2019年 01月 08日
2019日記【008】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 43
白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、
◾️壬申の乱2
私見、
・大友皇子による近江朝は、政治的に機能しなかった。もともと近江朝は、唐が軍事侵攻してきた場合、難波朝では地理的に危険すぎるという負の考えによる遷移だ。唐の脅威がなくなった時、近江にいる理由はない。しかし大友皇子には、率先して大和の地に朝廷をたてるような政治力はなかった。
・大友皇子は、その才能を賛美されている。才気煥発、学問、文芸に秀でている。妃の十市皇女は、なんとあの額田王の娘だ。大友皇子が天皇に即位すれば(したという説もある)、十市は皇后に、額田王は皇后の母になる。そういう「雅宴」の世界を守ろうとする官僚もいる。---はたしてそれでいいのか?、唐と戦い、傷ついたこの国はまだ確固とした基礎を築いていないのに、と、一方そう考える人がいる。
・藤原鎌足の死病を天智天皇が見舞った時、「(唐との)戦争に私はまったく役にたたなかった」と鎌足は述べたという。痛恨の辞といえる。勝手に解釈すれば、戦争は失敗だった、申し訳ない。今は大化改新で示した新政を、実効性のあるもの(後の大宝律令のような)にしよう---それは鎌足に臨終の床で語らせた、天智、天武、持統の政治意志に他ならない。
【写真】高岡城/SONY DSC-RX0
城ファンではないのですが、勢いで。高岡城は再建されず、城址公園になっています。