692年(柿本人麻呂  推定39歳)

◾️軽皇子(かるのみこ)の安騎野遊猟


については、すでに


2019日記【039052】斉明(天智・天武)持統期の心的推移 16〜29に書いたので、今回は付け足さない。


安騎野遊猟歌は、柿本人麻呂の頂点を示すものだろう。この時、人麻呂は困難な任務に極限まで緊張を強いられていただろう。天武天皇から息子草壁皇子を通じ、孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位が移るべきものなのか。持統天皇の注文は厳しかった。


おそらく持統天皇の心中は、孫軽皇子に、草壁皇子同様の不安を抱き、天皇にふさわしいとは思っていない。しかし、事実上、次期天皇候補は他にいないのだ。天武天皇の直系を即位させなければならない、しかし、ほんとうに軽皇子でいいのか?


実務の中心、藤原不比等は、後継軽皇子で早く決着を付けようとしている。時代はすでに神話世界を離れ、政治の実体は藤原政府に移っているのだ。不比等は、持統天皇の決断した時の怖さを、身にしみて知っている。


不比等から見れば、人麻呂は持統天皇の影と見えただろう。おそらく、安騎野遊猟にあたって、不比等の強い圧力が人麻呂にも注がれた。後継軽皇子から逸脱するな、と。


柿本人麻呂  安騎野遊猟反歌(2019-02-09 の再掲)

◾️東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


【私訳】

未明の東の野に、登りくる日の兆しが見えている。これは軽皇子(後の文武天皇)の近未来を暗示している印だが、それが如何なものなのか、わかる力がいまの私にはない。返り見ると、薄い氷盤のような月が、傾いて西の漆黒に堕ちようとしている。これは、不幸な死を甘受した草壁皇子の姿にちがいない。母の慈愛により、ふたたび新たなより賢い生を受けるだろう。


今、夜明けを迎えるこの冬の地に、いざ近江へ向かわんとした彼らの祖父であり父である「あまの ぬなはら おきの まひとの みこと」(天武天皇)の威霊が満ちてきているではないか。東の空の暁も、すめらみことが焼き放った名張の幻火だろうか。


草壁皇子がそれを手にすることがかなわず、軽皇子がそれをまだ得ていない霊だ。私に言えることは、このような、もうなく=まだない時にあって、それを知るのは詩の言葉のみに違いないということ。


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# by kugayama2005 | 2019-09-22 23:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂=草壁(あるいは忍壁)皇子の舎人説、というのがあって、ナゼかな?、と思っていたが、草壁皇子への挽歌が、


◾️朝廷のお言葉もなさらず月日は経ってしまった。それ故に、草壁皇子に仕えた宮人たちは、どうなっていくのか全くわからない。


と、終わっている点や、


◾️多数の草壁皇子の舎人による挽歌(短歌)が併載されている


点を考えると、確かに、人麻呂は草壁皇子の身辺に仕えていた可能性はある。


それにしても、公的な挽歌に、使用人たちの動静をからめるなど、私的事情を持ち込んで良いものだろうか。おそらく、人麻呂に限っては許されたのだろう。持統天皇が良いと言うものは良いのだ。


さらに、草壁(あるいは忍壁)皇子の身辺にいることから、長男の高市皇子との交流もあった。


高市皇子としては、幼い弟と話しても面白くないので、同年の人麻呂に、


「ところで人麻呂くん、壬申の折にはどこにおりました?」などと聞き、人麻呂は、


「琵琶湖に舟を出し、密かに大海人皇子さまの軍に兵糧を運んでおりました」とか、


さらに高市皇子は、


「人麻呂くん、627日夜の雷雨には遭ったかね?」などと聞く。


人麻呂「はい、私は高島の港で、漁師に変装した間者と会っておりました。高島砦(近江朝方)の様子を、大海人さまの軍にお知らせするためです。その時、対岸の伊吹山に向かって、恐ろしい雷神が乱れ落ちて行ったのです」


高市「ははは、その落雷の下に父上と私はいてね、父上は『神々よ私をお助けくださるのならこの雷雨を止めたまえ』と祈った。すると、時を待たず雷雨は収まった。まあ、夏の通り雨だからね、止んで当然なんだけど、父上はにっこり笑われた」


とか?


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# by kugayama2005 | 2019-09-21 22:44 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の、


近江朝(近江荒都)、草壁皇子(挽歌)については冷めた目

明日香皇女(挽歌)、高市皇子(挽歌)については万感の哀切


と分類してしまったが、今回は2については触れない。


明日香皇女と高市皇子は、持統天皇の偏愛の対象であり、それは柿本人麻呂においても同様だった。


明日香皇女(あすかのひめみこ)は、天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹ということになる。明日香と忍壁は、睦じい仲だった。


高市皇子は、天武天皇の長男だが、母の身分が低いため天皇候補の序列には入れなかった。野望はなく、篤実に手際よく職務をこなしたためか、持統下で事実上の最高職、太政大臣に任命されている。


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# by kugayama2005 | 2019-09-20 23:52 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の草壁皇子挽歌に併載されている舎人(下級官吏)たちの短歌の中に、少し気になった短歌があった。


◾️鳥座(とりぐら)立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね


【意訳】鳥小屋をつくり皇子が飼っていた雁の子よ 巣立ったならば真弓の岡にお身体を横たえた草壁皇子のもとに飛んで来なさい


草壁皇子の身体は、「島の宮」という住居から、馴染みのない「真弓の岡」という場所に移され、仮に安置されていた。(身体から魂が抜けても、魂を呼び戻すことができるはずだ、という考えからだが、それは当時すでに形式化していたという指摘もある。後に持統天皇は、自らの遺骸を即火葬に付すよう指示して、古代からの思想を破却した)


