2022日記【185】境界と自由371


お釈迦様は結局、光子(光の量子)のようなものの運動を瞑想し、無常を想起し、現代の物理学がやっと追いついてきた多宇宙(多世界)を見たのではないか。しかし、それを当時の現世のニンゲンに伝えるのは難しかった。


紀元前500前後に起こった仏教やジャイナ教を、ぼぼ同時期の中国春秋の諸子百家や、アテナイのソクラテスらと比較することも課題なのだろう。なぜなら、この時代は都市化と経済発展があり、国家権力が拡大した。国家との関係は、孔子とソクラテスとではまったく相違している。


お釈迦様の時代に、インドには覇権的な大国が出現しておらず、インドをほぼ統一したのは、お釈迦様入滅後100年に現れたアショーカ王だ。アショーカ王は戦争による被害者の悲惨な実態をみて、仏教徒となったと言われる。


一方、法然の無量光無量寿仏(阿弥陀)への集約(選択)は、お釈迦様の考えに相当近いと思う。


■TOKYO雨季雨期/Apo-Macro-Elmarit-TL 60/f2.8 ASPH.Leica TL
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by kugayama2005 | 2022-07-05 17:01 | 2022日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005