2019日記【104】斉明(天智・天武)持統期に至るまでの私的妄想 24

神功皇后の「三韓征伐」は、九州ヤマト連合が半島に出兵した事実を、後追いで畿内ヤマトが主力だったかのように書いているのではないか。天皇の筑紫行、皇族の出産譚など、白村江の戦い時と似ている。


畿内ヤマトは、広開土王碑に記されたことについて、具体的には何も知らなかったのだろう。


ひるがえって、白村江の戦いは、畿内ヤマトにとって、自覚的な国際紛争だ。畿内ヤマトとしては、


1 九州ヤマト連合と百済が、密接な同盟国になると、畿内ヤマトにとっては死活問題

2 畿内ヤマトは、戦後の半島に「新三国時代」の均衡が生まれ、唐もそれを認知することが理想

3 九州ヤマト連合には、半島との通商の窓口としての名誉と実利を与えて懐柔


というわけで、斉明天皇が天皇ファミリーをそっくり連れて筑紫入りした迫力は、並大抵の覚悟ではなかった。


しかし、思惑はすべて崩壊。その原因は、唐の「新羅と組んで半島を統一する」という戦略について無知だったからだろう。唐は、日本からの遣唐使を軟禁して、周到に情報漏れを防いでいた。


畿内ヤマトとしての戦後は、敗戦による九州ヤマトの無力化という、余禄があったといえる。「磐井の乱」のような親半島・反畿内ヤマト的な勢力はなくなり、「熊襲討伐」も必要でなくなった。


畿内ヤマトは、対半島・大陸の戦後処理を、筑紫で丁寧にこなした。私の妄想では、(後の)天武天皇が戦後処理のリーダーであり、壬申の乱であらわれた人望もそこでつちかわれたと思う。サポートしたのは古くからの官僚や、海人の有力者と、古い時代の渡来人である秦氏ではなかったか。どうも百済の亡命貴族は、仕事に向いていないように思いますが。


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-16 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


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