他にも、島の宮で放し飼いにされていた水鳥の歌が、(人麻呂作を含めて)あるが、この歌は実際に鳥係を仰せつかった舎人の作ではないか。子雁よ、早く巣立って、本葬が行われる前に、真弓の岡の草壁皇子のお身体に会いに来なさい。


会いに帰りなさい、なのか、会いに来なさい、なのか。おそらくこの舎人は、島の宮と真弓の岡を往復して公務を行なっていたのだろう。


島の宮で雁の子を世話するにつけ、「きみのいるべきところは草壁皇子の元だから、そこへ帰りなさい」、真弓の丘で雁の子を思い出すにつけ、「雁の子よ、早く巣立って草壁皇子の元に飛んでおいで」というわけで、「飛び帰り来ね」という幻想二重性が発生する。


それで、言いたいことは、公務多忙なはずの27歳の皇太子が、思い入れを込めて水鳥を飼っていたということなのだ。政治向きの高市皇子や大津皇子が、そのように鳥の飼育に夢中になるとは想像できない。


母持統が、近江朝を脱出するとき、(高市皇子や大津皇子は近江朝に置いたまま)、草壁皇子と幼い忍壁皇子を連れ出したのは、やはり草壁は政治や軍事に向いていなかったゆえだろう。


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# by kugayama2005 | 2019-09-19 23:18 | 2019日記 | Comments(0)

2019日記【260】柿本人麻呂についての私的妄想27


一般に、持統天皇は、


自分の産んだ草壁皇子を天皇にしたい一心で、姉の子大津皇子を見殺しにし、

草壁皇子早生によりその息子(持統にとっての孫=後の文武天皇)を天皇に即位できる年齢までがんばって在位し通した。


子への愛、孫への愛によって、天皇であり続けた、と見なされているが、それは間違えではないか。持統天皇は、天皇であり続ける政治基盤を、自ら強化し、維持していた。そして、その帝位を継承する相手は、亡き夫天武より優れた者でなければならない、という強い信念があった。


持統天皇は、息子の草壁にも、軽皇子(後の文武天皇=持統の孫)にも天皇たる素質を認めていなかった筈だ。持統天皇は少年時に亡くなった、言葉を発しない弟タケルが、宮廷では生きていけないという現実を見て育った。


しかし、結果から見るとたしかに、持統文武(孫)元明(息子の妃)元正(孫)聖武(ひ孫)孝謙(ひひ孫)淳仁(天武系・天智系の折衷)称徳(=孝謙)※ここで天武系が消滅


と、一定期間は天武系が続いたので、一般に言われている持統天皇についての1、2の解釈は、結果から遡行してのそうあるべきという推論であろう。


(その後は、光仁(天智天皇の孫)桓武(天智天皇のひ孫)※長岡京・平安京へ遷都、と天智系になる)


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# by kugayama2005 | 2019-09-18 23:51 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

妄想もいいかげんにしろ!、と言いたいところだが、言ってしまおう。


柿本人麻呂の長歌を分類してみると、


近江朝(近江荒都)、草壁皇子(挽歌)については冷めた目

明日香皇女(挽歌)、高市皇子(挽歌)については万感の哀切


と、まったく様相が違う。この違いは、ありていに言って、持統天皇の心情であり、それを全面的に人麻呂が受け入れているのだろう。持統天皇の、明日香皇女、高市皇子への偏愛は明らかだ。


それに反して、天智天皇(父)、草壁皇子(息子)への冷たい眼差しはなんなのだろうか。持統天皇には、父と息子に流れている何かを拒否したい動機があるのだろうか。


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# by kugayama2005 | 2019-09-17 23:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️689 草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


【大意】

・(前半はアマテラスから天武までの神話体系を謳い上げる)


・(後半は草壁皇子について、)

(天武天皇は神のままで天上へ登った=神上がりした。そこで、それに続く)草壁皇子の世は、春の花の貴いように、望月が満ちるように、世の人々が大船に乗ったように頼みとし、慈雨を仰いで待つように、(皆が期待していたのに、草壁皇子は)どのように思われたのか、皆にとってなにも馴染みのない真弓の丘に(ご遺体となって安置され)太い宮柱を建て、御殿の甍を高々と上げ、朝廷のお言葉もなさらず月日は経ってしまった。それ故に、草壁皇子に仕えた宮人たちは、どうなっていくのか全くわからない。


私の勘違いかもわかりませんが、草壁皇子を追悼するというよりも、皇子の突然の死によって皆が混乱している、という終わり方は尋常ではない。


この後続く、明日香皇女(忍壁皇子の妃)や高市皇子への人麻呂挽歌にみられるような、万感迫る哀切は、ここには存在しない。


また、多数の草壁皇子の舎人による挽歌(短歌)が併載されているのも奇妙な感がある。


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# by kugayama2005 | 2019-09-16 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

◾️ふたつの挽歌


【妄想】柿本人麻呂

 年齢は今のところの推定


◾️686年(33歳)天武天皇崩御

    持統天皇による挽歌(額田王引退?)

◾️689年(36歳)

    草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


私は、天武天皇への挽歌は、名義は持統天皇作になっているけど、実作者は額田王だと思う。


それから3年後の、草壁皇子への挽歌は、柿本人麻呂作であると記されている。


天武天皇崩御の後、額田王の役割が、人麻呂に任じられたのだろう。額田王は、弓削皇子や人麻呂との交流も続けており、宮廷歌人としては存在感を放ち続けている。


伊藤博氏は「萬葉集釋注」の中で、草壁皇子挽歌(人麻呂作)について、「天武天皇までを神話のなかの神とし、草壁皇子が人皇第1代」という見方をされている。


額田王から柿本人麻呂へ、という交代も、確かにそういう考え方に即している。


時代は律令制を推し進め、神権政治からすでに法治へと、大きく舵を切っている。リアリスト持統が、側近の詩人にも、時代への同道を求めたといえる。


また伊藤博氏は、人麻呂が表現した長歌と反歌の緊密な緊張感は、「人麻呂と持統宮廷が時代精神の極限として生み出したもの」と指摘しているが、まさにその通りだと思う。


後の「安騎野遊猟歌」で、それはさらに高みを迎える。


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# by kugayama2005 | 2019-09-15 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️681225日、草壁皇子は、確かに皇太子になっている。


