この妄想の骨子を、最初に書いておきます。


1 初代天皇とされている「ほほでみ」(神武)は、卑弥呼と同時代人。

2 「卑弥呼の平和」が破られた時、「ほほでみ」は、畿内ヤマトへ帰還。


その時期は、西暦250年ころ。


その後、ポスト神武から仁徳の15天皇の時代は、約150年間(西暦400年までの間)


さらにその後の歴史は、ほぼ日本書紀にある通り。


【写真】春のジョビたん劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10260968.jpg

e0022344_10261562.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-26 02:08 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大陸の大帝国に対応して、統一した日本国をつくらなければならない、という構想を支援したのは「海の人」---という妄想


史実であるか史実でないかは、私には関係ありません。そういう記述がされたということだけを頼りに、神武天皇の東方行について考えます。


◾️神武天皇

・脱九州(北九州各国の騒乱、南からの熊襲の攻撃を忌避)

・船で日向を出てさっそく漁人に案内を求める(詳しい海路の知識がなかった)

・吉備に逗留すること3年(目的についての戦略は固まっておらず、兵も武器もそろっていなかった)

・河内湾から上陸するもナガスネヒコ(長髄彦)に撃退される(太陽を背負った高地の敵を、低地から攻撃するという初歩的な戦術破綻)-兄ひとり戦死

・紀伊半島を回り込んで熊野に上陸(残された可能性にかけた)-兄ふたり遭難死

・八咫烏(3本脚のカラス)に助けられて紀伊半島縦断(なんとか到達)


日本書紀や古事記になんとなく好感がもてるのは、都合の悪いこともちゃんと書いてあるからです。


【写真】春のヒヨたん劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10182100.jpg

e0022344_10183036.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-25 01:22 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

この時期、すなわち斉明(天智・天武)持統期に、日本国という概念をまがりなりにも実体化しなかった場合、


◾️相当後まで、統一国家は出現しなかった可能性がある


ということについてです。統一国家が良いかどうかは別の問題として。


やはり、隋から唐という大帝国が大陸に出現し、グローバリズムの波が列島に到達したのでしょう。情報の波であり、経済の波及です。そして端的な痛みとしての軍事です。


白村江の戦いで、日本の数多い水軍が、唐の大船に完敗しました。唐・新羅の連合軍が、そのままの勢いで北九州から瀬戸内海に突入してくれば、おそらく防ぎようがなかったのです。


百済再興にかけた斉明天皇が筑紫の地で崩御して以降、ふたりの息子、すなわち天智・天武、実務者としての藤原鎌足の苦悩は大きかったと思います。


大陸の大帝国に対応して、統一した日本国をつくらなければならない、という構想を支援したのは誰か?


結論から私の妄想を申し上げると、それは「海の人」。


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10030051.jpg

e0022344_10030667.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-24 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

斉明(天智・天武)持統期に至るまでの妄想」というのは、私的には「天皇ファミリーはなぜ先住者に支持されるに至ったのか」という意味です。


すこし振り返ってみます。


1 大陸系の新知見

◾️行政制度(令)

◾️刑法体系(律)@

◾️養蚕・絹織物

◾️本草体系(薬理)

◾️金銀などの貴金属


◾️仏教


2 大陸系の旧知見

◾️水田稲作

◾️製銅・製鉄

◾️麻織物

◾️馬産


◾️道教  陰陽五行

◾️文字文化


これらは、在来の知見(◾️呪術など)

の基礎の上に逐次導入された。「1 大陸系の新知見」を大規模に追求したのが、斉明(天智・天武)持統期だったと妄想するのだ。


そのことは、藤原氏(中臣氏)の拡大、大伴氏や物部氏の後退、葛城氏の消滅にもつながっている。


この時期を「斉明期の始まり655~持統期の終わり703」とし、遡って、さて、天皇ファミリーが畿内ヤマトの地に現れたのは何時なのか?


ひとつの目印になるのが、「箸墓古墳」(奈良県桜井市)の存在だろう。箸墓古墳の造営を西暦250年と仮定すると、日本書紀の記述をそのまま当てはめれば、神功皇后の時代になる。そのことには何も意味はないが、日本書紀の時空間のねじまげを縫って、示唆されるものがある、と妄想する。


天皇ファミリーが、奈良盆地の南方向に受け入れられた時期を、強引に西暦250年と妄想する。持統期の大宝律令制定(西暦701年)を、天皇による中央集権政治の第1歩とすると、その間は450年だ。


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10040399.jpg

e0022344_10040901.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-23 02:47 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️斉明期の始まり655年~持統期の終わり703


前史1:

・聖徳太子に象徴される

    →大陸法の導入

    →仏教の導入

・それ以前の大君(天皇)は、諸王と並立


前史2:

・大化改新に象徴される

    →律令制思想(国号=日本、国家元首=天皇、経済=米本位→天皇を唯一の王とする中央集権)


「聖徳太子」「大化改新」は時代思想の象徴であり、制度的実態ではない。


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10052407.jpg

e0022344_10053092.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-22 00:35 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️斉明期の始まり655年~持統期の終わり703年


この激動の時期は、50年未満。斉明天皇と同一人物の皇極天皇から数えても、約60年だ。


この時期の前史は、聖徳太子 (574-622年)に代表される。


大陸では何が起こっていたのか?


隋の煬帝期 604-618年

サーサーン朝ペルシア滅亡 651年


隋・唐との外交関係は?


