◾️班田収授法のあらまし(初期の原則)


・良賎男女を問わず6歳以上になれば皆国家から一定の田地を授けられる

 →そのために戸籍を整備する。戸籍整備と口分田の班給・収受は6年に一回


・良民の男子は2段、女子はその3分の2(田地の面積 1段は約1200平米=約34.6m四方)

 →女子は租以外の税(庸調など)を免除される

 →口分田に課せられる税(租)は収穫の3%程度(1段につき稲2束2把)


・官有奴隷は良民と同じ。私有奴隷は良民の3分の1


・口分田の売買は厳禁

 →だだし交換や一年単位の賃貸は許可


・当該人の死亡や逃亡で土地を収公


◾️その他の土地


・園地(宅地と畑)は男女長幼を問わず均等に配分

 →賃貸や売買は自由


・園地、墓地すべての土地はすべて公有

 →ただし水源地、要塞地、保安林、御猟林以外の公有地は私人でも平等に使える(山で木を切ったり、薪を取ったり、魚鳥や鉱物を取ったりすることは自由)


【写真】富山地方鉄道(富山軌道線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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# by kugayama2005 | 2019-01-17 00:28 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて、現在、2019年、憲法が改正され、「班田収授法」が施行されます(笑、世論調査によると、賛成97%だそうです。反対の3%は現に農業やってる人らしいね、やっぱり。


・全国の農地が天皇のものになって、それを全国民にほぼ均等に分けるんだって?

・そんなことが出来るのか?

・収穫した稲の3%を税として納めれば、所得税額から控除されるらしいぞ。

・どのくらいの農地がもらえるのか?


・日本全国の農地=442万ヘクタール

442万(ha)÷1億2千万(人)=0.0368333(ha)×10000=368.333(㎡)


・ありゃ、iPonの計算機、ルート計算ができないぞ、で暗算かよ、無理だ、ルート計算で検索、


・一人当たり広さは≒19.2m×19.2m


・まあ、通路や水路も必要だから、18m×18mにしとこうか~。


・コメのアバウトな収量は1平米あたり500グラムだぜ


18×18×500=162,000(グラム)


・162キログラム/年の収穫だ


・現在の一年あたり一人のコメ消費量は約60キログラムだから普通に食って100キロ余るな。


・10キログラム5000円で売ったとして(全国民が米作っているのに買うやついるのか?)現金収入は年5万円。


・以上の計算には嘘があります。日本全国の農地=442万ヘクタールのうち、約半分が水田、約半分が畑です。この計算通りにいきたい人は、自分で畑を水田に変えてください、って、むりむり。


・これはひとり当たりですから、家族がたとえば5人いれば数倍になります。


【写真】富山地方鉄道(富山軌道線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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# by kugayama2005 | 2019-01-16 04:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

律令国家化とは、隋・唐の法制を取り入れ、「上古の族長国家の旧態」(瀧川政次郎)を脱して、天皇制への中央集権を進め、国際的にも通用するようにしようということです。


律(刑法)の制定は遅れたが、令(行政法)から着手した。一連の改革は、厩戸皇子(聖徳太子)のころから始まり、大化改新で示された大綱を、大宝律令で骨肉化した。


大きな実質を伴う特徴は、班田収授法にある。だから、このメモのタイトルは、「日本の「農業化」と班田崩壊過程」とすべきだったが、つい気が大きくなって、「律令制崩壊過程」にしてしまった。


班田収授は、全国の農地をすべて天皇のものとし、改めて全国の農民に授ける(貸す)という政策だ。全国の農地が天皇のもとに収公される(公地公民)ということは、元の持ち主はどうなってしまうのか?


大化改新大綱の別の真意は、貴族の土地を天皇のもとに集約し、貴族の経済力を縮減すること。これは私見、策定の段階で明らかに蘇我蝦夷・入鹿を現実的な標的としている。


蘇我蝦夷・入鹿は、壮大な邸宅を建て、池を掘り、城を築き、武器を備蓄し、強兵を常駐させていた。そして朝廷には一向に出てこない。


天皇の貴族といっても、実際に天皇に仕える職務の者もいるが、他方、独自な居を構え、のみならず軍事力を常駐させていた蘇我蝦夷・入鹿のような存在もあり、実は規模は小さくとも複数存在していたのではないか。


当面の脅威である蘇我蝦夷・入鹿は直接壊滅(乙巳の変)させ、他のミニ蝦夷・入鹿は恭順させて、班田収授法の施行に協力させる。


中大兄皇子(後の天智天皇)とカマコ(後の藤原鎌足)が、南淵請安の塾に通う道すがら、乙巳の変の計画を練ったことになっている。しかし、律令制制定の裏の顔が、実力貴族の強制排除であるとしたら、京極天皇(後の斉明天皇)の強力な示唆が無かったとは言えない。


京極・斉明(同一人物)の強烈なカリスマには驚嘆させられる。最後の上古的天皇と言ってもいい。私見、京極・斉明とそのモダンタイプである持統、彼女らに仕えた周辺の皇族、貴族、官僚はこう思ったろう、


「女帝はこりごり。天皇は男系男子で幼時から帝王学を学んだかたがふさわしい」(しかし奈良時代はもっとフクザツになる)


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は天守は、古い天守を再現したものではありません。


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# by kugayama2005 | 2019-01-15 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて、やっとこのあたりで、「農業化(左脳化)」と「法」という当初の目論見に近づいたのですが (笑


瀧川政次郎先生は、「天皇の統治権の絶対無限性」という思想が、唐制(唐の法律)と同時に入ってきたが、


1 大化改新以前は、大臣・大連が権力をほしいままにし、天皇の統治権を有名無実と化した


2 大化改新以後の摂政・関白は、大臣・大連の復活である


3 天皇のご隠居である太上天皇が、皇族の家長として天皇の統治権を制限した


というのが実情であり、「天皇の統治権の絶対無限性」というのは「ただ単に輸入された思想でしかなかった」と記している(日本法制史)。


つまり、「上古の族長国家の旧態」と、「国際標準(唐制)」とがぶつかり合う時代だ。


そういう視点で見ると、京極・斉明ー天智ー天武ー持統は、国際標準を求める一本の線になるのだが。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-14 00:24 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