しかし、日本書紀は、


◾️68321日、大津皇子が初めて朝政を執る


と、明記している。


この時期、天武天皇はたて続けに政治改革を実施し、実務も山積していた。「大津皇子が朝政を執る」という書き方は、不気味だ。


大胆に解釈すると、681年に草壁皇子を皇太子にしてみたが、実務的に無理だったので、大津皇子に朝政を任せた、とも読める。


そうであれば、天武天皇崩御の686年には、実務を重んじる人の目には、後継は大津皇子だということになろう。


あるいは、草壁皇子の皇太子就任が虚偽の記事だったと言えなくもない。となると、6795月6日に行われた「吉野の会盟」(天武天皇とうののさらら皇后が、天武の6人の皇子に対し、争わぬことを誓わせた。皇子側からは草壁が代表して誓約した。草壁が代表して答えたことで、事実上後継者と見なされる)がきわめて怪しい。


草壁皇子は「今後、この誓いに背いたならば命は亡び子孫は絶えるでしょう」と断言している。天武天皇もそう言い、おそらく、うののさららもそう誓約した。誓いに反すれば命を失う、という、くどい念押しだ。


大津皇子の刑死を正当化するため、7年遡って、誓約の場を創造したという疑いを持たれてもしかたがないほど、「吉野の会盟」は突如劇的に書かれている。


日本書紀には、さほどの潤筆はないと思うが、持統天皇の関係は本人の強い意志で曲げられている可能性はある。それに対抗して、後世の編纂者は、大津皇子を賛美する「懐風藻」の文章を押し込んだりしたのだろう。


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# by kugayama2005 | 2019-09-14 01:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

吉野浩子先生は、「草壁皇子の死〜ある白昼夢〜」という一文のなかで、草壁皇子は持統天皇・藤原不比等ラインに毒殺された、という空想を語っている。


私の妄想も、吉野浩子先生に大きく依拠しているのだが、まず、草壁皇子の死の20年以上前のことである。


斉明天皇に付き従って、百済復興戦争準備のため、父(天智天皇)、夫(天武天皇)とともに九州に赴き、


姉(おおた)、妹(うののさらら)は、彼の地で続いて出産した。


妹の生んだ子が後の草壁皇子(662年生まれ)

姉の生んだ子が後の大津皇子(663年生まれ)


姉の子大津は、成長して何においても立派で、才能もあり、外見も好ましい。天智天皇は、近江朝の若きスター大津(天智天皇にとって孫でも甥でもある)を、すこぶる愛した。


近江朝が続いていれば、大友皇子(父が天智)、妃の十市(父が天武/母が額田王)、そして大津皇子が主役となっただろう。(ちなみに大津皇子の大津は近江の大津とは関係がなく、生まれた那大津=博多あたりの地名に由来している)


一方、草壁皇子は、いつから皇太子になったんだっけ?、と調べ直さないと忘れるほど影がうすい。681225日、確かに皇太子になっている。


さてここでふと考えた。壬申の乱のおり、近江朝を脱出した高市皇子と大津皇子は、兵を揃えて山越えし、父大海人皇子(天武天皇)に立派に参陣している。その時、草壁皇子は?、実は草壁は父母とともに先に近江朝を去って、すでに吉野から随伴していたのだ。はっきり言って、母親べったりではないか。


うののさらら(持統)が自分の産んだ子(草壁)を連れて出たのは自然かもしれないが、そうであれば、もう政治的野望は放棄し、隠棲するつもりだったのかもしれない。


大海人と、うののさらら(持統)が近江朝を去り、吉野に向かった当初は、ほんとうに仏道に入る決意だったのではないか?、と以前書いた。高市と大津を近江朝に残し、草壁を連れて出立したのは、母うののさららの意向だろう。おそらく、高市や大津のように政治向きでもなければ軍事にも弱い草壁を、母はいとおしく思ったのだろう、吉野で出家させて仏道に励めば、と。


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# by kugayama2005 | 2019-09-13 02:25 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大津皇子、草壁皇太子についての日本書紀の記述


大津皇子(謀反が「発覚」し刑死)

『威儀備わり言語明朗で天智天皇に愛されていた。成長するに及び有能で才学に富み、特に文筆を愛した。この頃の詩賦の興隆は、大津皇子に始まった』(686103日)


草壁皇太子(原因不明の突然死)

『皇太子草壁の皇子が薨去された』(689413日)


天武天皇崩御の後、3週間後にクーデター計画が発覚し、翌日処刑された1大津皇子について、その人となりを賛美し、


一方で2草壁皇太子については、何の背景説明もなく「亡くなりました」、というだけの記載には誰しも強い疑義を持つだろう。大津皇子の死も、草壁皇太子の死も、ともに謀殺ではないか、と。そこに共通して存在するのは、もしかして持統天皇の権力欲ではないのか、と。


しかし、権力欲というものは、姉の子や、自身の子をも、ためらわず殺めるものなのか?


