2019日記【010】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 45

白村江の戦い(西暦663年)~壬申の乱(西暦672年)の間9年に関連して、


◾️壬申の乱4


私見、


・「天智天皇から譲位を受けずに身の安全を確保しつつ、実力で天皇になる戦略」は、大海人皇子(天武)にはなかった。


しかし、


・大化改新をさらに現実化する将来構想(後の大宝律令)を、大友皇子が実現するとは思われなくなった。


・理想も現実も遊離した大友皇子の近江朝は、大化改新以来の成果をすべて葬り去ってしまうのではないか。つまり、天皇の統治というものが危機に瀕しているのだ。


・うののさらら(鸕野讃良)なのだろう、おそらく彼女には近江朝がもはや終わっていると見えた。彼女の手腕は、終わっているものを速やかに終わらせてしまい、徹底してクラッシュ&ビルドを実行するところにある。


・うののさらら(鸕野讃良)は、吉野隠棲の時点で、父(天智天皇)ができなかったことを叔父にして夫(天武天皇)が実現するだろう。もしできなくても私(持統天皇)がやるだろうと、漠然とではなく、律令国家建設を具体的に決意したのではないか。


・うののさらら(鸕野讃良)は、祖母(斉明天皇)の視点で、父(天智天皇)や、叔父にして夫(天武天皇)を見ていた感がある。斉明天皇から戦争や神秘主義を排除し、律令国家建設を据えれば持統天皇になる。


・吉野隠棲の半年で、うののさららと、叔父にして夫にして政治的同志(天武天皇)との考えは一致した。


・しかし、たった半年で、筑紫から東国までの有力者に、打倒近江朝の真意が伝わるものだろうか。筑紫から東国まで、近江朝に軍事協力しないように説得し、事にあたっては天武側(大海人皇子)に兵を拠出し、近江朝を封じ込めるため関を閉じよなどと、具体的な準備が進んでいたはず。


・上記のような壬申の乱前夜の情報戦には、水運のネットワークが使われたのではないかと推察する。半島に渡海したのも、白村江に参戦したのも水軍で、平時においては交易に従事し、場合によっては海賊に化ける人たちだ。五島列島、筑紫から、瀬戸内海全域、紀伊半島、さらに伊勢湾の複雑な湾、湾奥のデルタ地帯、さらに東国まで。北方は日本海沿いに、津軽十三湖あたりまで(海を越えて大陸・半島方面にも)。斉明朝で、すでに再三接触している相手である。


・吉野を出た天武(大海人皇子)が伊勢参拝に向かったのも、水運ネットワークに接触したのだろうし、うののさらら(鸕野讃良)が疲労を理由に桑名に留まったのも同様だ。


・吉野は奥まっているようで、飛鳥にも近い。近江朝に参入しなかった勢力との情報交換は容易だったろう。


・近江朝側が勝つ見込みはまったくない。


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。


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by kugayama2005 | 2019-01-10 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005