弥生時代に始まり、古墳時代に地域で組織化された「農業化」(産業化)が、大化改新、近江令・飛鳥浄御原令、大宝律令・養老律令と法的背景を持つようになった。唐からもたらされた法制の背景にある思想を当てはめ、それが現実にどこまで適合するかは別として、「天皇の統治権の絶対無限性(瀧川政次郎)」という考えが前提となった。


土地の支配とは、すなわち「農業化」の独占に他ならない。土地には、耕作者が付いている「水稲マシーン」だ。それがなぜ、他の王ではなく、大君(天皇)に(形式的なであれ)可能だったのか。


水稲耕作、金属や馬匹に関する情報・技術を多く持っていたかもしれないが、独占とまではいえないだろう。


隋・唐、百済・新羅等との外交関係の独占はたしかにありえる。太宰府は、漢名を都督府というが、日本における唯一の行政・軍政の窓口であることを外国に向かって表明したことになる。


つまり、太宰府は外国使節の受け入れ窓口であると同時に、九州の独立勢力が、大陸と独自に外交関係を持つことを警戒・抑止する機関でもあったわけだ。さらに空想で言えば、大陸側からすると、筑紫は以前の伊都国と同様に、大陸側の治外法権代表部が置いてある場所という認識だった。日本側が進んで太宰府を都督府と認識しているとすると、それを認めていたことになる。


白村江の戦いでの唐との戦争が、戦闘部隊の主力が九州勢力だったとしても、国の外交権は天皇にあるという認識を決定づけたのではないか。白村江は、天皇にとって危機でもありチャンスでもあった。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-13 00:16 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

近江令

 ・天智天皇が、国際基準(唐)に近い法的な基盤を求めた(大化改新の現実化を模索)。権力を天智天皇ー大友皇子ラインに集約した。


壬申の乱を経て


飛鳥浄御原令

 ・天武天皇が、既存の貴族・官僚を天武系に再編した。より現実的な執行体制。


これらの動機は、すべて白村江敗戦からスタートしている。それまで文献(思想)として把握していたにすぎない国際基準が、実態として天皇政権を痛打したのだ。


天智天皇崩御後の、大友皇子は、才能豊かな若者として記録されているが、日本の津々浦々に起こった動揺については知らなかった。あるいは、近江朝への放火が多発したということを知らないはずはないので、知ってはいたがどうしようもなかった。


結果は、権力を集中した大友皇子が窮地に陥って、身軽になった大海人皇子(後の天武天皇)に期待が集まっていく。


大海人皇子(後の天武天皇)を支持したのは、貴族や高級官僚ではなく、幅広い実力者だったのではないか。その後、律令国家を換骨奪胎して、律令制の非現実部分を手がかりに登場してくる、そこまでまだ100年はかかるが。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-12 00:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

新しい都は、懐かしい飛鳥の地へ帰る。飛鳥浄御原宮の時代。飛鳥浄御原ー藤原京ー平城京と続く時代にいよいよ入ってきた。


うののさらら(天武天皇の皇后)にとっては、祖母の皇極・斉明天皇、父の天智天皇、夫であり叔父の天武天皇とともに、乙巳の変で蘇我を倒して以来の、天皇への実権回復計画が、今や実現しようとする時代。


さっそく飛鳥浄御原令の制定に取りかかる。


飛鳥浄御原令(あすか きよみがはら りょう)について考える前に、それに先行する近江令と比較してみたい。


◾️近江令(存在・非存在の論議は結論出ず)

・編纂時期

 ~668年ごろ(うののさらら23歳)

・編纂者

 ~天智天皇、藤原鎌足、高向玄理、沙宅紹明ほか

・特徴など

 ~太政大臣という強大な権力をつくり皇太子の職権が分離された

  <現実にてらすと大海人皇子(天武)に属する権限が大きく縮減した>

 〜渡来人の関与が多い

  <高向玄理(たかむくのくろまろ)は、漢人(あやひと)と称され渡来人系と言われているが、小野妹子の遣隋使(608年)で隋に渡り、30余年彼の地にとどまり、隋の滅亡、唐の成立を体験した。653年の遣唐使の押史(大使より上位の者として新設)として再び渡海し、彼の地で没した・・・とすると彼はいつ近江令編纂にかかわったのか?>

 <沙宅紹明(さたくじょうみょう)は滅亡百済の貴族で、近江朝の大友皇子を補佐している。壬申の乱直後に死去>


◾️飛鳥浄御原令

 ・編纂時期

 ~685年ころ(うののさらら40才)

 ・編纂者

 ~大津皇子(うののさららの姉・おおたの長男)ほか

 ・特徴

 ~貴族のトップクラスを天武天皇系で固めた

 ~新任官僚をすべて下級位(大舎人)で採用し、その後才能に応じてそれなりの職につかせるよう指示した

 <旧人脈を一掃し、天武系に再編>


※律令とは、律(刑法)と令(行政法)を言うので、学者の論議は「令はあったかもしれないが、律はなかったのではないか」というようになりがちだ。しかし、そういう話は、後の大宝律令、養老律令についてすればいいので、近江令や飛鳥浄御原令についてしてもしょうがない。つまり律(刑法)はいまだ宗教や政治の機能であり、都合によっては唐律を当てはめていたのだろう。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-11 02:22 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️壬申の乱4


私見、


・「天智天皇から譲位を受けずに身の安全を確保しつつ、実力で天皇になる戦略」は、大海人皇子(天武)にはなかった。


しかし、


・大化改新をさらに現実化する将来構想(後の大宝律令)を、大友皇子が実現するとは思われなくなった。


・理想も現実も遊離した大友皇子の近江朝は、大化改新以来の成果をすべて葬り去ってしまうのではないか。つまり、天皇の統治というものが危機に瀕しているのだ。


・うののさらら(鸕野讃良)なのだろう、おそらく彼女には近江朝がもはや終わっていると見えた。彼女の手腕は、終わっているものを速やかに終わらせてしまい、徹底してクラッシュ&ビルドを実行するところにある。