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# by kugayama2005 | 2019-09-12 01:35 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇の時代が始まって、大津皇子、草壁皇太子が世を去った。


ここまでの年表と、カッコ内は柿本人麻呂の推定年齢。


671 天智天皇崩御(18歳)

672 大友皇子縊死(19歳)

678 十市皇女(とおちのひめみこ)突然死(25歳)

68699 天武天皇崩御(33歳)

686102 大津皇子の変(翌日処刑)(33歳)

6878 天武天皇の葬送関連行事

689 草壁皇太子薨去(36歳)


十市皇女の突然死も疑問が多いが(人によっては自殺という)、大津・草壁については、謀殺という見方もある。


柿本人麻呂が持統側近として姿をあらわす時期なので、大津・草壁について考えてみたい。


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# by kugayama2005 | 2019-09-11 00:03 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️近江荒都歌2


近江荒都歌1(短歌2首)は、壬申の乱から7年が経った678年春、十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死の直前にまとめられた。


近江荒都歌2(長歌を含む全体)は、万葉集の配列による推定=688年ころまとめられた、


というのが妥当かもしれない。


近江荒都歌2(長歌)


(万葉集の編纂にあたって誰かが付けた詞書(題詞))

◾️近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌


以上の詞書(題詞)に引きずられて、「人麻呂が、仕える貴人とともに、荒れ果てた近江京跡を通り過ぎた際、詠まれた長歌」と解釈する向きが多いが、それは違うと思う。人麻呂は彼の地の事情を深く知っており、すでに近江荒都に関する草稿を多数持っていた。それを、発表の機会に再編集したのだろう。


(長歌の本体)

◾️たまたすき畝傍の山の橿原の ひじりの御代生(あ)れましし 神のことごとつがの木の いや継ぎ継ぎに天の下 知らしめししをそらにみつ 大和を置きて青丹よし 奈良山を越えいかさまに 思ほしめせか天離(あまざか)る ひなにはあれど石走る 淡海(あふみ)の国の楽浪(ささなみ)の 大津の宮に天の下 知らしめしけむ天皇(すめろき)の 神のみことの大宮は ここと聞けども大殿は ここと言へども春草の 茂く生ひたる霞立つ 春日(はるひ)の霧れるももしきの 見れば悲しも


【意訳】

(大君が)代々、神として治めていた大和の地を離れ、奈良山を越えて、何を思われたのか、さらに遠くの大津の宮で国を統べられた天皇の、宮廷はここにあったと聞いても、大殿はここだったと言っても、春草が茂り生いて霞がたち、春なのに霧がかっているだけで、廃都の痕跡さえなく、見るも悲しく耐えがたい。


以上の長歌は、「いかさまに 思ほしめせか」に、異様な印象を受ける。(「いかさまに 思ほしめせか」は一種の常套句であり、神である天皇の考えは人智では理解しがたいという意味であるにしても)、現代風に言えば、「何を考えてんだか」ということになりはしないか。「大和にいればいいものを何を考えてんだか大津の田舎に」というニュアンスがあるとすれば、それは持統天皇の心の内だろう。


私的妄想では、その私の説を強く支持する (笑


琵琶湖畔に唐まがいの大宮をたて、百済貴族を大量に登用し、毎晩漢詩の宴をくりひろげる父天智天皇への、うののさらら(持統)の冷たい視線を感じる。


天武天皇も近江朝の皇太子だったわけだから、天武生前にこの歌は作られなかったろう。長々と続く天武天皇葬送の儀の合間に、持統天皇は、


「父は何を思って大津に?(それがなければ多くの悲劇は避けられたはず)」ともらしたのだろう。


ところが悲劇は持統天皇のもとでも続くのだ。


68699 天武天皇崩御(持統天皇・草壁皇太子への移行)

686102 大津皇子の変(翌日処刑)

6878 天武天皇の葬送関連行事が連続して行われた

689 草壁皇太子薨去


◾️大津皇子の父は天武天皇、母は持統天皇の姉・大田皇女

◾️草壁皇子の父は天武天皇、母は持統天皇


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-10 01:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️近江荒都歌1 


◾️ささなみの志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ

 

◾️ささなみの志賀のおほわだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも


(現代で読みやすいように表記を少し変えてある)


この2首には、少なくとも2人の、結果としては3人の悲しい死が反映されている。


671 天智天皇崩御

672 大友皇子縊死

678 十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死


【意訳】

◾️さざなみ寄せる志賀の辛崎の港よ。おまえは変わらず残っているが、滅亡した近江朝の貴族たちの船は、待っていてももう来るわけがない。


◾️さざなみ寄せる志賀の大わだの湖面は流れもせず、静かに、ここだけ時間が止まっているかのようだ。だが、死んでいった昔の人にふたたび逢うということがあろうか。そんなことは、ありはしない。


この歌は、額田王を強く意識してつくられている、


【参考】天智天皇の大殯(おおあらき=仮葬)の時の(額田王の)歌

◾️かからむとかねて知りせば大御船は

てし泊に標結(しめゆ)はましを

 (このように(夫)天智天皇が亡くなってしまうと知っていたならば、あなたのお船を泊めている港にしめ縄をして、船が出て行かないようにしたものなのに)


(次いで舎人吉年の歌)

◾️やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎

 (わが大君のお船を、志賀の唐崎(=辛崎)の港は今も待って思い続けているだろうに)


仮葬の天智天皇の遺体から、魂はすでに抜け去ってしまった。殯(あらき)という行事は、その抜け去った魂を呼び戻す意味があったらしい。


しかし、柿本人麻呂の2首は、

◾️船は、待っていてももう来るわけがない

◾️昔の人にふたたび逢うということがあろうか。そんなことは、ありはしない。

と、きびしく断絶している。


額田王が天智天皇側近の女性たちと大殯に臨み、歌を残した日から半年後、壬申の乱によって大津の都は敗亡、都の主大友皇子は山中で縊死した。


額田王にとって天智天皇は夫、大友皇子は娘の十市皇女(父は天武)の夫だ。本来なら、近い将来、ふたりは近江朝の天皇皇后のカップルだ。


さらに6年後(678年)、十市皇女は宮中で突然死している。最愛の娘を失った天武天皇、額田王は激しく動揺した。


柿本人麻呂が、「近江荒都歌1」を宮中歌壇で披露したのが十市皇女の死後だとすると、そこで「死者は戻らない」と断じるのはあまりに厳しすぎるのではないか?


