2019年 01月 11日
2019日記【011】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 46
新しい都は、懐かしい飛鳥の地へ帰る。飛鳥浄御原宮の時代。飛鳥浄御原ー藤原京ー平城京と続く時代にいよいよ入ってきた。
うののさらら(天武天皇の皇后)にとっては、祖母の皇極・斉明天皇、父の天智天皇、夫であり叔父の天武天皇とともに、乙巳の変で蘇我を倒して以来の、天皇への実権回復計画が、今や実現しようとする時代。
さっそく飛鳥浄御原令の制定に取りかかる。
飛鳥浄御原令(あすか きよみがはら りょう)について考える前に、それに先行する近江令と比較してみたい。
◾️近江令(存在・非存在の論議は結論出ず)
・編纂時期
~668年ごろ(うののさらら23歳)
・編纂者
~天智天皇、藤原鎌足、高向玄理、沙宅紹明ほか
・特徴など
~太政大臣という強大な権力をつくり皇太子の職権が分離された
<現実にてらすと大海人皇子(天武)に属する権限が大きく縮減した>
〜渡来人の関与が多い
<高向玄理(たかむくのくろまろ)は、漢人(あやひと)と称され渡来人系と言われているが、小野妹子の遣隋使(608年)で隋に渡り、30余年彼の地にとどまり、隋の滅亡、唐の成立を体験した。653年の遣唐使の押史(大使より上位の者として新設)として再び渡海し、彼の地で没した・・・とすると彼はいつ近江令編纂にかかわったのか?>
<沙宅紹明(さたくじょうみょう)は滅亡百済の貴族で、近江朝の大友皇子を補佐している。壬申の乱直後に死去>
◾️飛鳥浄御原令
・編纂時期
~685年ころ(うののさらら40才)
・編纂者
~大津皇子(うののさららの姉・おおたの長男)ほか
・特徴
~貴族のトップクラスを天武天皇系で固めた
~新任官僚をすべて下級位(大舎人)で採用し、その後才能に応じてそれなりの職につかせるよう指示した
<旧人脈を一掃し、天武系に再編>
※律令とは、律(刑法)と令(行政法)を言うので、学者の論議は「令はあったかもしれないが、律はなかったのではないか」というようになりがちだ。しかし、そういう話は、後の大宝律令、養老律令についてすればいいので、近江令や飛鳥浄御原令についてしてもしょうがない。つまり律(刑法)はいまだ宗教や政治の機能であり、都合によっては唐律を当てはめていたのだろう。
【写真】富山城/SONY DSC-RX0
城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。