・うののさらら(鸕野讃良)は、吉野隠棲の時点で、父(天智天皇)ができなかったことを叔父にして夫(天武天皇)が実現するだろう。もしできなくても私(持統天皇)がやるだろうと、漠然とではなく、律令国家建設を具体的に決意したのではないか。


・うののさらら(鸕野讃良)は、祖母(斉明天皇)の視点で、父(天智天皇)や、叔父にして夫(天武天皇)を見ていた感がある。斉明天皇から戦争や神秘主義を排除し、律令国家建設を据えれば持統天皇になる。


・吉野隠棲の半年で、うののさららと、叔父にして夫にして政治的同志(天武天皇)との考えは一致した。


・しかし、たった半年で、筑紫から東国までの有力者に、打倒近江朝の真意が伝わるものだろうか。筑紫から東国まで、近江朝に軍事協力しないように説得し、事にあたっては天武側(大海人皇子)に兵を拠出し、近江朝を封じ込めるため関を閉じよなどと、具体的な準備が進んでいたはず。


・上記のような壬申の乱前夜の情報戦には、水運のネットワークが使われたのではないかと推察する。半島に渡海したのも、白村江に参戦したのも水軍で、平時においては交易に従事し、場合によっては海賊に化ける人たちだ。五島列島、筑紫から、瀬戸内海全域、紀伊半島、さらに伊勢湾の複雑な湾、湾奥のデルタ地帯、さらに東国まで。北方は日本海沿いに、津軽十三湖あたりまで(海を越えて大陸・半島方面にも)。斉明朝で、すでに再三接触している相手である。


・吉野を出た天武(大海人皇子)が伊勢参拝に向かったのも、水運ネットワークに接触したのだろうし、うののさらら(鸕野讃良)が疲労を理由に桑名に留まったのも同様だ。


・吉野は奥まっているようで、飛鳥にも近い。近江朝に参入しなかった勢力との情報交換は容易だったろう。


・近江朝側が勝つ見込みはまったくない。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-10 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️壬申の乱3


私見、なぜ天武(大海人皇子)が支持されたのか、


・白村江の戦後の対唐交渉が評価されていた。各地の有力者は、白村江の戦いで大きな犠牲を強いられたが、天智天皇、後の天武天皇(大海人皇子)の戦後処理は粘り強く、誠実なものだった。唐軍の強さには呆れた、というのが実感だろう。したがって、敗戦によって、天皇を中心とした政治体制を覆そうという発想にはならなかった。


・天智(中大兄皇子)、天武(大海人皇子)、持統(鸕野讃良)らが、斉明天皇に率いられて筑紫にむけ軍船を従え西下する情景が、多くの実力者に、新しい国家像として語られ、記憶されていた。唐に対峙する存在が求められていた。


・ひるがえって大友皇子の近江朝の面々はどうだ?、文弱の徒ではないか。漢詩などをつくって、雅宴をもよおしているらしい。沙宅紹明のような滅亡百済の貴族が、その背景にいるのも気にくわない。旧百済を救済に行って酷い目にあったのはわれわれなのだが。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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# by kugayama2005 | 2019-01-09 01:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️壬申の乱2


私見、


・大友皇子による近江朝は、政治的に機能しなかった。もともと近江朝は、唐が軍事侵攻してきた場合、難波朝では地理的に危険すぎるという負の考えによる遷移だ。唐の脅威がなくなった時、近江にいる理由はない。しかし大友皇子には、率先して大和の地に朝廷をたてるような政治力はなかった。


・大友皇子は、その才能を賛美されている。才気煥発、学問、文芸に秀でている。妃の十市皇女は、なんとあの額田王の娘だ。大友皇子が天皇に即位すれば(したという説もある)、十市は皇后に、額田王は皇后の母になる。そういう「雅宴」の世界を守ろうとする官僚もいる。---はたしてそれでいいのか?、唐と戦い、傷ついたこの国はまだ確固とした基礎を築いていないのに、と、一方そう考える人がいる。


・藤原鎌足の死病を天智天皇が見舞った時、「(唐との)戦争に私はまったく役にたたなかった」と鎌足は述べたという。痛恨の辞といえる。勝手に解釈すれば、戦争は失敗だった、申し訳ない。今は大化改新で示した新政を、実効性のあるもの(後の大宝律令のような)にしよう---それは鎌足に臨終の床で語らせた、天智、天武、持統の政治意志に他ならない。


【写真】高岡城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。高岡城は再建されず、城址公園になっています。


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# by kugayama2005 | 2019-01-08 02:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️壬申の乱


壬申の乱についてはあまりに多くが語られているので、数点だけ考えを整理しておきます。壬申の乱とは、叔父(後の天武)が甥・大友皇子(崩御した天智天皇の息子で近江朝の皇太子)を攻め、敗れた大友皇子が縊死するという悲惨な出来事です。うののさららにとっては、大友皇子は異母弟。


・天智天皇の崩御と、(後の)天武+うののさららの吉野隠棲。私見、やはり白村江の敗戦処理は、相当に困難を極めた。(後の)天武も疲れ果てていた。それに加えて、基本的に兄弟での皇位継承には消極的だったのではないか。「吉野隠棲」仮装説、つまり天智天皇から譲位を受けずに身の安全を確保しつつ、実力で天皇になる戦略、という説は間違えではないか。天智朝の負の遺産を引き受けたくなかった、というのはわかりやすいが、後の解説であろう。