遣隋使 600-618年

遣唐使 630-839年


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_10071863.jpg

e0022344_10072872.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-21 00:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️田舞


五月五日は薬狩の日と書いたが、天智天皇晩年の記には、天皇に皇太子や群臣が付き添い「田舞が何度か演奏された」とある。


田舞は、田植えの民間行事だったらしいが、朝廷でもそれを行った。現在、住吉大社で行われている、とも、諏訪神社でも行うなどという。


巫女が、田植えの予祝を舞う(YouTubeで見ることができる)。


これらの諸芸が、平安京では民間の娯楽番組ともなり、さらに室町期には観阿弥・世阿弥によって申楽として極まっていくのだろうか。


【写真】カワウ食堂「うのみん」

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_00361222.jpg

e0022344_00361549.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-20 01:20 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️薬狩り 2


女性の薬狩りは、菜摘ということですが、その菜の中には、強い毒性のあるものや、向精神性の作用があるものもあるはずです。


菜摘の場所には、辰砂が見つかるかもしれません。吉野川周辺から伊勢方面では、辰砂が採れます。辰砂は、赤色(丹)の原料でもあり、水銀をつくることもできます。


朝廷がこの場所を、とりわけ神秘的な場所としていた、一つの側面でしょう。辰砂の赤色顔料は、縄文時代から使われていますので、天皇グループがヤマト入りする前の先住民が、その秘密をすでに知っていたわけです。


植物や鉱物の作用、それは健康を促進させたり、あるいは害を及ぼしたりするわけで、私的推測では、巫女的存在はそれらを熟知していた。


妄想ですが、額田王がなぜもてるのかというと、そっちの知識も豊富だったからでは、と思います。


さて、亡命渡来系の知識人が、特に百済滅亡後たくさんやって来て、朝廷で地位を得ますが、近江朝で採用された官僚のうち、薬学系の面々は、


・㶱日比子 贊波羅 金羅金須(これが一人の名なのか、三人なのか不知)

・鬼室集信

・德頂上

・吉大尚


というわけで、全員、百済人です。上の2名が上級職で、百済での官位も上位だったと推察されます。(2019日記【071】で触れた人事)


ここでも、旧来の人々は疎外されている感が強いですね。巫女の菜摘というような風情は、近江朝末期には感じられません。繰り返しになりますが、そのあたりが壬申の乱の伏線になっている、と思います。


「われわれが酷い目にあった百済再興の戦争で、逃げてきた亡命百済人がいい思いをしている」という怨嗟です。


【写真】春のヒヨたん劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_23273337.jpg

e0022344_23273534.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-19 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

◾️薬狩り


この時期に、朝廷の行事化されたのではないか、とも思われる、薬狩り。


五月五日の未明に貴人たちが集合し、夜明けとともに山に分け入って、男は鹿の角を採取するのです。鹿の幼角は、精力剤として知られています。


女性の場合は、菜摘みです。


2019日記【046】に、万葉集冒頭をかざる雄略天皇の長歌、


籠(こ)もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち この岳(をか)に 菜(な)摘(つ)ます兒(こ) 家聞かな   告(の)らさね・・・


【私訳】

カゴですね、良いカゴをお持ちだ、掘り道具ですね、良い道具をお持ちだ。この丘に草摘みなさるお嬢さん、あなたの家はどこですか、お答えなさい・・・


について触れておきましたが、これは、山野の一定区画を決め(標)、巫女候補が菜摘をしている場面です。


菜摘をしたら、家へ帰ってゆでて食べようというわけではありません。まあ、現代的に言えば、新鮮な野菜からビタミン摂取、という側面もあろうかとは思いますが。


菜摘の修行は、おそらく特殊な薬効を持つ植物への知識獲得にあるでしょう。


【写真】春のミサゴン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_13160317.jpg
e0022344_22564401.jpg











# by kugayama2005 | 2019-03-18 00:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️わざうた(童謡)の採録


現代の学者は、「わざうた(童謡・謡歌)を歴史書に書き込むことは、中国の五行史を真似たもの」と説く。あちらでは、「詩妖」と表記するそうだ。


五行史と言うからには、陰陽五行思想なのだろうから、道教的なのかもしれない。この辺りは調べてみて、後にまた。


おそらく、日本書紀のこの時期の編さん担当者が、「これはいい趣向だ」と気付いて採用したのだろう。


それで、編さん者は、何を見て、わざうたを取り入れたのだろうか。その元となる記録があったに違いない。あるいは、口承による記憶が残っていたのか?


当時、わざうたを文字で記録していたとは想像できないが、いつの時代にも好事家がいるもので、筆録していた可能性はある。日本書紀で、わざうたが取り上げられているのは、皇極ー天智期に集中しているようなので、編集の気まぐれかもしれないが、この時期に集中して、社会の蠢動に合わせて、ひどく流行したのかもしれない。そうであればやはり作者は、私説、ある特定の老巫女だ。額田王は、きっとそれが誰だか知っている。


わざうたの作者も、口承者や記録者も、それが「わざうた」というジャンルのものだと認識していたわけではなかろう。作者も、まさかこれが正史の書に採録されるとは!、と、編さん時、本人はとっくの昔にあの世へ行っているにしても。


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_14125041.jpg





















# by kugayama2005 | 2019-03-17 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️わざうた(童謡)の辛辣さ 4


2019日記【068】で触れた「虫信仰」が、秦河勝によって鎮圧された際、現れたわざうた。


・うづまさ(太秦)は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ちきた(罰)ますも


虫信仰の根源、富士川右岸の多(おお)さんを討伐して、「虫信仰」は終息した。その際の、わざうた。


【私訳】

◾️「秦河勝は、神だろう、神だ」という民々の声が聞こえてくる。それはそうだ、虫神をやっつけたのだからね


一見、秦河勝を称揚しているごとくであるけど、私見、老巫女の舌鋒説に従えば、


1 仏教推進センターの秦河勝を、「神だ神だ」と囃す

2 「常世神」(現世に出現した神)である「虫」を罰したのだから神認定という皮肉


「虫信仰」に人気をさらわれた老巫女としては、その教祖の多(おお)さんが追放されたのは良い話だが、「虫神をつぶした秦河勝はまさに神だ」と言うのは、相当に嫌味だ。


太秦の村でも、子どもたちに歌わせたのだろう、「うづまさ(太秦)は 神とも神と 聞こえくる~」


【写真】春のメジロン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_00193413.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-16 00:20 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️わざうた(童謡)の辛辣さ