思うに、人麻呂がこの2首を披露した直後に、十市皇女の突然死があった。


そして、人麻呂はただの詩人ではなく、死者の霊魂を揺りうごかす特異な人と認知されたのではないか。そして、死の現実を直視することができた、異端の古代人だったのかもしれない。(その異端さは、後述の「石見国自傷歌」に強く現れる)


この歌を聞いて動揺しなかったのは、一人うののさらら。彼女は、死んだ人は帰ってこないと考えていた。


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# by kugayama2005 | 2019-09-09 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


さて、いよいよ柿本人麻呂の宮廷への登場、「近江荒都歌」


場所は、飛鳥浄御原の宮殿、「うののさららサロン」。宮廷歌壇には、かげに額田王が君臨していた。


672  壬申の乱)

680年より前  柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)

◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)

◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)


以上の妄想は、巡遊神人だった柿本人麻呂が、詩才を認められて朝廷の舎人(下級役人)に採用され、「うののさららサロン」で近江朝への哀悼歌を披露し、たちまち天皇皇后のお気に入りとなった「近江荒都歌1」、


そして、それをさらに精査し、長歌を加えて形式を強化した「近江荒都歌2」という見立てだ。


近江荒都歌1は、おそらく短歌の部分。

近江荒都歌2は、長歌を含めた全体(万葉集に収録されているもの)。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-08 01:56 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

壬申の乱は白村江敗戦の清算でもある。


天智天皇は、白村江敗戦の責任でがんじがらめになった。当人は、母斉明天皇に引きずり回されただけだったが、出兵した西国の、敗戦対応で使役された東国の負担と怨嗟は大きかった。


斉明天皇の崩御で、出兵取り止めのチャンスはあったかに見えるが、どうだろう。


北九州勢力と、畿内勢力は、この頃までは拮抗していたのだろう。北九州勢は、百済を一部復興し、そこに事実上の傀儡政権ができれば、畿内を圧迫できる。斉明天皇はおそらくその点で北九州勢を煽り、畿内の損耗を防ぎつつ、最終的には漁夫の利を得ようとしたのではないか。


結果的には、唐軍本体の参戦が敗因だが、新羅の外交手腕ともいえる。唐は半島派兵を機密にし、長安にいる遣唐使を軟禁するという徹底ぶりだ。


それらの失敗の責任は天智天皇に重くのしかかったが、皇太子だった大海人皇子(後の天武天皇)も責任を逃れることはできない。皇位を兄から継ぐことは、全責任を負の遺産として受け取ることになる。


天智天皇が崩御して、その直後になんらかの清算を行うしかない。近江朝と大友皇子は、その清算の代償として滅び去った。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-07 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

壬申の乱は3週間の戦争だ。


天武天皇、高市皇子は、実戦には加わっていない(ということは戦争の実体は東国による近江朝攻撃と見える)。日本書紀によると天武天皇は壬申の乱の功績を重視し、多く報いている。ただ、東国の軍勢以外は、当初から旗色鮮明だったかどうかは疑問だ。戦争の要点は、勝つ方に付くことだから。


柿本人麻呂が、琵琶湖西岸を拠点にしていたかどうかは証明されないが、都から遠い近江の地に、いきなり天智天皇の都が引っ越してきたのだ。湖岸に映える、唐もどきの夢のような都。(ただし条里は敷いていなかった)


これは地元としてはチャンスではないか。北陸道の要衝にある、和邇・柿本の地も大歓迎だ。しかし、近江朝は5年で夢まぼろしのごとく消え去る。


667319 中大兄皇子(天智天皇)飛鳥から大津に遷都

66813 天智天皇即位

6691016 藤原鎌足死去

67115 大友皇子太政大臣に

6711017 大海人皇子(天武天皇)吉野に去る

671123 天智天皇崩御

672 壬申の乱、廃都


柿本人麻呂が壬申の乱の際18歳と仮定すると、近江遷都は13歳の時。人麻呂が巡遊神人として活動し、後に朝廷の舎人として採用されたというのならば、まさに青春のめくるめくこの5年だったろう。


天武天皇は、近江朝を出て吉野に向かう途次、身辺の舎人たちを集め、


「朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引き返して役所に戻りなさい」と諭し、半数の舎人が近江朝に戻っていったという。その中に柿本人麻呂がいたとすると面白いのだが。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-06 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


さて、巡遊神人として旅を重ねていた青年柿本人麻呂に、転機が訪れる。


壬申の乱だ。


簡単に推移をおさらいしておこう。


◾️

672624

大海人皇子(後の天武天皇)隠棲先の吉野を出発、宇陀、名張、鈴鹿、三重を経て26日桑名に至る。

・高市皇子及び大津皇子と伊勢で合流するよう手配(他の男子は幼なすぎて使いものにならない)

・高市皇子は甲賀越えして合流

・大津皇子は鈴鹿関に到着

 (両皇子は近江朝を脱出してきた)


素直に考えれば、結果的に伊勢にはいかなかったのかもしれないし、陽動作戦かもしれない。あるいは、尾張氏らを頼って急速に北上したのでは、伊勢氏らの顔が立たず、伊勢での集合話を後付けしたか?  方位の吉方を選んだ説もあるが、そんな余裕があるとは思えない。(実は桑名は、伊勢国の最北部だから南下しなくても伊勢には行ったことにはなる。ということに最近気づいた)


672627

・大海人方の美濃勢三千が不破関を占拠、高市皇子が不破に派遣される

・父から全軍の指揮を託された高市皇子は、桑名にいた父に「そこでは遠すぎます。もっと近くに来てください」と求める


67272

・大海人軍数万が、鈴鹿関を越えて大和に向かった

・大海人軍数万が、不破関を越えて近江に向かった


(数万というのは誇張であろう)


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・琵琶湖東岸を南下した大海人軍本隊が、戦闘のすえ琵琶湖南端の瀬田に達し、瀬田橋をはさんで近江朝の大軍と対峙した

