2019年 01月 13日
2019日記【013】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 48
弥生時代に始まり、古墳時代に地域で組織化された「農業化」(産業化)が、大化改新、近江令・飛鳥浄御原令、大宝律令・養老律令と法的背景を持つようになった。唐からもたらされた法制の背景にある思想を当てはめ、それが現実にどこまで適合するかは別として、「天皇の統治権の絶対無限性(瀧川政次郎)」という考えが前提となった。
土地の支配とは、すなわち「農業化」の独占に他ならない。土地には、耕作者が付いている「水稲マシーン」だ。それがなぜ、他の王ではなく、大君(天皇)に(形式的なであれ)可能だったのか。
水稲耕作、金属や馬匹に関する情報・技術を多く持っていたかもしれないが、独占とまではいえないだろう。
隋・唐、百済・新羅等との外交関係の独占はたしかにありえる。太宰府は、漢名を都督府というが、日本における唯一の行政・軍政の窓口であることを外国に向かって表明したことになる。
つまり、太宰府は外国使節の受け入れ窓口であると同時に、九州の独立勢力が、大陸と独自に外交関係を持つことを警戒・抑止する機関でもあったわけだ。さらに空想で言えば、大陸側からすると、筑紫は以前の伊都国と同様に、大陸側の治外法権代表部が置いてある場所という認識だった。日本側が進んで太宰府を都督府と認識しているとすると、それを認めていたことになる。
白村江の戦いでの唐との戦争が、戦闘部隊の主力が九州勢力だったとしても、国の外交権は天皇にあるという認識を決定づけたのではないか。白村江は、天皇にとって危機でもありチャンスでもあった。
【写真】富山城/SONY DSC-RX0
城ファンではないのですが、勢いで。富山城は、高岡城とともに前田家の支城です。