2019日記【002】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 37

西暦663年 白村江の戦い

西暦672年 壬申の乱


壬申の乱に至るまでのこの9年間は、天智、天武、藤原ら官僚、うののさららにとって塗炭の日々だった。


・・・


それ以前の、大陸情勢を振り返ってみたい。


斉明天皇は、軍を北方に放ち、アイヌ以北の粛慎人とも交戦している。九州に動座し、百済救済軍を動かすための知識、胆力を兼ね備えていた。


百済は独自で戦える力はなく、日本の援軍は不可欠だった。百済遺臣としては、日本に人質として送っていた王子を返還してもらい、小国でもよい、ともかく百済回復の道をさぐった。日本にとって、半島南西部の海岸地方は親しみのある地域であり、そこを圧迫する北部勢力は忌むべき存在だ。


実際に北部勢力は南下し、ほとんど半島を併呑する勢いだった。(668年ごろ統一新羅が成立。白村江の戦いは663年)


半島出兵の失敗の原因は私見、


◾️唐の動静を見誤った


・唐にとって、新羅やさらに北方の高句麗は面倒な存在だったが、日本は海を隔てており、外交的美辞麗句の範囲だった。おそらく斉明朝の得た情報は、耳に優しいものだったろう。つまり、「唐の主力とは戦闘が起こらないだろう」という、曖昧な心理がほとんど確信に近くなっていった。


・斉明朝は、唐に対して、日本の序列を半島各国より上にするよう再三求め、新羅に対しては日本朝廷に朝貢するよう要求している。つまり、日本統一と北方との対峙という(主観的な)版図が、意識の中にできていた。


・領土的野心が派兵の背後にあるので、軍事行動が過大になった。百済への親密な思いはあるにしても、その独立運動は風前の灯であり、形式的な軍事援助で終えることもできた。しかし、日本で育った百済の王子を百済王とすることで、唐帝国と対峙できるはずだという過大な構想を抱いた。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


e0022344_22262241.jpg








トラックバックURL : https://kugayama05.exblog.jp/tb/27774455
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
by kugayama2005 | 2019-01-02 13:50 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005