2022年 07月 06日
2022日記【186】境界と自由372
ところで気になるのは、お釈迦様の故国はどうなっていたのかということ。昨年の8月26日以降<■お釈迦サマ(ガウタマ)の時代、北インドでは多くの小国が滅亡していった>というテーマで、
1 コーサラ国の流離王が(お釈迦様の故国の)カピラ城を(お釈迦様の晩年に)破壊し尽くした
※出典:「国譯一切経/阿含部/増壱阿含教」(大東出版社)
ということを検証したのだが、今回参照した「パーリ語経典和訳 仏陀の死/平等通昭」は「大般涅槃経」(南伝)をパーリ語から直接翻訳したものだ。
「増壱阿含教」は、漢訳されたものなので北伝。「大般涅槃経」はパーリ語のままセイロン(スリランカ)で収集されていたものを、インド人ブッダゴーサ(5世紀の学僧)が注解した南伝。
(お釈迦様の故国の)カピラ城が、お釈迦様の晩年に存続していたのかどうか、見解に違いがある。
1 お釈迦様の最後の遊行は、確かに正確にカピラ城に向けて進んでいるように見える。
2 ただしカピラ城に行くという意志は示されていないし、地名さえあがらない。アーナンダも触れていない。
3 1898年、英国の英領インド駐在官プッペは、現ネパール南境のピプラーバー(そこに英公館があった)という所で お釈迦様の遺骨(シャリ)が入った壺を発掘した。その壺には古代文字で「お釈迦様の遺骨を釈迦族が安置する」旨書かれていた。(この発見によって、お釈迦様が実在の人物であることがわかった。なおこのシャリの一片が、日本の日泰寺に現存する)
↓ カピラ城(カピラヴァストゥ)がどこにあったかについては未だ定説がなく、Googleマップによると、カピラ城(左白丸)、カピラヴァストゥ(中央白丸)、ピプラーバー(右黒丸)が各々15kmほどの間隔で表記されている。左右によぎる黒線はインド・ネパール国境で現在は封鎖されている。なおネパールのティラウラコット(この地図のカピラヴァストゥ表記の北隣)がカピラ城であるという説もある。
※確かに、プッペの発掘品は信憑性が高い。ただ、お釈迦様の死後に釈迦族の有志が集まり、記念塔をつくったとしても、その時カピラ国があったのかどうかはわからない。お釈迦様入滅後、1,000年程度は仏教徒の巡礼地だったが、その後は所在地も不明になるほど寂れた。