わざうた(童謡)は、時代遅れになった老巫女の舌鋒、という妄想は続く。


老巫女は、わざうた(童謡)を密かにつくり、巫女アカデミー(山籠り)の入試に失敗した落ちこぼれ少女たちに、習わせた。当然、歌であるからメロディもあるし、所作もあるだろう。


こういう、わざうた(童謡)の例もある、


・をばやしに

・われをひきいれて

・せしひとの

・おもてもしらず

・いへもしらずも


林の中に

私を誘い込んで

犯した人の

顔も知らない

家も知らない

(「日本書紀 全現代語訳」宇治谷孟による)


老巫女はこの事件について、被害者の女性から事情を聴いたのだろう。加害者は、地位のある男だ。


そして老巫女はさっそく、わざうた(童謡)に仕立て、その男の家の周りに流行らせた。


・面も知らず、家も知らないけどね


最後の、知らず「も」が効いている。「知らないけどね、実は知ってるよ」


その加害者たる男は、家の周りでこの歌を歌われ、その歌が流行って行くわけなので、気が気でないわけだ。


このわざうたには、後に、「蘇我入鹿謀殺(乙巳の変)の前兆だった」、という解釈が登場している。


この歌が流行った時期は、虫信仰猖獗のころに近い。社会が蠢動している。


また、日本書紀によると、その頃、「巫女たちが、大臣が橋を渡る時をうかがい、口ぐちに競って神がかったお告げのことばを述べた。あまりに巫女の数が多かったので、大臣は聞き分けられなかった。老人たちは、時勢の変わる前兆だ、と言った」そうだ。


老巫女が、巫女デモンストレーションをしかけたのだろう。大伴氏や物部氏など、この地では天皇より古い王が弱体化された。渡来系政治亡命者が貴族になっていくが、蘇我氏も淘汰され、天皇は法治国家を目指している。


そんな時代だからこそ、「呪の力を見せつけよう」


※この時期の日本書紀は、わざうた=「謡歌」と表記している。


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19292337.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-15 00:51 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️わざうた(童謡)の辛辣さ 2


斉明天皇が百済救済のために、新羅を討とうと決して、準備をしていたころの、難解なわざうた(童謡)、


まひらく

つのくれつれ

をのへ田を

らふくのりかり(雁)が

みわたとのりかみ

をのへ田を

らふくのりかり(雁)が

甲子とわ

よとみ

をのへ田を

らふくのりかり(雁)が


これでは、何が何だかんだわからないだろう。とりあえず、

三回繰り返されている、


・をのへ田を

・らふくのりかり(雁)が


について考えてみよう。


・をのへ田を

は、「岡の上の田」としておこう。


・らふくのりかり(雁)が

は、難しいが、言葉の倒置である説が正しそうだ。それを倒語(さかしまご)と言い、相手に分からせず、味方にだけわかるようにすること、と神武天皇の巻に書いてある。


つまり、


●すべて倒置

・らふくのりかり(雁)が

・がりかりのくらふ

◾️雁雁の喰らう


したがって、

◾️岡の上の田(に実った米)を

◾️雁がたくさんやって来て喰らう


さて、冒頭の、

・まひらく

◾️真平く(一面に)


・つのくれつれ(の、を省くと)

・つくれつれ

◾️作ろうとしているのに


●別の解釈:

・つのくれつれ(つ、を省くと)

・のくれつれ

◾️連れ逃れる


【ここまでのまとめ】


まひらく

つのくれつれ

をのへたを

らふくのりかりが

◾️【私訳】

一面に

作ろうとしているのに

岡の上の田に実った米を

雁がたくさんやって来て喰らう



ここまで来れば、あと2箇所だ。


・みわたとのりかみ


・甲子とわ

・よとみ


●倒置

◾️みわたとのりかみ→みかりのとたわみ=御狩の門、撓(たわ)み

◾️【私訳】

天皇が出かけられている戦争の門(海峡)は力無く



さて、最後の難問、


・甲子とわ

・よとみ

●倒置

かしとわよとみ=(甲子を「かし」と読む)=みとよわとしか=御渡弱と然

◾️【私訳】

(天皇の)渡海(軍)は弱い、まさに



【全体の私訳】

◾️

一面に作ろうとしているのに

岡の上の田に実った米を

雁がたくさんやって来て喰らう

天皇が出かけられている海峡の戦役は力無く

岡の上の田に実った稲を

雁がたくさんやって来て喰らう

天皇の渡海軍が弱いのでまさに

岡の上の田に実った稲を

雁がたくさんやって来て喰らう


※「岡の上」を「やまと(山上)」と解する魅力的な説がある。

※天皇の「御狩」は、戦争の暗示であろう


【私訳の解釈】

米を作ろうとしているのに

大和に実った稲を

北の国から渡って来た雁どもが喰らう

天皇が出かけられている海峡の戦役は力無く敗れ

天皇の渡海軍が弱いのでまさに

大和に実った稲を

北の国から渡って来た雁どもが喰らう


一般的に、この、わざうた(童謡)は、戦争敗北という近未来予知、とされている。しかし、こうして読んでみると、「(戦争に負けて、その隙に)、北の国から来た渡来人が、大和の富を貪り喰うぞ」、と、渡来人批判が強いとも読めるのだが。


この解釈が正しいとすれば、かなり激しい命がけの天皇批判となるとわけで、一種のアナグラムを駆使し、意味不明に仕立てている。


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19284600.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-14 02:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️わざうた(童謡)の辛辣さ


時代遅れになりつつある、老巫女の舌鋒?、あえてそう妄想したい。


この時期、多くの「わざうた(童謡)」が記録されている。わざうた(童謡)とは、いつともなく、どこからともなく流行してくる歌だ。


その多くは、未解明のものだけれど、わかりやすそうな、近江朝当時のものを一つ。


・タチバナは おのが枝々 なれれども      玉に貫(ぬ)くとき 同じ緒にする


橘は、自生の北限が静岡県なので、それ以北の人はピンとこないかもしれないが、要するに原種ミカンなのだ。


【私訳】

◾️タチバナの実は、それぞれ自分の枝々になっているはずのに、玉飾りにする時にはそれをもいで、穴をあけ、連ねて緒にくくる(そのように新しい貴族たちがぞろぞろ出世したぞ)


