2019日記【107】斉明(天智・天武)持統期に至るまでの私的妄想 27

◾️七支刀(しちしとう)2


百済が七支刀をくれたのは、百済が鉄を産し、製鉄・精錬をし、金で文字を象嵌できることの(原型は大陸からもらったにしても)誇示ですが、百済が、見返りとして求めたのは、新羅との戦争に至った場合の軍事協力でしょう。


今の言葉で言えば、片務的な安全保障と言い得ます。日本が百済を救う事態は想定できますが、日本が例えば新羅に攻撃されて、百済が救援に駆けつけるということはないように思えます。


したがって、日本は百済との同盟をたてに、高句麗まで遠征して、それを当然の権利として片務性の穴埋めとした。


七支刀が発見されたのは、物部氏の総氏神を祀る石上神社(奈良県天理市)。金象嵌の文字も錆に埋もれ、1874年まで意義は忘れ去れていた。


七支刀が372年の時点で、百済王から「倭王」に贈呈され、日本書紀の記述から、その倭王を「神功皇后」とした場合、強力な天皇ファミリーの政権が、畿内ヤマトに存在していることになる。


そうなると私は困る。なぜなら、天皇ファミリーの広域政権が実際に誕生するのは、663年の白村江の戦い以降、というのが私の妄想のキモだから、(笑。


抵抗を試みる。


372年当時、畿内ヤマトは、武内宿禰一族の支配下にあった。

武内宿禰は数代続いた畿内ヤマトの王権で、軍事力で九州ヤマト連合と拮抗していた。(武内宿禰が何者であるかはとても難しいが、物部氏や秦氏とは親密だったのではないか)


神功皇后の事績が、半島との戦争に埋め尽くされているのは、内政の事実がないからだろう。


そういう状況下で、北九州に百済の使節が七支刀を土産に持ってきた。接遇するのは、物部氏だ。物部氏が、それを渡す相手が、すなわち倭王だ。物部氏は進上物の奇妙な刀を見て、怪訝であったが、金属製品に詳しい秦氏に預けて研究させた。結局は、物部氏は、七支刀を自分の武器庫に放り込んで忘れてしまった。


しかし、その研究成果は、鉄剣に文字を象嵌する日本製の刀として現れた。(埼玉県行田市稲荷山古墳、推定471年)、(福岡市元岡古墳、推定570年)。


【写真】植物園

 EOS 5DS R/Apo-Makro-Planar T* 4/120


2019日記【107】斉明(天智・天武)持統期に至るまでの私的妄想 27_e0022344_14210394.jpg












by kugayama2005 | 2019-04-19 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005