・大友皇子と近江朝軍は、対岸に見渡す限りの大陣営を敷いていた


672722

・大和に鈴鹿越えで向かっていた大海人軍は、大和を制圧。難波に向かった。


672723

・琵琶湖西岸を進んだ大海人軍は、三尾城を攻略し、北陸道を制圧した

・瀬田の大海人軍が近江朝軍に突入し、官軍は壊滅、大友皇子は自殺。


月日は日本書紀による旧暦


【地図】赤線が大海人軍の進路、緑色が大海人皇子の吉野脱出路:いずれもアバウト


 不破関(大海人方の集結地)


特に柿本人麻呂に関連がありそうな地点は、


三尾城(近江朝の防衛拠点を大海人軍が突破)

和邇・柿本族の拠点


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# by kugayama2005 | 2019-09-05 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️凡海麁鎌(おおあまのアラカマ)とは、


凡海(大海)氏は安曇氏などとも関係が深い、海運に長けた一族らしい。年表で調べてみると、


凡海麁鎌氏本人が、大海人皇子=天武天皇の養育に直接関わったとするには、年齢が若すぎる。凡海麁鎌は、柿本人麻呂よりやや年長と見るのが妥当かもしれない。


凡海麁鎌は天武天皇の弔辞を1番目に述べいる。弔辞を呈する者の順は、内容が天武天皇の若年時のものから並べられたにしても、凡海氏の重要性は疑いがない。


おそらく、大海人皇子=天武天皇を養育したのは、凡海麁鎌の父母であろう。


次に、文武天皇即位(持統天皇譲位)後、凡海麁鎌は陸奥国へ赴任している。陸奥国の産物で名高いのは、鷹の羽根(矢に使う)、アザラシなど海獣の皮(高級服地)らしいが、後の平泉の様子をみても、砂金の産出があったのだろう。凡海麁鎌に期待されたのは、金の産出と、北上川の水運ではないか。


ただ、50歳くらいになっての陸奥国行きは、栄転とは言えない。


柿本人麻呂もその頃、都を去ったと推測できる。


おそらく、天武・持統側近の者を遠ざけたのだろう。


622年(推定) 天武天皇 誕生

660年(推定) 柿本人麻呂 誕生

686 天武天皇 崩御(推定65歳) 凡海麁鎌 弔辞を述べる(大海人皇子=天武天皇の幼少時に凡海氏が養育したことについて)

697 文武天皇 即位(持統天皇が譲位)

700702年(推定)柿本人麻呂 都を去る(最終的には石見国へ?)

701 凡海麁鎌 陸奥国へ赴任(冶金を命じられる)

702 持統天皇 崩御


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1


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# by kugayama2005 | 2019-09-04 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて巡遊神人・柿本人麻呂、先輩について神社運営・フランチャイジーの管理・祝詞デリバリーなどに励む一方、陸路・海路での移動の習熟、地域事情の知識獲得などを重ねた。地域地域の風俗、歌舞音曲を知った。おそらく副業として地域の珍しい特産物を仕入れてきた。


中世では人身売買も密かに、あるいは大っぴらに(山椒大夫にある安寿と厨子王のように北陸道あたりでも)、あった。古代においてはなおさらだ。まさか人麻呂は人さらいまではしなかったと思うけど、知っていたと思う。


◾️柿本人麻呂が巡遊神人だったとして、彼の少年期の才能を妄想してみよう。


神人という低い地位で、祝詞をあげることが許されていたかどうかは不知だが、おそらく、人麻呂は人気があった。小野・和邇系は多くなさそうでも、中臣(藤原)系の神社は多数あったろうから、各地の祭事に派遣されているうち、天才少年として認知された。


そうでなければ、後に朝廷の舎人に推挙されなかっただろう。


柿本人麻呂を朝廷に推挙した人物を、大胆に妄想すると、それは、


◾️凡海麁鎌(おおあまのアラカマ)一族


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-03 00:41 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大祓のなかのイメージと人麻呂4


「大祓(おほはらへ)の詞(ことば)」の成立過程についてはまったく無知だが、今後の課題としておくとして、


アマテラス=ヒミコの北九州連合国形成過程、すなわち(九州)「邪馬臺国の平和」の時代、邪馬臺国は連合国のガバナンスを学んだ。


北九州連合は崩壊し、再びクニグニの戦国の世となり、邪馬臺国は東遷した。東遷する様子を日本書紀で考えると、彼らは航海に暗く、戦争も下手で、人数も少なかった。


しかしイデオロギーは維持され、アマテラスの一族(天皇一族)は、自分たちを「天の者」(天つ神)とし、高天原とは無関係の「その他クニグニの者」(国つ神)を統べる根拠としている。


そして、畿内の地に、(九州)邪馬臺国=あまつ国(天の国)を、復元しようとした。


と妄想して、「大祓」はそのためのイデオロギーの精華だと言えないだろうか。


・「天の者」(天つ神)

・「その他クニグニの者」(国つ神)

・「八百万の神」(列島に現れた鬼才たち)


これらの者から、超荒ぶる神は排除して、連合を維持できる体制(つまり新邪馬臺国の平和ドクトリン)に賛同した者を組み入れていく。その枠内では、アマテラスの一族(天皇一族)によって、定期的に罪が清浄化される。(ということは法的規範はアマテラスの一族のみが決めるという上から目線ではある)


連合内では、水田稲作や冶金の技術が共有化され、課税が合理化された。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-02 01:41 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大祓のなかのイメージと人麻呂3


大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち艫解(ともと)き放ちて大海原(おほうなばら)に押し放つ


意味は:

港に繋がれている大船の綱を解き放ち、大海に押し放つ


すなわち、

「綱を解いて大船が大海原に放たれるように、すべての罪は、払い去られ清められるだろう」


海や渓流は、罪を押し流す希求なのでしょう。柿本人麻呂の歌には、海、川のイメージが豊富です。言ってみれば、人麻呂の少年期は、古代人の世界観としての自然信仰に満たされており、かつまた職業としての巡遊神人として自立しようとしていた。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-09-01 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大祓のなかのイメージと人麻呂2