・天武+うののさららの吉野隠棲は、本気だったと思う。天智天皇直系の男子、大友皇子が近江朝を継いで、うまくいけばそれでいいではないか。


・あるいは、天智天皇が譲位をほのめかして、(後の)天武が断り、その場で剃髪して出家する、その前後の史話が全て善意の潤色である可能性もある。なぜなら、その部分を記述した人も、それを採用したひとも、その後の展開をすべて知っていて書いているからだ。


・天武+うののさららの吉野隠棲(近江朝脱出)が自然な成り行きだったとして、一方、律令国家建設がやり残した仕事として心の底にわだかまっていたのも事実だ。


【写真】高岡城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。高岡城は再建されず、城址公園になっています。ただ広がる雪原、古城の夢。


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# by kugayama2005 | 2019-01-07 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して


◾️律令編纂へ


天智、天武、持統は、時代を共有した。特に、天武、持統は最前線で事態の推移を経験した。


唐の政治(軍事)圧力は、なんとかしのいだ。しかし、唐の組織力には圧倒されただろう。


大化改新以前から、隋・唐の法制資料は入手しており、大化改新では一部整備された。大化改新以前にも、厩戸王(聖徳太子)はじめ、改革に着手はしている。しかしそれらは理念としては存在したが、実質は古来の制度が機能していたのではないだろうか。


しかし、白村江敗戦後の外交交渉の過程で、制度の脆弱性があらわになった。国際社会に通用するものではなかったのだ。さいわい、白村江後に統一新羅が誕生して、唐軍は半島から撤退したので、唐が攻めてくるということはなくなった。


唐に対抗する国は日本だけという状況で、制度的不備を克服する機会は「今しかない」、というのが天武・持統の強い思いだったろう。


(西暦646年に大化改新が発布されているが、瀧川政次郎氏は「日本法制史」のなかで「(大化改新の)支那風の統治権の思想は、単に思想として輸入されたに過ぎない」との旨、指摘されている)


【写真】高岡城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。高岡城は再建されず、城址公園になっています。


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# by kugayama2005 | 2019-01-06 00:52 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️唐との関係


・日本軍の捕虜は返還されない(返還が実現したのは天武朝になってから)


・日本からの遣唐使は、すでに西暦660年には長安で幽閉されている。唐の百済総攻撃が内定していたので、百済の同盟国である日本への情報漏洩を警戒したのだ。


・西暦664年以降、毎年のように唐の使節が九州(筑紫)に、外交文書を持参したり、武人を伴ったりして来日した。威嚇と情報収集が目的だろう。


・西暦671年、2000人の唐の訪日団がやってきて、九州(筑紫)に上陸した。これは威嚇というより、緊迫した軍事行動だ。翌年1月、天智天皇が崩御。唐の使節は喪服を着て哀悼の意を示し、5月にはなんとか帰国し(てくれ)た。(その後の遣唐使は、702年。つまり持統天皇は遣唐使を派遣せず)


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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# by kugayama2005 | 2019-01-05 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

西暦663年 白村江の戦い

西暦672年 壬申の乱


この9年間にこだわっていると先に進めないので、一応まとめに入ると、


1 弟(後の天武)は九州に残り、敗戦処理の矢面に立った。ここで私見だが、うののさららは夫(後の天武天皇)のもと(九州)に残ったのではないか。なぜなら、壬申の乱前後、そしてそれ以降、天武・うののさららの思いが強く一致していくからだ。そういう同志的な強い結びつきは、ともに危機に遭遇してこそあらわれる。


2 唐・新羅の強い賠償請求。捕虜の返還交渉。いずれも経験のない事態だ。官僚たちが奮闘したのだろう。


3 西国の有力者たちも、平静ではいられない。多くの働き手を失ったのだ。


4 最前線の防衛体制構築のため、東国から拉致同然で防人を補充したが、そこにも不満が渦巻いている。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。金沢城址内に残る、旧陸軍第6旅団司令部庁舎。


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# by kugayama2005 | 2019-01-04 07:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

西暦663年 白村江の戦い

西暦672年 壬申の乱


天智は難波京(その後近江京に遷都)へ帰り、弟(後の天武)は九州に残り、敗戦処理にあたった。


唐や新羅の外交団が次々と九州にやってきた。唐が日本の軍事制圧に乗りだす可能性もあり、九州~畿内間に城をつくり、防衛体制を敷いた。


万葉集に残る防人歌は、この時、難波津で採集されたものという。


つまり、西国ではもう兵を集めることができなかったのだ。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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# by kugayama2005 | 2019-01-03 05:52 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

西暦663年 白村江の戦い

西暦672年 壬申の乱


壬申の乱に至るまでのこの9年間は、天智、天武、藤原ら官僚、うののさららにとって塗炭の日々だった。


・・・


それ以前の、大陸情勢を振り返ってみたい。


斉明天皇は、軍を北方に放ち、アイヌ以北の粛慎人とも交戦している。九州に動座し、百済救済軍を動かすための知識、胆力を兼ね備えていた。


百済は独自で戦える力はなく、日本の援軍は不可欠だった。百済遺臣としては、日本に人質として送っていた王子を返還してもらい、小国でもよい、ともかく百済回復の道をさぐった。日本にとって、半島南西部の海岸地方は親しみのある地域であり、そこを圧迫する北部勢力は忌むべき存在だ。


実際に北部勢力は南下し、ほとんど半島を併呑する勢いだった。(668年ごろ統一新羅が成立。白村江の戦いは663年)


半島出兵の失敗の原因は私見、


◾️唐の動静を見誤った


・唐にとって、新羅やさらに北方の高句麗は面倒な存在だったが、日本は海を隔てており、外交的美辞麗句の範囲だった。おそらく斉明朝の得た情報は、耳に優しいものだったろう。つまり、「唐の主力とは戦闘が起こらないだろう」という、曖昧な心理がほとんど確信に近くなっていった。


・斉明朝は、唐に対して、日本の序列を半島各国より上にするよう再三求め、新羅に対しては日本朝廷に朝貢するよう要求している。つまり、日本統一と北方との対峙という(主観的な)版図が、意識の中にできていた。


