2019年 02月 19日
2019日記【049】斉明(天智・天武)持統期の心的推移 26
初期万葉集について今回気づいたこと。
言葉に二重、三重の意味があり、事実を知らない人にはそれがわからない。あるいは、ある言葉が次のどこに掛かっていくのか、晦渋化してある箇所には秘密が隠されている。その点、呪術的、つまり政治的という感がある。
例えば、安騎野の長歌でも、冒頭に現れる「我ご大君」をふつうは軽皇子と解釈しているようだが、全体を読めば天武天皇のことではないかと思われる、等。
さらに理解が危うくなる要因は、私たちが初期万葉集に接する時、本を読むわけだが、そこに書いてある歌はもともとは書かれたものではないということにある。読むものではなく聴くものなのだ。
特に初期万葉については、鎮魂のための歌は、本来、舞踏をともなうものであり、「うた」とは言わず「ふり」というべきものだ、と折口信夫は指摘している。
また、初期万葉が採録されたのは奈良朝に入ってからのことであり、編集者の付けた「序」と歌の内容に矛盾があるものが半数以上、とも言う。
西暦612年、百済人の「みまし」が、呉の国で伎楽を学んできたので、「桜井に子どもを集めてそれを習わせた」という。桜井、すなわち泊瀬の周辺だが、そこにはおそらく、舞踏を伝習する施設があったのだろう。
初期万葉や古事記については、国文学的アプローチではなかなか真相に迫れない。
おそらく、「大君」から「天皇」へ、「やまと」から「日本」へ、「呪術」から「律令」へ、という変化は、ニンゲンの脳の変化を伴った、という当初のテーマに戻る。その背景は、農業化と集権化。
【写真】富山地方鉄道(立山線)立山駅/SONY DSC-RX0