これは近江朝、天智天皇崩御の1年前、672年春、大友皇子が太政大臣となり、たくさんの貴族がぞろぞろと新しい爵位を大盤振る舞いされた。それを皮肉っているらしい。(「日本書紀 全現代語訳」宇治谷孟による解釈に依存)


壬申の乱で亡き者となる大友皇子は、才能、容姿ともに秀でた若者とされている。その周囲の貴族たちは、多く比較的新しい渡来系ではなかったか。


時代遅れになりつつある老巫女が、その人事を知って、舌鋒を鋭くするのだ。「タチバナの、実もいで、つなげて玉飾り~」と、歌わせるのだ。


もともと近江遷都は評判が悪く、「人々は喜ばず、批判の風説を流し、わざうた(童謡)も多く、火事も頻発」したという。


おそらく、天智天皇最後の1年は、大友皇子が全面的に政権を運営したのだろう。周辺の貴族たちには敬われ、賛美されたが、旧来の貴族たちや、民々は疎外された。このあたりも、壬申の乱の導火線になっていたに違いない。


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19280959.jpg


# by kugayama2005 | 2019-03-13 01:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️ゾロアスター教、地獄、近親婚、動物を食べない


ブッダの事績をたたえ、ひたすら賢者になることを求める南伝仏教とは異なり、北伝仏教は、ゾロアスター教やキリスト教ネトリウス派と混淆(習合)した。おそらく、ゾロアスター教徒にとっては、仏教のどの部分にゾロアスター教が反映しているか、よくわかるのだろう。


ゾロアスター教が、仏教やキリスト教に及ぼした影響として、「地獄」をあげる説がある。


仏教における人の苦しみは、ほんらい「輪廻」であって、「地獄」ではないのでは?


中世日本人をあれだけ苦しめた、地獄思想が、ゾロアスター教由来だったのか?


一方、うののさらら(後の持統天皇)が、父(後の天智天皇)のもとから、叔父(後の天武天皇)のもとに姉妹そろって嫁に行った、というような近親婚も、ゾロアスター教では推奨されているらしい。


新羅や百済からやって来て、日本に仏教を伝えた人々が、ペルシア系であったなら、当時まだ繁栄していたサーサーン朝ペルシアの思想が、同時に流入しても不思議ではない。


隋の帝政に圧迫されたペルシア系が、政治難民として半島に流入した?


百済では、支配者層と民々とは、話す言葉が違ったという説もある。新羅のあった地と日本では、瓜ふたつのローマ製ガラス器が発見されている。


百済の人質、豊璋王子も、隠れペルシア人だったという異説もある。斉明朝は、豊璋をことのほか優遇している。


【メモ】複数の強力な王の時代から、天皇が王を統治する王(帝)となる時代

・ヤマトの地で天皇よりも起源が古いといわれる物部氏を討伐→旧権力を排除(587年 物部守屋没)

・蘇我入鹿を謀殺(乙巳の変)→蘇我系など渡来系間での抗争 (645年 蘇我入鹿 蘇我蝦夷没)

・百済救済の派兵→渡来人ネットワーク(663年 白村江の戦い)

・近江朝壊滅→渡来系貴族の排除(672年 壬申の乱)

・藤原宮成立→天皇中心の律令国家(694年)


隋の煬帝期 604-618年

遣隋使 600-618年

聖徳太子 574-622年

サーサーン朝ペルシア滅亡 651年


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19273578.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-12 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️虫信仰はさておき仏教など


厩戸豊聡耳(うまやとの とよ と みみ)は、後に聖徳太子と呼ばれるが、推古天皇(在位西暦593-628)の皇太子であり、実務をすべて任された摂政だ。


聖徳太子は、皇太子就任11年目、「私は尊い仏像を持っている。誰かこれを祀るものはいないか」と言い、秦河勝(はたの かわかつ)が引き受けて、(今の)広隆寺を作った。


この辺から話は妄想におちいるので、良い子は読まないでいただきたい。


聖徳太子はペルシア系、というトンデモ説があるが、それはある程度、的を得ているのかも知れない、と思う今日この頃。


ペルシア人は、海路を東にインドへ、陸路を西域から長安へ、貿易の旅に出たのだ。サーサーン朝ペルシアは、イスラム勢に圧迫されて消滅するが、その前に多くのペルシア人が大陸から半島へ、半島から列島へやって来ても不思議ではない。


宗教については、ペルシアには、キリスト教ネトリウス派、仏教が流入し、既存のゾロアスター教と混交(習合)した。


また、一方、キリスト教ネトリウス派の宗教施設を、当時の中国では、「大秦寺」(太秦=秦氏の根拠地ウズマサと相似)と言ったらしい。つまり、秦河勝は、ひそかなキリスト教ネトリウス派(景教徒)ではないか、というわけだ。


聖徳太子の「尊い仏像を祀るものはいないか」という話は、事前に聖徳太子・蘇我馬子・秦河勝の間で決めていたことを、公にしたにすぎない。それ以前に、蘇我馬子は、仏教を奨励し、旧来の呪術を支持する物部守屋と激しい争いをしてきたが、蘇我系の聖徳太子が摂政になるに及んで、諸貴族の前で、仏教を公認させたわけだ。


蘇我系としては、蘇我稲目(馬子の父)以来の、朝廷に仏教を持ち込むという戦略が日の目を見た。「虫祭り」をさっそく撲滅したのも、道理だ。


さて、仏教と言っても、実は仏教を隠れ蓑にして、ゾロアスター教が伝えられているのではないか。仏教やキリスト教を隠れ蓑にするのは、ゾロアスター教がマニ教へ統合されたころの戦術らしい。