・領土的野心が派兵の背後にあるので、軍事行動が過大になった。百済への親密な思いはあるにしても、その独立運動は風前の灯であり、形式的な軍事援助で終えることもできた。しかし、日本で育った百済の王子を百済王とすることで、唐帝国と対峙できるはずだという過大な構想を抱いた。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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# by kugayama2005 | 2019-01-02 13:50 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

うののさらら(鸕野讃良=後の持統天皇。ぬかたのおおきみ(額田王=後の天智天皇夫人。そして盟主は斉明天皇。


この3人の女性が淀川を下り、難波津から海に出て、瀬戸内の港港を回り、軍の船団を率いて筑紫に着く。


斉明天皇は、(後の)天智天皇、天武天皇兄弟を従えて軍を整える。(軍の渡海以前に斉明天皇は崩御)


白村江の敗北。(後の)天智天皇、天武天皇兄弟は、それぞれ重い敗戦処理を背負うことになる。


西暦663年 白村江の戦い

西暦672年 壬申の乱


壬申の乱に至るまでのこの9年間は、天智、天武、藤原ら官僚、うののさららにとって塗炭の日々だった。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

謹賀新年。城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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# by kugayama2005 | 2019-01-01 23:55 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

【第1032夜】


私は、新札の200万円をその男に渡した。場所は、自宅の隣地だ。鳥かご状の細い鉄柱が夜空に高くそびえており、その中にクラゲのように半透明で、ちかちか光るチュウブ状の建築物がある。高さはおよそ100階建てくらい。敷地の角が小さく三角形に切れていて、細い電柱のようなものが立っている。電柱の先がややカーブして、通信用のボックスが取り付けてある。四角い箱から、熊の手のように機器の黒いケーブルがたくさん出ている。


自宅の方に戻ると、いつのまにか、ゆるい坂の先に細い橋がどこまでも続いており、その下は静かな海になっている。夜だ。橋に足がかかると、急に幅が狭くなり、アーチ状に向うが高まる。まるで、滑り台を逆に登ろうとするかのようだ。前方に陸地が見えないので、行くのは危険だと思いやめる。


自宅の裏に、仮の船着場が出来て、一艘わりと大きな船が接岸している。その船に並行して、白い磁器でできた船が泊まっているが、それは丸くなった切っで自動的に料理をつくる船らしい。そういう便利な珍しい船が自宅の裏に来ていることを、誰かに知らせたいと思って、帰ろうとすると、道路に面して大きな病院が建ってしまったようだ。


フェンス越しに、明るく輝く病室がいくつも見えて、2、3分歩いてもまだ続いている。守衛のような男が訝しげにこっちを見ているような感じだが、誰かが、あれは隣地の男だから知らんぷりした方が良いですよ、と囁いている。隣にいきなり病院を建てておきながら、何て奴らだ。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。

2019 謹賀新年

降る雪や昭和も遠くなりにけり


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# by kugayama2005 | 2019-01-01 01:20 | Trackback | Comments(14)

この迷稿は、うののさららを道しるべに律令国家の誕生を考え、菅原道真を頼りに律令国家の崩壊過程の兆しを探る(つもり)。


645年 うののさらら誕生

845年 菅原道真誕生


なんときっちり200年差。ちなみに今から200年前は、江戸の文化文政時代。


この探索を思いついたのは、実は菅原道真がきっかけ。道真は文章博士で一生を送りたいのにそうはいかず、讃岐国司にされたりしてそこで地方政治の実態をつぶさに経験している。朝廷中心の政治改革に着手しようとするが、実力派官僚の総スカンにあって、太宰府に単身赴任、逝去。


うののさららの祖母、斉明天皇を補佐したのが、かまたり(後の藤原)。道真失脚の背景も藤原である。その間に一本の線、律令制度があるという見立てなわけだ。


律令制の崩壊過程で日本は実質的な戦国時代に突入し、家康の元和偃武までそれは続く、私見、平家滅亡が1185年、元和偃武が1615年、570年戦争なのです。いつまで戦争やってんだよという感ですが、英国人が日本の歴史を知ると、なんやこれ英国と同じやないかと思うそうです。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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# by kugayama2005 | 2018-12-31 00:33 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇(うののさらら)=左脳的(法律制定)

額田王(ぬかたのおおきみ)=右脳的(蛇巫、詩人)


と、トンデモ本のような書き方で恥ずかしい感じですが、「農業化」による心の変化を、日本における最古級(と言っても相対的にはそれほど古くない)の文字記録が捉えていたと解釈します。


ジュリアン・ジェインズは、「イーリアス」(紀元前1000年前後に成立)によって右脳的な機能を解析しようと試みている。しかしそれはちょっと古すぎるので、その後の歴史との繋がりがわからない。私見では、旧約聖書の方が史料的価値が高いと思うけれど、荷が重い。


日本は、ユーラシアの他の地域に比べて「農業化」が多分に遅れたので、西暦600年代の心の変化、その新鮮な記録が残っているともいえる。


気になるのは、遊牧民の系統で、もしかしたら左脳化は、彼らの中でもっと早く起こっていたかもしれない。そのことを考えるには、シャーマニズムを調べなければならないけど、それはまた後で。スペインが征服する以前の米大陸先住民に、カギがあるような気がする。


【写真】名古屋城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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# by kugayama2005 | 2018-12-30 01:11 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,ph.D.)の著作から、右脳・左脳の特徴を抜き書きします。(ヒトによって右脳・左脳の働きが逆の場合もありますがここでは一般的に多数派(85%程度)の場合)


右脳の働き

・物事の関係を憶える

・瞬間以外の時間は存在しない

・規則に縛られず自由

・共感や感情移入を生む

・言葉以外のコミュニケーションを理解する


左脳の働き

・言語で考える

・右脳が作り出した複雑で膨大な瞬間瞬間の情報を直線的な時間軸につなぎ合わせる

・自我(エゴ)によって自分と他者を常に比較する

・文の構文や細部を理解する


それはそうと、彼女の体験では、左脳が不自由になり、右脳は健在という状況で、宇宙と一体となったような幸福感を感じたそうです。これはいわゆる臨死体験ですね。臨死体験というのは、死後の世界を体験したわけではなく、右脳の世界を体験したということです。