國つ神は高山(たかやま)、短山(ひきやま)の末に上り坐して


意味は:

(天つ神は天の八重雲を分けて聞き)国つ神=地上の神は高い山、低い山に登って聞く


何を聞くかというと、世の中のあらゆる罪をバッサリと切り倒し、清浄化する祝詞を聞くのです。


すなわち、

「(天の神はさておき)、われら地上の者は、(国つ神のように)高かろうが低かろうが山頂に登り、あらゆる罪が滅せされる祝詞を聞こうではないか」


やはり柿本人麻呂にも、山岳信仰が息づいていると思います。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-31 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


なかなか表題の、壬申の乱と近江荒都に行き着かないのですが、大祓のなかのイメージについてだけ今は触れておきます。


◾️大祓のなかのイメージと人麻呂


磐根樹根(いわねきね)をも語止(ことや)めて天の磐座(いわくら)放ち


・磐根樹根は、自然信仰の対象たる、岩や樹根

・天の磐座は、高天原の宮


意味は:

岩や木の根も口を閉ざし静かになって、高天原の宮を下った


すなわち、

「集まった神々も、岩や樹根や草の葉さえ口ぐちに思いを述べていたが、皆、口を閉ざした。いよいよ高天原を去る、ディアスポラが下されたのだ」


これは柿本人麻呂のいわゆる「石見国自傷歌」に投影されているイメージです。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-30 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


さて、ところで柿本人麻呂が巡遊神人だったとして、彼の少年期の才能を妄想してみよう。


下部に、「大祓」を書き写してみた。おそらく書き間違えがあると思うが、許されよ。


人麻呂はきっと10歳くらいで、この「大祓」をよどみなくとなえることが出来た、と思う。ただとなえるだけではなく、ここに凝縮している語法、リズム、イメージの展開を、我がものにしていた。さらに、舶来の宗教観が混交していない古代のエスプリを、無尽に吸収したのだと思う。


◾️大祓(おほはらへ)の詞(ことば)


高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す皇(すめら)が親(むつ)神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の命(みこと)以ちて八百萬󠄄神(やほよろづのかみ)たちを神集(かむつど)へに集へ賜ひ神議(かむはかり)に議り賜ひて我(あ)が皇御孫(すめみま)の命は豐葦󠄂原(とよあしはら)の水穗國(みづほのくに)を安國(やすくに)と平󠄁けく知食󠄁(しろし)めせと事依(ことよ)さし奉(まつ)りき此(か)く依さし奉りし國中(くぬち)に荒󠄄振る神等(かみたち)をば神問はしに問はし賜ひ神掃(かむはら)ひに掃ひ賜ひ語問(ことと)ひし磐根樹根(いわねきね)立草󠄂(たちくさ)の片葉󠄂(かきは)をも語止(ことや)めて天の磐座(いわくら)放ち天の八重雲を伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別きて天降(あまくだ)し依さし奉りき此く依さし奉りし四方(よも)の國中と大倭(おほやまと)日高見國(ひだかみのくに)を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立たて高天原に千木(ちぎ)高知(たかしり)りて皇御孫の命の瑞(みづ)の御殿(みあらか)仕へ奉りて天の御蔭(みかげ)日の御蔭と隱り坐して安國と平󠄁けく知ろし食󠄁さむ國中に成り出でむ天の益人(ますひと)らが過󠄁ち犯しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は天つ罪(あまつつみ)國つ罪(くにつつみ)許許太久の罪(ここだくのつみ)出でむ此く出でば天つ宮事(みやごと)以ちて天つ金木(かなぎ)を本(もと)打ち切り末(すゑ)打ち斷ち千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らはして天つ菅麻󠄁(あまつすがそ)を本刈り斷ち末刈り切りて八針(やはり)に取り辟(さ)きて天つ祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ此く宣らば天つ神は天磐門(あめのいはと)を押し披(ひら)きて天の八重雲(あめのやへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて聞こし食󠄁さむ國つ神は高山(たかやま)の末(すゑ)短山(ひきやま)の末に上り坐して高山の伊褒理(いほり)短山の伊褒理を搔き別けて聞こし食󠄁さむ此く聞こし食󠄁してば罪と云ふ罪は在らじと科戶(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く朝󠄁(あした)の御霧(みぎり)夕(ゆふべ)の御霧を朝󠄁風夕風の吹き拂ふ事ことの如く大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち艫解(ともと)き放ちて大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を燒鎌󠄁(やきがま)の敏鎌󠄁(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く遺󠄁(のこ)る罪は在らじと祓(はら)へ給ひ淸め給ふ事を高山の末短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ速󠄁川(はやかは)の瀨に坐す瀨織津比賣(せおりつひめ)と云ふ神大海原に持ちも出でなむ此く持ち出で往(い)なば荒󠄄潮󠄀(あらしほ)の潮󠄀の八百道󠄁(やほぢ)の八潮󠄀道󠄁(やしほぢ)の潮󠄀の八百會(やほあひ)に坐す速󠄁開都比賣(はやあきつひめ)と云ふ神持ち加加呑(かかの)みてむ此かく加加呑みてば氣吹戶(いぶきど)に坐す氣吹戶主(いぶきどぬしと云ふ神根國(ねのくに)底國(そこのくに)に氣吹(いぶ)き放ちてむ此く氣吹き放ちてば根國底國に坐す速󠄁佐須良比賣(はやさすらひめ)と云ふ神持ち佐須良(さすら)ひ失ひてむ此く佐須良ひ失ひてば罪と云ふ罪は在らじと祓へ給ひ淸め給ふ事を天つ神國つ神八百萬󠄄の神等共(かみたちとも)に聞こし食󠄁せと白(まを)す


