2019日記【252】柿本人麻呂についての私的妄想19

◾️近江荒都歌2


近江荒都歌1(短歌2首)は、壬申の乱から7年が経った678年春、十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死の直前にまとめられた。


近江荒都歌2(長歌を含む全体)は、万葉集の配列による推定=688年ころまとめられた、


というのが妥当かもしれない。


近江荒都歌2(長歌)


(万葉集の編纂にあたって誰かが付けた詞書(題詞))

◾️近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌


以上の詞書(題詞)に引きずられて、「人麻呂が、仕える貴人とともに、荒れ果てた近江京跡を通り過ぎた際、詠まれた長歌」と解釈する向きが多いが、それは違うと思う。人麻呂は彼の地の事情を深く知っており、すでに近江荒都に関する草稿を多数持っていた。それを、発表の機会に再編集したのだろう。


(長歌の本体)

◾️たまたすき畝傍の山の橿原の ひじりの御代生(あ)れましし 神のことごとつがの木の いや継ぎ継ぎに天の下 知らしめししをそらにみつ 大和を置きて青丹よし 奈良山を越えいかさまに 思ほしめせか天離(あまざか)る ひなにはあれど石走る 淡海(あふみ)の国の楽浪(ささなみ)の 大津の宮に天の下 知らしめしけむ天皇(すめろき)の 神のみことの大宮は ここと聞けども大殿は ここと言へども春草の 茂く生ひたる霞立つ 春日(はるひ)の霧れるももしきの 見れば悲しも


【意訳】

(大君が)代々、神として治めていた大和の地を離れ、奈良山を越えて、何を思われたのか、さらに遠くの大津の宮で国を統べられた天皇の、宮廷はここにあったと聞いても、大殿はここだったと言っても、春草が茂り生いて霞がたち、春なのに霧がかっているだけで、廃都の痕跡さえなく、見るも悲しく耐えがたい。


以上の長歌は、「いかさまに 思ほしめせか」に、異様な印象を受ける。(「いかさまに 思ほしめせか」は一種の常套句であり、神である天皇の考えは人智では理解しがたいという意味であるにしても)、現代風に言えば、「何を考えてんだか」ということになりはしないか。「大和にいればいいものを何を考えてんだか大津の田舎に」というニュアンスがあるとすれば、それは持統天皇の心の内だろう。


私的妄想では、その私の説を強く支持する (笑


琵琶湖畔に唐まがいの大宮をたて、百済貴族を大量に登用し、毎晩漢詩の宴をくりひろげる父天智天皇への、うののさらら(持統)の冷たい視線を感じる。


天武天皇も近江朝の皇太子だったわけだから、天武生前にこの歌は作られなかったろう。長々と続く天武天皇葬送の儀の合間に、持統天皇は、


「父は何を思って大津に?(それがなければ多くの悲劇は避けられたはず)」ともらしたのだろう。


ところが悲劇は持統天皇のもとでも続くのだ。


68699 天武天皇崩御(持統天皇・草壁皇太子への移行)

686102 大津皇子の変(翌日処刑)

6878 天武天皇の葬送関連行事が連続して行われた

689 草壁皇太子薨去


◾️大津皇子の父は天武天皇、母は持統天皇の姉・大田皇女

◾️草壁皇子の父は天武天皇、母は持統天皇


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-10 01:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005