承前

しかるに「もはき」とは?、ネット検索によると:

「貴族の女子が成人したしるしとして、初めて「裳(も)」を着ける儀式。十二歳から十四歳ごろ、結婚を間近に控えて行われる」

要するに女子の成年式で、「津」は港とすると、女子がお嫁にいけるようになる祝うべき港ということになる。 ↓「裳」(後ろから見たところ)/Wikimedia commons

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# by kugayama2005 | 2026-04-17 17:00 | Trackback | Comments(0)

承前:

高橋虫麻呂の、常陸国赴任時の長歌を調べてみよう。まず「筑波の山の裳羽服津(もはきつ)」と場所を示す、「もはきつ」とはなんぞや?、と調べてみても意味はわからない。しかし、意外な発見があった。検索によると「(筑波山南麓の)小字臼井、六所、立野、裳萩津(もはきつ)で縄文時代中期の遺跡が発見されている。裳萩津遺跡からは土師器や須恵器の出土もあった。裳萩津は奈良時代に歌垣(嬥歌)が行われた地「裳羽服津」(もはきつ)とされ、夫女が原(ぶじょがはら)の異名を持つ」という。縄文時代から人の集まる場所だったのだ。↓筑波山/古写真

2026日記【106】境界と自由1722_e0022344_16443204.jpeg













# by kugayama2005 | 2026-04-16 17:00 | 2026日記 | Trackback | Comments(0)

承前:

高橋虫麻呂が常陸に赴任していた時期は正確には不明だが、早ければ710年代。

日本は律令国家となり、平城京に首都を移し、古事記、日本書紀をまとめ、風土記の編纂にも着手。ピカピカの国際国家の体裁を整えた。一方、大唐は最盛期を過ぎようとしていた。

 701年/大宝律令制定

 710年/平城京に遷都

 712年/太安万侶古事記を撰上

 720年/舎人親王ら日本書紀を撰上

 745年/(唐)玄宗が楊太真を貴妃(楊貴妃)とする

↓ 筑波山

2026日記【105】境界と自由1721_e0022344_13203058.jpeg













# by kugayama2005 | 2026-04-15 17:00 | 2026日記 | Trackback | Comments(0)

承前:

一方、ヤマトでは高橋虫麻呂(奈良時代の朝廷の役人)が残した長歌が有名。虫麻呂が常陸国に赴任していた西暦700年代前半の作と見られている。

鷲の住む筑波の山の裳羽服津(もはきつ)の その津の上に率(あども)ひて 未通女(をとめ)壮士(をとこ)の行きつどひ かがふ(輝く)かがひ(嬥歌=美しい歌)に他(ひと)妻に 我も交(まじ)らむ 我が妻に人も言(こと)問へこの山を領(うしは)く神の昔より 禁(いさめ)ぬわざぞ今日のみは めぐし(目串)もな見そ事も咎とがむな(万葉集巻9-1759 高橋虫麻呂)

※筑波山の「もはき津」に上がったところで若い男女が集っている。その歌垣(かがひ)で人妻とわれも一緒になって、わが妻にひとも言い寄りなさい。筑波の神代の昔から禁じられていないのだから、今日だけは目くじらたてず、咎めるな。 ↓ 小貝川から見た筑波山

2026日記【104】境界と自由1720_e0022344_13150841.jpeg












# by kugayama2005 | 2026-04-14 17:00 | Trackback | Comments(0)

承前:

前出、伊波普猷の紹介している「モー遊び」の記事の初出は「苦の島─琉球と八重山島の話─」/太陽/1926年だということだが、そのような歌垣が当局によって禁止されて、その伝統も消えるとともに人の郷土への心が離れ、多くの沖縄人がハワイや南米に移住して行った、と伊波普猷は書いている。 ↓ (いh Iha Fuyu, served as the director of the Okinawa Prefectural Library at that time/Wikimedia commons

2026日記【103】境界と自由1719_e0022344_15044213.jpeg












# by kugayama2005 | 2026-04-13 17:00 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005