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-29 00:40 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


滋賀県大津市小野(琵琶湖西岸)に、小野神社があり、柿本人麻呂が若年時、その神社の巡遊神人だったと仮定して:


琵琶湖の西岸を通る北陸道

琵琶湖の航路


を利用して、小野神の普及に出かけていただろう。また、


現在の京都市左京区あたりにあったらしい和邇氏の拠点のひとつを経由して:


飛鳥北辺の父祖の地、さらに飛鳥の都

淀川水系で難波へ

西国街道(現代の山陽道)、山陰道、海路への選択もある


巡遊神人という立場であれば、かなり自由に往来できたのではないか。天武期の記録によれば、浮浪者が勝手に移動しており、そうした場合には「元の場所と、移動先で二重課税しろ」と命じている(677930日勅)。つまり移動自体をやめさせるのは、半ばあきらめていたのか。


巡遊神人が宗教を本業としても、商売や芸能に才能を発揮していくのは、むしろ当然といえる。


柿本人麻呂も少年時から18歳くらいまで、巡遊神人の環境に育つなかで、小野神社の祭事に特別な才能をあらわしたのではないか?


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-28 00:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


柿本人麻呂が、小野神社の巡遊神人であったとして、現代の小野神社を調べてみた。結論からいうと、下段のリスト6、7(滋賀県)、8(島根県)が柿本氏と関係がありそうで、他はあまり小野氏とも柿本氏とも関係がなさそうだ。


現代でも1000以上数えられる春日神社と比べて、圧倒的に少ない。


驚いたのは、8 島根県益田市の小野神社で、柿本人麻呂は都を去って、石見国で亡くなったとする説があり、人麻呂の子孫は益田氏を名乗ったという。説明文は神社によるものだが、それが事実なのか、高名な歌人を敬って後に伝承が生まれたかは不知。


◾️現代の小野神社の所在地(関係神名・人名、説明)


東京都多摩市 (天下春命<あめのしたはるのみこと>)

東京都府中市 (多摩市のものと一対)

東京都町田市 (小野篁の子孫)

神奈川県厚木市 (小野妹子の子孫)

長野県塩尻市 (建御名方命<たけみなかたのみこと>)

滋賀県大津市小野(米餅搗大使主<たがねつきのおおおみ>)(天足彦国押人命<あめたらしひこくにおしひとのみこと>)

滋賀県高島市 (米餅搗大使主<たがねつきのおおおみ>)

島根県益田市(小野郷はその昔小野族と柿本族が開いた古代文明の発祥の地である。小野は春日族の支族で遠く大和国からこの地に移住し開拓した)

広島県府中市 (小野恒河)

10高知県南国市 (天足彦国押人命<あめたらしひこくにおしひとのみこと>)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-27 02:24 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


折口信夫「柿本人麻呂は、「巡遊神人」であったのであろう」


神人とは、神社の下級職で雑事にあたるのだが、神社そのものの管理よりも、布教の下支えをするのだろう。巡遊というわけで、拠点から拠点へ営業して回るわけだ。そうしているうちに、小商いもし、芸事にも手を染め、漁労も手伝ったりする。身過ぎ世過ぎなのだ。


大集団春日氏のもとを離れて、和邇(ワニ)神を祭る和邇氏が近江の地に至り、小野神を祭る小野氏と新しい拠点をつくる。「小野神祭りに参与する各地の氏人の中に、柿本氏もいた」と折口信夫はいう。


JR湖西線に乗って北上し、琵琶湖大橋のあるあたりを過ぎると、「小野」という駅があり、次の駅は「和邇」。そのものズバリすぎて、“笑けてしまう”。


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# by kugayama2005 | 2019-08-26 00:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


折口信夫は、柿本氏は春日氏の支流で、飛鳥の北辺に本拠地があり、その地は大規模な一族・春日氏の地に近く、宮廷の地の北辺の地境だ、という。


春日氏は、春日信仰に依る集団で、春日信仰は藤原氏の氏神だ。藤原氏は中臣氏のなかでも主に山地に依り、春日信仰も山岳・龍神雷神を説く。


山岳信仰、鹿島から鹿に乗って神の到来。東国的(縄文的)な背景。


折口信夫は、柿本人麻呂は、このような信仰集団の「巡遊神人」であった、と推定している。そうであったとすれば、人麻呂は、「巡遊神人」あるいは「巡遊神人」から抜擢された朝廷の舎人として、壬申の乱を経験したことになろう。神人も舎人も、身分は低い。


672年(19歳)壬申の乱)

680年より前  柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)

◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)

◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)


年齢は今のところの推定

参考書

「全現代語訳 日本書紀」宇治谷

「万葉集 釋注一」伊藤

「折口信夫全集第九巻」(昭和30年)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-25 02:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️柿本人麻呂

  ※年齢は今のところの推定


672年(19歳)壬申の乱)


680年より前  柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)


◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)


686年(33歳)天武天皇崩御  持統天皇による挽歌(額田王引退?))


◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)


689年(36歳)

◾️草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


690年(37歳)持統天皇の吉野行幸)


691年(38歳)

◾️川島皇子(かわしまおうじ)の殯宮で泊瀬部皇女に献歌


692年(39歳)

◾️持統天皇の伊勢行幸に従駕した某女性への歌

◾️軽皇子(かるのみこ)の安騎野遊猟


694 藤原宮 飛鳥浄御原から遷都)


696年(43歳)

◾️高市皇子(たけちのみこ)ための挽歌


697 持統天皇 譲位)


700年(47歳)

◾️明日香皇女(天智天皇の皇女)のための挽歌


◾️石見国自傷歌1

◾️石見国自傷歌2


703 持統天皇 崩御)


709年(56歳)あるいはもっと早く  柿本人麻呂死去?)


710 平城京へ遷都)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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# by kugayama2005 | 2019-08-24 01:40 | 2019日記 | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005