【参考】ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」<Jill Bolte Taylor:My Stroke of Insight(2006)>


【写真】名古屋城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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# by kugayama2005 | 2018-12-29 00:47 | 2018日記 | Trackback | Comments(2)

あれが左脳的、これが右脳的などというと、血液型占いのようでちょっと気分がすぐれないのですけど(笑。


ニンゲンの脳を実験的に扱うことはないできないわけで(以前はずいぶん乱暴なことをしていたようですが)、医療の一環として知りえた情報が分析されてきたわけです。最近では、磁気共鳴によって脳のニューロンの働きが詳細に解明されつつあるらしい。


しかし、現実に自分の右脳・左脳がどう働いているのかを、分離して体験することは不可能です。が、ここに、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,ph.D.)という脳科学者の著書があります


彼女は、左脳に出血を起こし、左脳の機能が失われていく体験をし、一命はとりとめ、その後時間をかけて回復しました。その体験を克明に伝えています。脳科学者が、自分の左脳が破壊されていくことを観察するという体験です。


彼女は、その過程において、左脳的・右脳的な働きを理解したのです。


【参考】ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」<Jill Bolte Taylor:My Stroke of Insight(2006)>


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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# by kugayama2005 | 2018-12-28 01:31 | 2018日記 | Trackback | Comments(4)

うののさらら(後の持統天皇)

・西暦645年生まれ

・出自 父は後の天智天皇、母は蘇我氏の名門

・子 草壁皇子(天武天皇の皇太子)


ぬかたのおおきみ(額田王)

・西暦627年頃の生まれ(推定の根拠なし)

・出自 地方豪族(吉野裕子説では蛇巫女)

・子 十市皇女(父は後の天武 天智の子・大友皇子の妻)


うののさらら(鸕野讃良=後の持統天皇)が、父天智、ぬかたのおおきみ(額田王)を激しく憎み、反面、己の子や孫に愛情を注いだというよくある説は、私見では正しくないと思う。


うののさららは、誰からも愛される姉と、言葉を発しない夭折することになる弟とともに、母を喪って祖母斉明天皇に引き取られた。(後の)天智天皇の子であり、母は蘇我系の長老の娘という良血だ。しかし自身が将来、天皇になるという機会はまったくないようだし、希望もなかった。


そして祖母斉明天皇に接して、苛烈な政治の実態、その律動するプロセスの知識を、幼児期から叩き込まれた。知識だけではない、百済救援の軍船で、祖母、父、夫らとともに九州に航海し、数年とどまった。庇護者、祖母の崩御。そしてその地で長男を出産した。敗戦による混乱、そして帰京。夫(後の天武天皇)は戦後処理のため、長く九州から帰れなかった。


かまたり(後の藤原)のような、実力派官僚との接触もあったはずだ。そして、ぬかたのおおきみ(額田王)との交流もあったはずだ。ぬかたのおおきみ(額田王)は、うののさららより、(だいたい)18歳年上。祖母の軍船に乗って西下する航海の時、15歳の彼女の目に映るぬかたのおおきみ(額田王)33歳は、冷徹な彼女(うののさらら)にしても圧倒されるものだった。憎しみの対象にはならなかった。


彼女(うののさらら)は、ーー「(自分たち)娘4人セット」が「美女詩人(ぬかた)ひとり」と等価であるーーという現実を直視した。しかし、自分たちより4倍の価値がある天才詩人を憎む理由はない。


さて、いろいろ書いてきましたが、ちょっと後戻りして、


「ジュリアン・ジェインズや、スティーヴン・ミズンによって指摘されたこと(農業化によってニンゲンが変化した)を踏まえれば、この時期のニンゲンは経済基盤の変遷に並行して、心的動揺にさらされたということになる。その結果、自然の声を聞いていたニンゲンに自然の声が聞こえなくなり、その代わりに「水田稲作イデオロギー」に支配されたのではないか。(2018日記【076】2018-11-30)」というところを思い出します。


持統天皇こそが、左脳的と言えるのではないでしょうか。


それに対し、額田王(ぬかたのおおきみ)はあまりにも右脳的です。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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# by kugayama2005 | 2018-12-27 00:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(2)

ぬかたのおおきみ(額田王)と、うののさらら(後の持統天皇)との関係。「うののさららは12歳になると、1年年長の姉おおたとともに(あるいは姉に1年遅れて)、後の天武天皇と結婚するが、それは「後宮に入る」ということ」と書きました。


しかし、具体的に「後宮」というものがあったのかどうか、よくわからない。が、そこ(後の天武の後宮)に、ぬかたのおおきみ(額田王)がいた。そして、(天智の娘である)おおた+うのセットが、叔父(天武)の後宮入りした際、ぬかたのおおきみ(額田王)と引き換えのように交換されている。


「おおた+うののさらら」+α(計4人)

天智(兄)→→ 天武(弟)


「ぬかたのおおきみ」

天武(弟)→→ 天智(兄)


レヴィ=ストロースは、「結婚とは女の交換だ」と指摘しているが、おおた+うのは、まさに交換の玉になった。この交換トレードは、天智(兄)・天武(弟)間で何か得るものがあったかというと、


天智(兄) 「美女蛇巫詩人」ひとりを手に入れた

天武(弟) 「次代天皇の娘」よにんを手に入れた


◾️あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


ぬかたのおおきみ(額田王)の有名な万葉歌です。「ほんのりと茜色をしている紫草の野、そこは朝廷の御料地、あなた(天武)がそこでそんなに私を欲しがるなんて、野守(天智)が見ているでしょ?」(ちなみに古代では、貴人でも野原で男女がいちゃいちゃするのが普通だったらしい)


