整理されたものではない。


したがって、素朴な歌が、長歌や短歌に洗練されていったわけではない。むしろ、歌が公的に歌われるものではなく、私的に記述されるものに変わった時こそ、質的変化が起きた。


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# by kugayama2005 | 2019-06-27 00:21 | Trackback | Comments(0)

◾️書物として記録されたイーリアスに「二分心」の事実を求めるのは無理があるのではないか。


それに反して、列島で文字が使われて出したのは比較的最近で、しかも文字(漢字)の発生過程はかなり研究されている。


したがって、イーリアスを調べるより、列島の古代歌踊を調べたらどうだろう?


イーリアスについての私的妄想については、


詩人(ホーメロス等)が、「二分心」の典型を保持していたのであって、古代ギリシア人一般が「二分心」の典型なのではない

「二分心」崩壊の契機は、「文字の使用」にある


というのが今のところの妄化具合である。ジュリアン・ジェインズ先生のおっしゃっていることとずれてきた。


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# by kugayama2005 | 2019-06-26 01:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて、

◾️ジュリアン・ジェインズによる「二分心」(Bicameral Mind)の喪失=神の声を聴く「脳」の喪失。そして、神というものへの確信が揺らぎ、消えていく。


その契機は、

  言語の発生

  文字の使用

にあるのか?


そして「イーリアス(ギリシア神話の叙事詩)」にジュリアン・ジェインズは、「二分心」(Bicameral Mind)の典型をみているが、


  古代ギリシア人が、「二分心」の典型なのか?

  詩人(ホーメロス等)が、「二分心」の典型なのか?


という疑問が、この列島に照らし合わせて浮かんできます。


イーリアスは紀元前1,000年以上からの歴史を持ち、文字化されたのも2,000年近く前であり、その後、アレキサンドリアの学者が紀元前200300頃に念を入れて校訂したものだという。


つまり、イーリアスをもって「二分心」(Bicameral Mind)の典型を考察することはできるが、書物として記録されたイーリアスに「二分心」の事実を求めるのは無理があるのではないか。


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# by kugayama2005 | 2019-06-25 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

馬韓は、東方の土地を亡命者(秦人)に割譲した


どうも太っ腹な馬韓ですが、「翰苑(かんえん)」という書物(後漢書等から転記)によると、


馬韓の人は、金銀錦などを貴ばない

牛馬に乗ることを知らない

玉を重要視し、衣服や体につける

田植えの時期、鬼神をまつり、昼夜酒宴を催し、みんなで歌い踊る

秋の収穫時も同様


これは私的妄想で言うと、倭人そっくりです。というより、半島南部はほんらい、(大陸からみて)倭と似ているものと思います。というのは、魏志にいわく、「韓は帯方の南にあり、東西は海で限られていて、南は倭に接している」。


「東西は海に限られている」と正確に認識されており、続いて「南は倭に接している」ということは、半島の南辺は、「倭」だということになります。


北方から南下してきた人たち、すなわち、辰韓の秦人や、高句麗、新羅の人たちは、金属を貴び牛馬に乗りますが、


倭人や馬韓人は、

もともと金属や乗馬を知らず

玉を貴び

田植えや収穫の祭りで飲酒し、歌い踊る(つまり北方系の人たちは、そういうことはしない)


というわけです。倭人や馬韓人は、秦人などの金銀鉄をみて、また乗馬する姿をみて、それらを取り入れるため、秦人などの移住を歓迎し、秦人も、倭人や馬韓人を良い顧客と判断したのではないか。


どうやら半島においては、北方から流入した「畑作」民(辰韓)と、南方から流入した「水田稲作」民(馬韓)とが接していたようです。


さらに、近年になって揚子江流域に巨大な文化圏(長江文明)があったことが判明した。半島・列島へ中華文明が伝播した的歴史観が相対化されて、むしろ南方からの「水田稲作」が深層を形成したと考える方が自然ではないだろうか。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-24 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️辰韓での秦人との鉄材取引を空想


これは「翰苑(かんえん)」という書物によったもので、実は空想ではありません。翰苑とは、太宰府の保存していた写本ですが、中国の周辺民族について、諸本から抜き書きしてあるものです。奇妙といえば奇妙な本なのですが、太宰府(外交拠点)としては、大陸そのものもさておき、東アジア周辺国の実態にすこぶる興味があって当然ですね。