秦河勝にとっても、キリスト教ネトリウス派とゾロアスター教とは混交(集合)しているので、許容範囲だ。


そう妄想してくると、


ゾロアスター教の影響について、二つだけあげておきたい。


1 地獄

2 近親婚


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19270019.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-11 01:55 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️虫信仰とポトラッチ


皇極3年、秋(西暦644年)


富士川のほとりに、おお(多)という下級役人がいた。


彼は、「タチバナにつく虫は、常世(とこよ)虫と言って、その虫を祭ると富を得、若返る」として、虫祭りが都でも田舎でも大流行した。


その虫は、色は緑で黒い縞があり、蚕に似ている(日本書紀)というので、明らかにアゲハチョウの幼虫だ。幼虫がサナギとなり、蝶が羽化するのは誰でも目撃することができるが、日本書紀の編さん者は知らなかったようだ。


民々は虫を安置し、舞い踊って、財産を投げ出したという。


これは、アメリカ先住民に見られた、ポトラッチという行事に似ている。ポトラッチとは、富者が貧者に物品を分けあたえる行事だが、それが嵩じて、貴重品の壊し合いが派生した。


例えば現代、町内の富者Aさんが自分のポルシェを壊してみせると、Bさんは自分のベンツを壊してみせる、というようなもので、見ている貧者も盛り上がるだろう。


理屈で言えば、所有の格差が目立ってきた社会のストレスを、見える形で放射冷却するのだ。


アメリカ先住民に対しては、白人のキリスト教徒が、ポトラッチ制圧に乗り出した。わが国の虫祭りに対しては、秦河勝が乗り出して、おお(多)さんを懲らしめた。


秦河勝(はたの かわかつ)は、聖徳太子の計画によって、他の者は嫌がった仏教の導入にあたった。つまり、当時、新輸入宗教である仏教が、さらに新興宗教である虫祭りに圧倒された。さらに、ことさら日本書紀が書いているように、その虫は「蚕に似ている」のだ。養蚕が看板のひとつである秦氏にとっては、聞き捨てならぬこと。


それを朝廷も見過ごすわけにはいかないわけで、制圧役は秦河勝になるのだ。嫌味な人事とも言える。


秦河勝は、ご苦労なことに、富士川まで出かけて行き、おお(多)さんを打ちこらした、という。おお(多)さんは死んだのか?、日本書紀にはそこまで書いていないが、おそらく、おお(多)さんは、足柄山あたりにスタコラ逃げ出したに違いない。


当時、富士山は、都の人にとっては異教の魔の山である。追いかけては行かない。


おお(多)さんの懲罰によって、虫祭りの巫女たちは恐れ、民々に勧めるのをやめた、という。虫祭りは、すでに組織化されていたのだ。


虫祭り猖獗。江戸幕末の「ええじゃないか」にも通じるものがある。「ええじゃないか」は、天からお札が降ってくる、と称して、民々が仕事も放り出し、「ええじゃないか、ええじゃないか」と囃し、踊り回るという事態で、何日も続いたという。


【写真】早春のアオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_19261693.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-10 00:41 | Trackback | Comments(0)

◾️天候祈願


皇極期より700年後の話。


元寇が神風によって終わった、とされる。これは天候祈願ではなく、戦勝祈願だが、結果として天候祈願にもなった。


この時、朝廷は戦勝祈願に全力を尽くしたのだ。仏教も神道も総動員。結果は周知の通り。


神風を極限まで拡大した解釈は、北条時宗の政治力だろう。つまり、


1 朝廷の祈願による神風で元軍は壊滅

2 鎌倉幕府軍の本隊が戦場に到着する前に終戦

3 神風で勝ったのだから九州武士団には恩賞無し


朝廷人事に介入していた鎌倉幕府としては、朝廷の顔も立てた。幕府軍は無傷、九州武士団は使い捨て、という実に都合の良い結果。北条時宗、おそるべし。


結果に腹を立てた熊本のビンボウ侍、竹崎末長さんは、自身の活躍を説明するために絵巻物を作り、それを持って鎌倉幕府に恩賞の交渉に行くのである。その実行力の結果、今、元寇の戦闘のようすを知ることができるわけだ。


おそらく米国のおかげで、戦後は「呪術による神風を信奉する日本人」というニュアンスに印象付けられているが、実は北条時宗の巧妙なトリックだ。


おそらく時宗は、元軍と九州武士団が戦闘で疲弊した頃合いで、幕府軍を突入させる。あるいは、元軍が上陸し、拠点を築いても、幕府軍で包囲殲滅する、などしぶとい構想だったのだろう。


この時期には、天候祈願も政治の一小道具でしかなくなっていた。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん、カモ観察、「よく食べるねぇふとるわけだ」。鳥は、草食系と肉食系、雑食といるけど、これは恐竜だったころの名残か?

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_14110064.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-09 00:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️天候祈願


天候祈願や天文呪術は、人類共通の心性だろう。しかし、それらは政治的なものと言える。代表的なものは雨乞いだ。


皇極(後の斉明)天皇即位の年、秋、雨が降らなかった。


1 民間では神官(祝部)の指導のもとに、いろいろなマジナイをして降雨を期待したが、効き目はなかった。


2 蘇我大臣は、大乗経典の転読によって雨乞いをさせたが、ほとんど効き目がなく止めた。


3 皇極天皇が雨乞いをすると、雷鳴が鳴り響き、五日間雨が降り続けた。民々は「徳のある天皇だ」とたたえた。


この「日本書紀」の記述は、単に雨乞い合戦の記録ではない。


1 呪術(既に滅ぼされた物部支配)

2 仏教(近々滅ぼされる蘇我支配)

3 天皇(近々確立される天皇法治)


呪術ではまったく効き目がなく、仏教ではほとんど効き目がなく、天皇が祈ればものすごい効き目なのだ。


日本人は今も昔も実利を好む。近代化前に来日した西洋の宣教師は、日本人の信仰心のなさを嘆いている。日本人は神を信仰するのではなく、神に何かをしてほしいだけなのだ、と。


