2019年 05月 13日
2019日記【132】斉明(天智・天武)持統期に至るまでの私的妄想 52
聖徳太子(ウマヤトのトヨトミミ)<574〜622>が送った遣隋使のころの隋書に、倭国の王の名は、阿毎多利思北孤と書いてある。
阿毎(アマ)が姓で、多利思北孤が名だという。多利思北孤は誤記で、多利思比孤だというのが通説。アマ+タリシヒコだ。
隋の役人は、姓があって名があると思うからそう書いたのであって、実はアマタリシヒコが名前なのだろう。
アマタリシヒコは天孫の意味と解釈する人もいるらしいが、私的妄想では、これは天足彦(アメタラシヒコ)だ。実は、遣隋使・小野妹子の一族は天足彦(アメタラシヒコ)で、おそらくニギハヤヒ系だろう。
おそらく小野妹子は、「オオキミ(推古天皇)によって派遣された天足彦(アメタラシヒコ)」と自称し、隋の役人はそれを記録した。