2019日記【015】日本の「農業化」と律令制崩壊過程 50

律令国家化とは、隋・唐の法制を取り入れ、「上古の族長国家の旧態」(瀧川政次郎)を脱して、天皇制への中央集権を進め、国際的にも通用するようにしようということです。


律(刑法)の制定は遅れたが、令(行政法)から着手した。一連の改革は、厩戸皇子(聖徳太子)のころから始まり、大化改新で示された大綱を、大宝律令で骨肉化した。


大きな実質を伴う特徴は、班田収授法にある。だから、このメモのタイトルは、「日本の「農業化」と班田崩壊過程」とすべきだったが、つい気が大きくなって、「律令制崩壊過程」にしてしまった。


班田収授は、全国の農地をすべて天皇のものとし、改めて全国の農民に授ける(貸す)という政策だ。全国の農地が天皇のもとに収公される(公地公民)ということは、元の持ち主はどうなってしまうのか?


大化改新大綱の別の真意は、貴族の土地を天皇のもとに集約し、貴族の経済力を縮減すること。これは私見、策定の段階で明らかに蘇我蝦夷・入鹿を現実的な標的としている。


蘇我蝦夷・入鹿は、壮大な邸宅を建て、池を掘り、城を築き、武器を備蓄し、強兵を常駐させていた。そして朝廷には一向に出てこない。


天皇の貴族といっても、実際に天皇に仕える職務の者もいるが、他方、独自な居を構え、のみならず軍事力を常駐させていた蘇我蝦夷・入鹿のような存在もあり、実は規模は小さくとも複数存在していたのではないか。


当面の脅威である蘇我蝦夷・入鹿は直接壊滅(乙巳の変)させ、他のミニ蝦夷・入鹿は恭順させて、班田収授法の施行に協力させる。


中大兄皇子(後の天智天皇)とカマコ(後の藤原鎌足)が、南淵請安の塾に通う道すがら、乙巳の変の計画を練ったことになっている。しかし、律令制制定の裏の顔が、実力貴族の強制排除であるとしたら、京極天皇(後の斉明天皇)の強力な示唆が無かったとは言えない。


京極・斉明(同一人物)の強烈なカリスマには驚嘆させられる。最後の上古的天皇と言ってもいい。私見、京極・斉明とそのモダンタイプである持統、彼女らに仕えた周辺の皇族、貴族、官僚はこう思ったろう、


「女帝はこりごり。天皇は男系男子で幼時から帝王学を学んだかたがふさわしい」(しかし奈良時代はもっとフクザツになる)


【写真】富山城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで。富山城は天守は、古い天守を再現したものではありません。


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by kugayama2005 | 2019-01-15 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005