確かに、初詣にあれだけの人が押しかけるのも、家内安全、合格祈願などなど、一応神様に言っておくと気が済んで、そのまま忘れるのである。


この皇極期の雨乞いの記述は、ややシニカルに、「呪術、仏教とやってみたがダメだった。天皇中心の法治が必要なわけだ」ということで、天候祈願も政治であり、この時期に意識的な古代からの決別があった。


おそらく、天候の変化に詳しい人物が、「今こそ雨乞いのチャンス」と助言しているのだろう。「今こそアベノミクスのチャンス」というのと変わらない。民々にとって農作に不可欠な降雨は、金融政策と同義だ。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_14095814.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-08 02:15 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて、この稿の初志に戻って、もっと心的推移について妄想妄言しよう。


ジュリアン・ジェインズの「二分心」(Bicameral Mind)や、スティーヴン・ミズン「心の先史時代」は、援用する史料に「古すぎる」という欠点がある。紀元前数千年から西アジアで始まった「農業化」から、ニンゲンの心的推移を見出すのは難しい。


それでも、過去の民族学のように、現存する、現代文明から隔絶された人々を、西洋人の目で観察し、そこに「原始心性」を発見するよりはましだ。


ひるがえって、日本の無文字文化から、歴史時代への変化は、きわめて短期間に実現した。そして、その時期も比較的最近だから、照応する遺跡や遺物も次々と発見されている。


つまり、日本ではいながらにして、古代と共鳴できるということになる。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_13531068.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-07 02:55 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

斉明天皇にとって百済再興とは?


1 すでに任那を手放し、半島に拠点がなくなっていたが、百済が再興されれば、強い影響力を与えることができる

2 復興百済から新羅、高句麗を制圧すれば、半島の統一国家に深く関与できるし、税収も期待できる

3 半島からの亡命者が増え、扱いに困るので、帰国させる場所を確保したい

4 半島にも日本流の律令・班田制をしき、国内の不平分子を送り出したい


など、妄想してみました。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_13514974.jpg













# by kugayama2005 | 2019-03-06 03:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

3 計画したら即実行


ものごとのタイミングは、実に不思議だと思う。実行が早すぎて失敗する場合もあるし、遅すぎて取り返しのつかないこともある。しかし、全体としては、着手が早く、軌道修正をしながら進むほうがよろしかろう。


藤原鎌足は、病気見舞いの天智天皇に、「白村江の戦いでは役に立たなかった」(無務於軍國)と謝罪して、五日後亡くなった。


こういうような日本書紀の記述が、事実かどうか、それは私には興味がない。事実かもしれず、そうではないかしれない。


知りうるのは、日本書紀にそう書いてある以上、藤原鎌足がそう言ったか、後日誰かが鎌足がそう言ったと書いたか、そのどちらかだ。


つまり、鎌足が自ら「私は役に立たなかった」と言ったのか、他の誰かが「鎌足は役に立たなかった」と思ったのか、どちらかだ。


いずれにしても、白村江の戦いでの惨敗は、藤原鎌足の最大の痛恨事だった。さて、その意味の私説、


1 斉明天皇の開戦決意を止めることができなかった

2 豊璋に百済王としての資質がないことをわかりつつ事を進めてしまった

3 斉明天皇の崩御後、速やかに開戦すれば、早々の唐との遭遇戦は避けられたのに時を費やしてしまった


鎌足には戦術の責任はないとして、特に1にはリアリティがあるのではないか。斉明天皇は、百済遺臣の鬼室福信将軍の使者から、百済復興への協力を仰がれ、「危きを助けるのは当然のこと」と応じ、「雲のようにつどい、雷のように動き、ともに新羅の地で仇を斬ろう」と即断した。早くも2ヶ月後には難波に動座し、戦争準備の陣頭指揮をとった。


天皇と鎌足らは、事前に想定問答を検討していたと思う。おそらく、斉明天皇以外は、鬼室福信の孤軍奮闘をたたえつつ、日本に実害のないよう収めようという思いだったので、結論はあいまいなまま会談に臨んだ。


息子たち(天智・天武)は、母である天皇に反

対意見など言えない。反対をするなら、鎌足が死を決意して諌めなければならない。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_13483748.jpg













# by kugayama2005 | 2019-03-05 01:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

2 日本国の版図にこだわり


斉明天皇は、「ヤマトの国はいい国だ」と言っている古代の王ではない。明らかに、北海道から九州までを、天皇の支配すべき地と認識している。つまり、多くの王のうちの一人ではなく、王の中の王であること、対外的にはそれを「天皇」と言う、そのことを自覚しているのだろう。


さらに、史料にはないかもしれないが、日本列島の状況も詳しく把握している。おそらく、朝廷と「海人族」との繋がりはかなり強い。


一例として、斉明天皇は、「百済のために新羅を討とうと思われ、駿河国に命じて船を作らせた」という(西暦660年)


駿河国とは?、と考えると、斉明天皇崩御、白村江の戦い直前、百済の豊璋は「日本国から廬原臣(いおはらのきみ)が兵1万を率いてやってくる」と言っている。


廬原(いおはら)は、現・静岡市清水区で、古墳も存在する。おそらく、清水港などを中心に海運、富士川水運を担っていたのだろう。(余計事ながら、清水次郎長も富士川利権)


そしてさらに、廬原は、元は吉備だという。これはまさしく海人族の本筋と言いうる。


斉明天皇は、廬原に造船をさせ、難波津で軍装をさせ、軍船を従えて出航すると、おそらく吉備一帯に寄港している。天皇一族のデモンストレーションであり、募兵もしたのだろう。船には(後の)天智・天武の兄弟も乗っており、ご婦人方も打ち揃っている。うののさららの姉は、天智の子を邑久で出産している。


朝廷と、吉備や駿河など、海運ネットワークとの、密接な関係を想像できる。海人族は元、北九州のを根拠地とした安曇であり、大陸半島情勢にも明るい。


つまり、斉明天皇は、海人族の情報によって、日本列島の姿を正確にイメージできた。北方攻略、半島派兵もその線上にある。


さらに、強引な妄想だが、天武天皇は大海人である。意味なく大海人ではないだろう。壬申の乱(西暦672年)の時、大海人決起す!、の報に接して、海人族はおおいに協力を惜しまなかった、はず。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


