2019年 04月 17日
2019日記【105】斉明(天智・天武)持統期に至るまでの私的妄想 25
つまり、私は、斉明(天智・天武)持統期の日本書紀の記述内容は、ほぼ事実に「由来する」と考えたい。潤色や、強引な編集はもちろんあるが、それはまた別の話。
その時期に至るまでの、私的妄想のまとめ。
1 九州ヤマトにおいても、畿内ヤマトにおいても、後に天皇ファミリーを形成する氏族は、政治的・軍事的な大勢力ではなかった。(時代的には倭国が騒乱する時期)
2 九州ヤマトと畿内ヤマトの抗争は、全面的な軍事衝突ではなかった。しかし、抗争を通じて明らかになっていったのは、鉄器が青銅器を大きく(武器としても農具としても)凌駕するという事実だった。(時代的には九州ヤマト連合の誕生=ヒミコ)
3 畿内ヤマトは、海の物部氏、そして辰韓滅亡前後に渡海してきた秦氏と、強いネットワークを維持していた。そのネットワークは、通商網であり、情報網だ。(神武東遷と畿内ヤマトの誕生)
4 商品や情報の蓄積・流通は、広い固定地を必要としないので、負担なく全国展開が可能だった。軍事力に過度に依存することも回避できた。(ヤマトタケルの事績=大規模な戦闘はない、人間関係などで連合再編、東海道の拠点整備)
このような基本理念を危うくしたのが、斉明天皇だった。戦前に斉明天皇は、筑紫で崩御し、残された天智・天武の兄弟には不戦の選択肢はあったはずだ。藤原鎌足が亡くなる時、見舞った天智天皇に対し「軍国において役にたてなかった(無務於軍國)」と語っているが、斉明天皇の計画を阻止できなかったという以上に、不戦のチャンスを逃したという意味だと私は考える。
一方、九州連合勢力は、やる気満々だったのだろうし、戦勝後の半島経営を九州連合勢力に委ねてもよい、くらいのことを斉明天皇はささやいたかもしれない。
【写真】植物園
EOS 5DS R/Apo-Makro-Planar T* 4/120