2023年 08月 27日
2023日記【239】境界と自由750
2023日記【239】境界と自由750
◼️安藤野雁の最期
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1866年(慶應2)11月
安藤野雁が帰郷するというので熊谷で門人等が送別会を開く ※野雁の郷里は現:福島県桑折(こおり)町
1867年(慶應3)03月
安藤野雁が郷里と永訣する意の「去国詩」を(師の「内池」邸で)作り桑折を去り熊谷に向かう
1867年(慶應3)03月
桑折の師の内池家から野雁に金200疋(5000文)送付してくる
1867年(慶應3)04月28日
死去(根岸家から野雁の門人宅等へカゴでたらい回しにされ、最後はカゴの中で、あるいは熊谷寺の地蔵堂に運び込まれて死んだとされる。根岸家の夫人に厄介払いされたとも解せる)
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1 野雁は自著「万葉集新考」の出版を希求し、経費を求めて手を尽くそうとしたと考えられる。
2 しかしその行動には一貫性がなく、さらに大酒による昏迷の気があり、身なりも不潔で異端視されたのだろう。
3 桑折の師の「内池」家から金200疋寄付され、野雁は「万葉集新考」の出版に希望を持ったようだが、幕末の金200疋(5000文)は「酒1升600文」という別の史料もあるので、かなりの少額だ。さらに慶應3年とは江戸開城の前年であって、万葉集の本を出版しようという奇特な書肆があるのかどうか。
4「江戸繁盛記」で有名人になった寺門静軒が(江戸追放となっても)熊谷ではもてる儒者、文化人であったことに野雁は焦燥を感じていただろう。しかし同年ころの江戸では幕府「開成所」が開校し、英独仏の語学コースに学生が押しかけて、蘭学が衰退。江戸幕府の学問所(朱子学)に至っては「もう漢学は廃止になったという噂も流れ、学生は授業に来ず、講義日程などあって無きがごとし」という凄まじさだ。
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さて安藤野雁に触れたのは「慶応2年(1866年)武蔵大打毀し」の時代感を知るためなので、野雁の著作は「冑山防戦記」を読んだだけで終わった。一揆衆が北武蔵で大暴れしている時、幕府「開成所」の英独仏語コースには多くの若者が押し寄せていたのだ。
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↓ 熊谷市荒川大橋の桜堤にある安藤野雁の歌碑「酔ひみだれ花にね(眠)ぶりし酒さめてさむしろ(小筵)寒し春の夕風」/「くまがやねっと」さんより無断拝借