承前:
しかるに「もはき」とは?、ネット検索によると:
「貴族の女子が成人したしるしとして、初めて「裳(も)」を着ける儀式。十二歳から十四歳ごろ、結婚を間近に控えて行われる」
要するに女子の成年式で、「津」は港とすると、女子がお嫁にいけるようになる祝うべき港ということになる。 ↓「裳」(後ろから見たところ)/Wikimedia commons
承前:
しかるに「もはき」とは?、ネット検索によると:
「貴族の女子が成人したしるしとして、初めて「裳(も)」を着ける儀式。十二歳から十四歳ごろ、結婚を間近に控えて行われる」
要するに女子の成年式で、「津」は港とすると、女子がお嫁にいけるようになる祝うべき港ということになる。 ↓「裳」(後ろから見たところ)/Wikimedia commons
承前:
高橋虫麻呂の、常陸国赴任時の長歌を調べてみよう。まず「筑波の山の裳羽服津(もはきつ)」と場所を示す、「もはきつ」とはなんぞや?、と調べてみても意味はわからない。しかし、意外な発見があった。検索によると「(筑波山南麓の)小字臼井、六所、立野、裳萩津(もはきつ)で縄文時代中期の遺跡が発見されている。裳萩津遺跡からは土師器や須恵器の出土もあった。裳萩津は奈良時代に歌垣(嬥歌)が行われた地「裳羽服津」(もはきつ)とされ、夫女が原(ぶじょがはら)の異名を持つ」という。縄文時代から人の集まる場所だったのだ。↓筑波山/古写真
承前:
一方、ヤマトでは高橋虫麻呂(奈良時代の朝廷の役人)が残した長歌が有名。虫麻呂が常陸国に赴任していた西暦700年代前半の作と見られている。
鷲の住む筑波の山の裳羽服津(もはきつ)の その津の上に率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の行きつどひ かがふ(輝く)かがひ(嬥歌=美しい歌)に他(ひと)妻に 我も交(まじ)らむ 我が妻に人も言(こと)問へこの山を領(うしは)く神の昔より 禁(いさめ)ぬわざぞ今日のみは めぐし(目串)もな見そ事も咎とがむな(万葉集巻9-1759 高橋虫麻呂)
※筑波山の「もはき津」に上がったところで若い男女が集っている。その歌垣(かがひ)で人妻とわれも一緒になって、わが妻にひとも言い寄りなさい。筑波の神代の昔から禁じられていないのだから、今日だけは目くじらたてず、咎めるな。 ↓ 小貝川から見た筑波山
ファン申請 |
||