2023年 01月 29日
2023日記【029】境界と自由540
2023日記【029】境界と自由540
承前:
妄想の続き
.
最終的に「金槐和歌集」を監修したのは藤原定家だと思う。つまり朝廷での新古今和歌集編纂の過程を見ても、定家が粘り強く後鳥羽帝に付き合っていなければ整然としたものにならなかったと思われるほど、定家は歌集編纂の第一人者だ。近代の研究者も「金槐和歌集」の編集の巧みさを指摘しているケースが多い。
.
1213年、つまり健暦三年で始まり建保元年で閉じた年の後半、いまだ和田合戦の余燼が漂うような時期に、実朝は自分の歌を整理して書き出した。
.
背景:
実朝は将軍位を後継に譲り、自分の生を生きようとしたのではないか。それは後鳥羽天皇がさっさと天皇を辞めて、上皇として自由に行動する様に憧れたのだろう。この計画は、京都から後継将軍を鎌倉に招く案という形で、1218年頃から暗々裏に進められていたという。将軍候補は頼仁親王(父は後鳥羽天皇/母は源実朝の妻の姉である坊門局)、雅成親王(父は後鳥羽天皇/母は藤原重子<順徳天皇の母>のふたりだったと言われている。