というわけで、天武としては「美女蛇巫詩人」を手放した(奪われた)ことが、後々までの痛恨事だった。しかし、「天皇当選確実の天智」の「娘4人セット」獲得は、天武、あるいは天武系にとって、天皇に次ぐ地位がほぼ約束されたことになるので、天武にとっても悪い話ではなかったらしい。


それはともかく、「娘4人セット」のセット売り(独禁法違反)の玉になった娘たちはどうだったのか。他の3人はともかく、うののさらら(後の持統天皇)はどうだったのか。


このことで、うののさららは父(後の天智天皇)を深く憎むようになったという説もある。私見ではそれよりも、12歳の少女が、もともとそういう性格であったが、さらに世の中に冷徹な視線を向け出したと考えたい。


特に、「娘4人セット」が「美女詩人ひとり」と等価である(しかもそれを父と叔父(夫)が量った)という現実を直視したことは、彼女にとって大きな出来事だったろう。ぬかたのおおきみ(額田王)が、熟田津でも脚光をあびている時、どう感じていたか。後に、持統天皇として柿本人麻呂を称揚しているのも、(美貌や詩才や呪力ではあの人にはとてもかなわないという)心の傷を感じさせる。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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# by kugayama2005 | 2018-12-26 00:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

斉明天皇の軍事行動(北方攻略・百済への援軍派遣)から推察すると、東国・西国の実力者は、天皇政権にほぼ協力的になっていたようだ。協力的ということは、現実的なメリットを感じていたということだろう。


天皇ファミリーを引き連れての九州行きは、当然、募兵をしながらというものだ(したがって敗戦処理も困難を極めることになる)。


◾️熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


ぬかたのおおきみ(額田王)の有名な万葉歌ですね。にぎたつ(熟田津)は温泉の出る港、という地名から、道後温泉あたりかと推察されています。


ぬかたのおおきみ(額田王)は、後の天武天皇の最初の妻であり、この航海の前にはすでに、とおちのひめみこ(十市皇女)という天武にとっての初の子を生んでいる。言わずと知れた、ずば抜けた美貌と詩才に恵まれた女性だが、吉野裕子先生は、ぬかたを、蛇巫(だふ)と推察している。


蛇巫とは何か、というと蛇神と交わり、子蛇を産む巫女であり、古代日本では大きな影響力を持つということになるらしい。


斉明天皇の軍船には、斉明天皇、(後の)天智天皇・天武天皇兄弟と、おおた・うの姉妹のような若い妃たち、ぬかたのようなスターも乗っていたわけだ。そのような船に寄港されれば、進んでか渋々かは別として、地元の実力者は協力しないわけにいかない。


◾️熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


この歌の語尾は、同意をうながすものである。天皇家の嫁といえどもそんなこと出来ない。蛇神の巫女ぬかたが、義母斉明天皇になりかわっているのだろう。うののさららの視線は、そういうぬかたをどう捉えていたのか?


さて、この歌の「月」はどういう月?、という疑問があるけれど、道後温泉あたりから九州方面に船で行くわけである。だから、西へ流れる強い潮が好都合だ。ということは、満月(大潮)に近い月が西に没して行く頃、早朝ではないかな? 月待てばを、東の空に昇ってくる満月に近い月と解釈すると、潮流は逆流になってしまうのでは?


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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# by kugayama2005 | 2018-12-25 03:50 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

3 うののさらら

◾️九州行きから敗戦まで


・西暦660年(15歳) 斉明天皇は百済救援のため軍を発し筑紫朝倉宮に遷幸。うののさららも夫とともに同行する。

・西暦661年(16歳) 祖母斉明天皇が筑紫で崩御

・西暦662年(17歳) 草壁皇子を筑紫で出産

・西暦663年(18歳) 白村江の戦いで大敗


祖母斉明天皇の庇護のもとに成長した、おおた、うののさらら姉妹は、斉明天皇、父(後の天智)、叔父であり夫(後の天武)らとともに九州へ向かう。


斉明天皇がいかに特異で、激しい政治的人間だったかが垣間見える。軍船に天皇ファミリーを乗せて、難波津から九州まで押し渡り、百済救済の軍を督戦する。2人の息子を従え、実務に当たらせる。


この九州行きの直前には、北方に派兵し、東北の勢力を攻撃して、アイヌ以北の粛慎人とも交戦させている。


しかし、斉明天皇は、軍が渡海する前に九州の地で崩御。


うののさららは662年に草壁皇子を、姉おおたは663年に大津皇子を九州で出産した。


白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、戦争は終わる。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は駿府城を陥すが、その後、江戸への国替え。晩年、家康は駿府城に戻り逝去。駿府城跡は今、発掘中。


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# by kugayama2005 | 2018-12-24 00:56 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

2 うののさらら

◾️母の死から結婚まで


・西暦651年 母を喪った姉おおた、弟たける、うののさららの3人は、祖母である退位した京極天皇(父の母)に引き取られる。

・西暦655年 元京極である祖母が斉明としてふたたび天皇に(重祚)

・西暦657年 後の天武天皇(叔父)と結婚

・西暦659年 弟たけるを喪う


うののさららが、6歳から12歳までの間、京極・斉明天皇という特異な祖母のもとで育った意味は大きい。ほとんど彼女の方向性を決定づけるようなものだったろう。


京極・斉明天皇の孫に対する情熱は、主に姉おおた、弟たけるに注がれた。うののさららは、添え物程度という見解もあるが、おそらく彼女の冷静な性格が溺愛の対象にならなかったのだろう。うののさららは、優しい姉の影にいて、じっと経験を積み重ねていった。


うののさららは12歳になると、1年年長の姉おおたとともに(あるいは姉に1年遅れて)、後の天武天皇と結婚するが、それは「後宮に入る」ということで、後宮の女性たちは、のべ10人くらいらしい。その10人の女性から生まれた子は、16人くらい。


姉おおたが序列1位、うののさららは2位。蘇我氏系の良血姉妹だったのだ。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は駿府城を陥すが、直後江戸への国替え。晩年、家康は駿府城に戻り逝去。