みんなに、みせよう

e0022344_16394527.jpg


# by kugayama2005 | 2019-03-04 00:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

1 蘇我支配を破却し、権力・財源を確保


京極=斉明天皇の間にはさまった孝徳天皇の時代、つまり西暦645~654の9年間、元号でいうと大化~白雉。


その間の日本書紀の記述は、いわゆる大化の改新の諸事項に埋め尽くされている。乙巳の変(蘇我入鹿を謀殺)以前からあたためられていた計画が公になり、裁判の判例や、民々からの公聴制度など幅広い内容が含まれている、力作。


しかし、孝徳天皇期の記述から、大化の改新の諸事項を除外すると、9年間にしては内容が少なすぎる。これはおそらく、日本書紀の編さん者が、この時期に政治改革関連の記事をまとめて盛り込んだのだろう。


孝徳天皇の難波宮というのは、諸勢力から避難し、天皇中心の日本国建設計画(思想としての律令制)を確定する時期だったのだ。


難波宮遺跡は、今の大阪城の南に隣接している。ところで、戦国時代の大阪城はあの石山本願寺だ。淀川と大和川の河口部、複雑な水路に区切られた地形で、古墳を壊して造成されたとも言われている。


つまり、難波宮は、河口部の古墳の先にあった。難波津からも近い。ヤマトの旧勢力からの干渉をはね返し、万一の時は、海上に脱出する、そういう環境で思想としての律令制を固め、ヤマトの意思統一を図った。


特に、具体的には、「品部を廃し、国家の民とする」という。ここでいう品部を廃すとは、臣・連・伴造・国造などが、公務にあたるべき品部を、私有の民と混在させ、勝手に使役している、そのことの禁止だ。天皇も率先して、品部を廃止する、と言う。


天皇は宣言する。「よく聞け。これからは、お前らは元の職を捨てろ。これからは百官を設ける。位階を定め、官位を授ける。田地は官に収め、口分田として民に公平に支給する」


これをいきなり言われたら、貴族たち、既存の官僚は大パニックになるだろう。難波朝は、それを8年間かけて、じっくり意思統一させ、一部実験的に実施したに違いない。


それができたので、孝徳天皇在位8年目。京極=斉明は子どもたち(天智・天武)を連れて、難波宮を脱出、ヤマトに帰還する。失意の孝徳天皇は、病み、崩御。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


ありくより、とぶか、とりだし

e0022344_16383094.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-03 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

5 百済復興への軍事行動


大陸では唐が盛んになる一方、半島では、高句麗、新羅、百済の三国鼎立が崩れ、新羅・唐の連合軍が、百済を滅亡させる。


高句麗、新羅、百済とも使節を訪日させ、調を納めていた(後には耽羅も)。これは偵察でもあり、日本の半島への武力行使を、常に警戒していたからだろう。


調とは、税制の租庸調の調ではなく、貢物という意味。日本側は、今年の調は去年より少ないとか、去年の日本の答礼品を今年持ってきた、などと難癖をつけている。おそらく、ある程度、形式的な貢物だ。


さて、百済復興への日本の関与は、よく知られているように、日本に人質として来ていた百済王家の王子、豊璋を帰国させることで始まる。


新羅・唐連合軍の攻撃で、百済の君臣は捕虜になり、連れ去られてしまった。しかしひとり鬼室福信将軍が、一城に依ってまだ戦っていた。武器もなくなり、棍棒で新羅軍と交戦した。


鬼室将軍は、日本に人質となっている豊璋王子を返還してもらい、百済王として迎えたいと願い、斉明天皇はそれに応じた。斉明天皇は、派兵準備のため、難波津から出航し筑紫に宮を構えたが、四ヶ月後に亡くなる。


結果として、豊璋は王として機能せず、鬼室福信を謀反の疑いで殺し、それを知った新羅は軍事攻勢に出た。豊璋は、増援の日本軍が来航するとして、諸将とともに白村江に迎えに行った。


実は、豊璋を見限った兵が次々と離脱していったので戦線を維持できず、日本軍に合流しようとしたのだろう。だがそこには、強力な唐の水軍が集結していた。


豊璋王と日本の諸将は、相談の結果、「先を争って攻めれば、敵は退却するだろう」という、根拠のない希望的観測のもとに戦い、壊滅した。豊璋は高句麗まで逃げたが、高句麗も唐に攻められ滅亡、豊璋も行方不明になる。


その後、唐は吐蕃(チベット)との戦争を始め、その隙に新羅は唐の支配を排除して、統一新羅となった。


そのことで、唐が日本を直接攻撃する可能性はなくなった。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


てけてけてけ

e0022344_16373326.jpg












# by kugayama2005 | 2019-03-02 05:36 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

4 北方へ繰り返し軍事行動 60歳代


蝦夷(えみし)とは?、という難問がある。「海老のような顔をした夷(東方の蛮人)」という説がある。海老のような顔とは、目が丸くて大きい、ヒゲがとげとげしく生えている?