秦人については、後漢書から引用していて、内容は、


(始皇帝の)秦国の苦役を避けて、(秦人が)韓国に亡命した

馬韓は、東方の土地を亡命者(秦人)に割譲した

秦人は秦語に似た言葉を話し、(邦を)秦韓(=辰韓)とした

五穀豊穣の土地であり、養蚕をし、鉄を産出した

濊(わい=半島北方の国)、倭、馬韓(の商人は)順番待ちをして鉄を買った。

秦人は鉄の貨幣を用いた

秦人は牛馬に乗り、身長は高く、髪が美しい


つまり、倭国の商人はいちはやく辰韓の産出・精錬する鉄を買い求めるため、北方の濊国や、馬韓の商人と競い合っていた。(それがいつの頃かというと早くて紀元前3〜4世紀。この時期の半島南部には北九州で出土する弥生式土器が発見されているらしい。)


その過程で、秦人の乗馬も見たし、養蚕も見たわけだ。貨幣経済も知った。買うのは鉄材だけではなく、真綿や、馬、馬具も仕入れただろう。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-23 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

例えば、辰韓での秦人との鉄材取引を空想してみよう。辰韓とは、始皇帝の強権支配を忌避して南下し、半島に移住してきた秦人の国だ。


秦人とは、ペルシア商人だという魅惑説もあるけれど、それはさておき、政治には関係したくない人々であるらしい。半島が三国時代(高句麗・新羅・百済)に入ると百済に併合される。彼らは取引先のひとつだった倭人に誘われて、渡海もしただろう。


倭人は辰韓にある秦人の店に行って、鉄材を購入する。あるいは秦人は養蚕の技術者でもあったので、絹を購入する。その際のやり取りは、まず漢字の表記から始まるだろう。


漢字は、鉄材の輸入とともに列島に入ってきた、というのが私的妄想。


その後の、列島での漢字魔改造によるカナ文字(アルファベット)の創作も、文字の日常化をもたらした。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-22 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️神というものへの確信が揺らぎ、消えていく


ジュリアン・ジェインズの「二分心」(Bicameral Mind)は、ニンゲンの意識と言葉との関係について述べているのであって、言葉と文字との関係にはあまりふれていないと思うが、再確認したい。


言葉の発生というあいまいな現象ではなく、文字の発生が「二分心=Bicameral Mind」の衰退、すなわち神の声を聴くことが「できない」脳をつくったのではないだろうか。


世界史の視点では、文字の発生は歴史的事実として捉えにくいが、日本ではあきらかに、大陸から輸入しました、あるいは大陸から文字を知るニンゲンがやってきて、文字を使うようになりました、ということがわかっている。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-21 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

折口信夫は「鎮魂歌は舞踊を伴う歌詠」であり、本来、「うた」ではなく「ふり」と言われる、と書いている。それが時代とともに、「ふり」も「うた」に吸収されてしまう。


その過程には、おそらく文字の採用があったのだろう。文字で記録すると、「ふり」も「うた」になってしまう。


さらに、

◾️「ふり」は、「神に奏上するもの」であり、

◾️「うた」は神になりかわって「宣下するもの」

だという。


これらの区別があいまいになるのは、すなわち人にとっての神というもの、その確信が揺らぎ、消えていくからに違いない。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-20 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

奇跡的に残った初期歌踊の本質が、観阿弥世阿弥にあるとして、しかし、応仁の乱、全国的な戦国とさらに時代は武力におおわれていった。


そのことはさておき、やはり初期歌踊の時代というのは、非文字にあり、万葉集で言えば第1巻の柿本人麻呂までであり、奇しくも日本書紀で言えばそのもの、つまり持統期までだと思う。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-19 02:45 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

今様はもちろんのこと、田楽や猿楽なども、在野から宮中に浸透していったわけで、さらに後の武家政権では積極的に支持された。


猿楽(観阿弥世阿弥)は足利義満によって、今日に伝わる寂滅が主調となった。足利義満は、私見、源氏の総大成者だ。対大陸貿易など、多く平清盛を意識しているが、文化面では平家物語の世界観に共鳴しているようにみえる。


平家物語は、源氏による長大な平氏鎮魂歌であり、今日では読むものと認識されているけれど、実は琵琶法師によって演じられるものだ。


足利義満は、平氏の鎮魂から離れて、表現に広く生死の世界を求め、その意を汲んで観阿弥世阿弥が猿楽を大成したものと思う。


義満の死後、世阿弥は追放されたが、猿楽の世界が残ったのは、武家政権の背景に抜き差しならない生死感が存在していたからだろう。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-18 01:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白拍子と今様の組み合わせは、確かにそれまでの雅楽とは違って、心躍るものだったかもしれません。


メロディーは、越天楽の応用だったらしいです。


越天楽と言っても実感がわかないかもしれないけど、現代に生きてている越天楽歌謡は、黒田節です。


また、今様は、7音5音を繰り返す形式なので、日本語の歌謡の基本とも言えます。


そこに男装の巫女風麗人が登場するわけですからね。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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# by kugayama2005 | 2019-06-17 00:58 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005