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# by kugayama2005 | 2018-12-23 00:02 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

持統期は、農業(水田稲作)化と成文法の制定が、天皇国家イデオロギーとともに一気に成熟しようとした。そのすべてを、うののさらら(持統)が掌握していた。その特異な才能は、どのようにして開花したのか。


少し迂遠になるけれど、うののさらら年表を補完していく。


1 うののさらら

 ◾️誕生から母の死まで

 

・母 おち(遠智)いらつめ(娘)


・西暦644年 姉 おおた(大田)ひめみこ(皇女)誕生

・西暦645年 次女うののさらら(鸕野讃良)ひめみこ(皇女)誕生

・西暦651年齢 弟 たける(健)おうじ(皇子)誕生


うののさららを取り巻く身近な環境は、母、姉、弟の3人だ。もちろん父は(後の)天智天皇ではあるが、一緒に暮らすわけではない。


うののさらら誕生の西暦645年とはどういう年か?、というと「乙巳の変」だ。「乙巳の変」とは言うまでもなく、うののさららの父が、京極天皇(祖母=斉明天皇と同一人物)の面前で蘇我入鹿に斬りかかり、殺害した年だ。


うののさららの母、おちいらつめ(遠智娘)は蘇我系の出身で、父は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの いしかわまろ)という。石川麻呂も入鹿謀殺の支援者であり、その現場にいた。(4年後に誣告により自殺)


「日本書紀」の記述はあえて忘れるとして、蘇我系の長老・石川麻呂を支持者に巻き込み、蘇我の巨魁・入鹿を討つという手法は、時間をかけて練り上げられたものだろう。石川麻呂が自殺に追い込まれるのも、計画の一環だ。


おちいらつめ(遠智娘)が2人の娘を産む間、この計画は進んでいたのだ。京極天皇(後の斉明天皇=「おおた・うの」姉妹の祖母)は、目の前での惨劇に動揺し、翌日、天皇を譲位した。というが、天皇が息子の計画を知らないわけがないと思う。


それ以上に、おちいらつめ(遠智娘=おおた・うの姉妹の母)の受けた衝撃は激しかった。おちいらつめは、その4年後に父石川麻呂を謀殺され、6年後、末子たける(健)おうじ(皇子)を産むと病死した。たける(健)は、言葉を発しない子どもだったという。


吉野裕子先生は、「祖父の非業の死と、母の狂死は、父(天智)への憎悪となって(持統の)生涯を支配した」(1986年刊『持統天皇』)と書かれているが、私はどうもそれより、うののさららの冷徹な視線を感じてしまうのだが。


うののさらら

・誕生 父が蘇我入鹿を朝廷で謀殺

・4歳 祖父(母の父)が誣告により自死

・6歳 母が(吉野先生のいう)狂死


 ※満年齢は単純計算


【写真】掛川城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は浜松城を本拠地として義元なき今川領を圧迫、掛川城を奪取した。


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# by kugayama2005 | 2018-12-22 01:32 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

うののさらら(持統天皇)

◾️西暦645年 誕生

父は(後の)天智天皇


◾️西暦649年(4)

 ・母が病没?


◾️西暦657年(12)

 ・将来の天武天皇と結婚(つまり結婚相手は叔父)


◾️西暦662年(17)

 ・筑紫で草壁皇子を生む(祖母の斉明天皇の百済救援に同行し九州に来ていた)


◾️西暦663年(18)

 ・白村江の戦いで倭・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗


◾️西暦671年(26)

 ・吉野に夫(将来の天武天皇)が引きこもったのに同行


◾️西暦672年(27)

 ・夫、二児とともに吉野脱出を果たすが、桑名に留まる

 ・壬申の乱

 ・夫は天武天皇となり自身は皇后に


◾️西暦681年(36)

 ・夫とともに律令編纂を開始

 ・長男草壁皇子を皇太子に


◾️西暦686年(41)

 ・夫の天武天皇が崩御

 ・大津皇子(草壁皇太子の異母弟)謀反の疑いをかけられ自殺(持統の策略という説あり)


◾️西暦689年(44)

 ・長男の草壁皇太子が病没

 ・飛鳥浄御原令が制定される(無いという説あり)


◾️西暦690年(45)

 ・天皇に即位


◾️西暦697年(52)

 ・持統は上皇(太上天皇)に、持統の孫である軽皇子が文武天皇に


◾️西暦701年(56)

 ・大宝律令制定


◾️西暦702年(57)

 ・崩御


 ※西暦の後に記入した満年齢に相当する数字は単純計算なので、必ずしも事実のあった時の年齢ではない


【写真】掛川城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は浜松城を本拠地として義元なき今川領を圧迫、掛川城を奪取した。


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# by kugayama2005 | 2018-12-21 01:33 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

さて、「律令制崩壊過程」とはいかにもエラそうなので、「班田制度の行き詰まり」くらいに可愛くいこうかとは思ったのですが、もう書いちゃったことは仕方ないので無知を晒して参ります。このあたりから歴史時代に入りますから、妄想日本古代史、などと言って遊んでいられない(けど遊ぶ)。


オオキミを元首とした大和ヤマト国による、ゆるやかなクニ連合が、天皇を中心とした中央集権国家に変貌する。その過程で政治信念(あえて言えば天皇イデオロギー)を現実化したのは持統天皇、彼女の本名は「うののさらら」。


本来、貴人の本名を口に出して言うことなどありえない話なのだが、「うののさらら」とは綺麗な名前。しかしその政治的能力は、驚倒すべきものがある。


律令国家への変身の企図は、すべて「うののさらら」(持統天皇)の掌中にあったとワタシは思う(思うのは自由だ)。


【写真】掛川城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は浜松城を本拠地として義元なき今川領を圧迫、掛川城を奪取した。しかし、背後から迫り来る武田の脅威。


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# by kugayama2005 | 2018-12-20 00:01 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005