2019日記【061】斉明(天智・天武)持統期の心的推移 38

1 蘇我支配を破却し、権力・財源を確保


京極=斉明天皇の間にはさまった孝徳天皇の時代、つまり西暦645~654の9年間、元号でいうと大化~白雉。


その間の日本書紀の記述は、いわゆる大化の改新の諸事項に埋め尽くされている。乙巳の変(蘇我入鹿を謀殺)以前からあたためられていた計画が公になり、裁判の判例や、民々からの公聴制度など幅広い内容が含まれている、力作。


しかし、孝徳天皇期の記述から、大化の改新の諸事項を除外すると、9年間にしては内容が少なすぎる。これはおそらく、日本書紀の編さん者が、この時期に政治改革関連の記事をまとめて盛り込んだのだろう。


孝徳天皇の難波宮というのは、諸勢力から避難し、天皇中心の日本国建設計画(思想としての律令制)を確定する時期だったのだ。


難波宮遺跡は、今の大阪城の南に隣接している。ところで、戦国時代の大阪城はあの石山本願寺だ。淀川と大和川の河口部、複雑な水路に区切られた地形で、古墳を壊して造成されたとも言われている。


つまり、難波宮は、河口部の古墳の先にあった。難波津からも近い。ヤマトの旧勢力からの干渉をはね返し、万一の時は、海上に脱出する、そういう環境で思想としての律令制を固め、ヤマトの意思統一を図った。


特に、具体的には、「品部を廃し、国家の民とする」という。ここでいう品部を廃すとは、臣・連・伴造・国造などが、公務にあたるべき品部を、私有の民と混在させ、勝手に使役している、そのことの禁止だ。天皇も率先して、品部を廃止する、と言う。


天皇は宣言する。「よく聞け。これからは、お前らは元の職を捨てろ。これからは百官を設ける。位階を定め、官位を授ける。田地は官に収め、口分田として民に公平に支給する」


これをいきなり言われたら、貴族たち、既存の官僚は大パニックになるだろう。難波朝は、それを8年間かけて、じっくり意思統一させ、一部実験的に実施したに違いない。


それができたので、孝徳天皇在位8年目。京極=斉明は子どもたち(天智・天武)を連れて、難波宮を脱出、ヤマトに帰還する。失意の孝徳天皇は、病み、崩御。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


ありくより、とぶか、とりだし

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by kugayama2005 | 2019-03-03 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005