蝦夷は、おそらく純粋な縄文人だろう。西国では、すでに混血が進んで、純粋な縄文人は存在しなかったに違いない。


斉明期は、何度も北方へ軍事行動をしているが、蝦夷と戦うのではなく、宴会を催したりしている。戦闘があったのは、さらに北方に民(粛慎)との間で、粛慎とは、おそらく大陸系の狩猟民では。


後年、坂上田村麻呂と阿弖流為(アテルイ)との間で起こったような、戦争という事態はなかった。なぜなら、まだ、そこには支配・被支配の関係はなかったのだろう。


江戸時代の末、ロシア人がそこまで来ているのに、見て見ぬ振りをした北方領土に、重大な関心を示した斉明朝なのだ(江戸期でも田沼意次は強い関心を持っていた)。すなわちそれは、現実感覚なのだろう。


しかし、次の百済派兵では、その感覚が狂うことになる。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


めめず、とたー

e0022344_16362402.jpg


# by kugayama2005 | 2019-03-01 03:33 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

運河や岩石庭園の公共工事


斉明天皇の時代で有名なのは、運河や岩石庭園をつくらせ、造成の負担が厳しいので人はそれを「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」と罵倒したのでした。


狂心とは、戯心という意味、という解釈もあるが、原文は「時人謗曰、狂心渠」。そしっていわく、狂心渠。


一方、今で言う古墳の造成を、万民の苦労が大きいとして廃止している。


斉明天皇、62歳、難波宮の実験都市が首尾上々で、帝位も取り戻し、ご機嫌だったに違いない。


運河を掘って、船を浮かべたのである。山の岩石を運んで、岩石庭園をつくったのである。明日香で発掘された酒船石遺跡が、それだという説もある。


斉明天皇がご機嫌だったのには、理由がある、という私説、それは朝廷の財政が飛躍的に充実したからではないか。上毛野から西国まで課税した場合、どのくらいの歳入があるか。いずれにしても、それは前代未聞のことだったに違いない。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


おろ?

e0022344_16350162.jpg












# by kugayama2005 | 2019-02-28 01:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

2 弟・孝徳天皇の難波宮から脱出


孝徳天皇は在位9年間、京極天皇は退位しても権力者であり、その脇を息子2人、すなわち(後の)天智・天武が固めている。皇后は、間人皇女(はしひとの ひめみこ)で、彼女は天智の妹、天武の姉。


孝徳天皇は、姉・退位皇極によって、がんじがらめにされている。


さて、孝徳天皇、在位8年目。京極=斉明が、子どもたちを連れて、難波宮を脱出するという事態が起こる。その際、皇后の間人皇女が、兄で皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)と一緒に脱出したことで、この兄と妹は怪しい(実質的に夫婦だった)のではないか、という。古代でも同腹の兄妹の結婚状態は、タブーだ。


吉野裕子先生は、「オナリ神だった」と推察されている。オナリ神とは、妹が兄の守護神となること。とはいえ、当時、皇后が天皇をすてて、皇太子の兄とともに逃げるというのは、大スキャンダルだったろう。


このころ、弟・(後の)天武も、最愛の額田王に出会って、事実婚状態になった。


孝徳天皇は、官僚も引き抜かれて自失状態になり、一時代が終わった。


この時期、「思想としての」律令制を明示し、各有力者の総論賛成を得たのだろう。藤原鎌足も召かれて難波朝に参画している。


難波宮は、実験都市として成功した。大王たるものの理想像、国ぐにを統べる理念も思うままに展開してみた。官僚たちの研さんも実ったので、あっさりと孝徳天皇もろとも廃都となった。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


ふんふんふん

e0022344_16340889.jpg












# by kugayama2005 | 2019-02-27 02:34 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

1 蘇我入鹿を宮中で謀殺(翌日に譲位)


私説、

蘇我氏排除は、京極天皇が指示し、中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足が立案。


蘇我入鹿の自邸は要塞化していて、攻撃は難しかったから、入鹿ひとりになる朝廷内での謀殺案が採用された。


蘇我入鹿は、朝廷を無視していたので、呼び出す工夫として、外国使節の接遇という虚偽の日程が作られた。


シナリオは藤原鎌足、実行は中大兄皇子(天智天皇)だが、このようなことを京極天皇の指示なしにできるわけがない。


聖徳太子没後、20数年という蘇我氏の専横時代は、あっけなく終わった。


京極天皇は、さすがに目前で蘇我入鹿が斬殺されたので衝撃もあったろうし、蘇我系の逆襲もありえたろう。翌日、弟に譲位し、中大兄皇子(天智天皇)を皇太子とした。


その機会に温められていた大化改新を、弟・孝徳天皇に推し進めさせて、天皇中心の律令国家建設への道が、現実のものとなった。天皇より古い有力者が、討伐された結果だ。


この時、右大臣に登用されたのが、うののさらら(持統天皇)の祖父、蘇我倉山田石川麻呂で、石川麻呂も早晩、謀殺され、うのの母は悶死することになる。母の死によって、うのと姉弟は、京極=斉明に引き取られ、育てられる。


乙巳の変が、頓挫していたらどうなったろうか。蘇我氏が、行政や軍事を独占し、幕府的存在になったかもしれない。もともと蘇我系から天皇を輩出していたわけだから、聖俗一体となった政府ができたかもしれない。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_16162763.jpg












# by kugayama2005 | 2019-02-26 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

京極=斉明天皇は、宝女王(たからの ひめみこ)という。舒明天皇の皇后だったが、それ以前に一度結婚して子どももいたという、ふしぎな来歴の持ち主。


最初の夫、高向王は、百済からの亡命貴族系ではないかという説もある。後のことになるが、斉明天皇が、百済救済を強く推進したのは、何か確信があってのことだろう。


天皇より古い先住民の実力者を嫌い、亡命渡来系の貴族を好んだようにも感じる。


京極=斉明天皇こそは、古代という時代を引きずり下ろした最初の人となった。京極即位は48歳、(5年間孝謙に譲位し)斉明即位は61歳。


1 蘇我入鹿を宮中で謀殺 51歳(翌日に譲位)

2 弟・孝徳天皇の難波宮から脱出 59歳

3 運河や岩石庭園の公共工事 62歳

4 北方へ繰り返し軍事行動 60歳代

5 百済復興への軍事行動 66歳


その女帝の基本指針は、


1 蘇我支配を破却し、権力・財源を確保

2 日本国の版図にこだわり

3 計画したら即実行


何か、古代の織田信長のようですが。


反面、


1 法や史書の整備には興味なし

2 上手くいかなければ放り出す


というような感もあります。これらを全てやらされた長男・中大兄皇子(天智天皇)は大変だったと思います。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_16154157.jpg












# by kugayama2005 | 2019-02-25 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005