2018日記【092】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 21

「倭国大乱」(西暦230年頃)から「関ヶ原の戦い」(西暦1600年)まで、歴史的な基調はそれほど変わらないように見えますが、


・ヒミコとトヨの平和

・大和ヤマト朝廷の成立


は別の「ゆるやかな連合」が基調になっていると見えます(後には強い集権化---そのツールが律令制)。


例えば、古事記によるヤマトタケルを考えてみると、前半は熊襲退治です。九州ヤマト国が消滅した後、大和ヤマト国が何度も南九州に出兵しているようだ。


しかし、ヤマトタケル後半の事績は、東国への浸透で、そこには戦闘があまりない。そこでは、最新の稲作技術、農具(後には鉄器、馬なども)の贈与、結婚による縁組などが主な行為だったのではないか。


ヤマト朝廷の米を持参し、種もみとして贈り、また同時に試食会を開催(実際に宴会も多かったらしい)。東国のヒトビトは、こんな美味い米が大量に収穫できるなら、ヤマト朝廷グループに試しに入ってみても良いと思ったろう。もっと積極的にヤマト朝廷グループ入りを希望した者は、娘をヤマトタケルに嫁がせようとした(もしかしたらヤマトタケルが天皇になるかもしれないしな)。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。


e0022344_16412083.jpg

e0022344_16421476.jpg






トラックバックURL : https://kugayama05.exblog.jp/tb/27708365
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by kugayama2005 | 2018-12-16 03:38 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005