2019日記【005】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 40

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️唐との関係


・日本軍の捕虜は返還されない(返還が実現したのは天武朝になってから)


・日本からの遣唐使は、すでに西暦660年には長安で幽閉されている。唐の百済総攻撃が内定していたので、百済の同盟国である日本への情報漏洩を警戒したのだ。


・西暦664年以降、毎年のように唐の使節が九州(筑紫)に、外交文書を持参したり、武人を伴ったりして来日した。威嚇と情報収集が目的だろう。


・西暦671年、2000人の唐の訪日団がやってきて、九州(筑紫)に上陸した。これは威嚇というより、緊迫した軍事行動だ。翌年1月、天智天皇が崩御。唐の使節は喪服を着て哀悼の意を示し、5月にはなんとか帰国し(てくれ)た。(その後の遣唐使は、702年。つまり持統天皇は遣唐使を派遣せず)


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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by kugayama2005 | 2019-01-05 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


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