2023年 09月 03日
2023日記【246】境界と自由757
2023日記【246】境界と自由757
承前:
※打毀しに遭った問屋甚四郎の動き
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1712年10月07日、茶問屋甚四郎は同町の肝煎・山屋彦八の家で行われた寄合に行っていた。そこへ甚四郎家の使用人(丁稚、続いて下女婢女)がばたばたと駆けつけ「おーい親父さま、大勢の百姓どもが来て、家も蔵も打毀し、家の者は残らず打ち殺すと言うてるの、早く早くお帰りを」と知らせに来たのだが、甚四郎が表に出てみると、最早その一揆衆はすぐそこまで迫っていた。甚四郎は家に帰ることもできず、畑のなかを西方に逃げて川沿いの方に行った。現在、その方向には小松空港があるが、確かに川もある。
甚四郎をググっていたら、面白いものを見つけた。「加賀ふるさと検定試験問題」上級という試験問題集で:
Q「藩は1813年(文化10年)に串村甚四郎の茶問屋の独占体制を廃し、一時的に大聖寺町の( )を茶問屋に任命した。
A 正解は「田中屋十左衛門」
ということは、甚四郎親父さまは(代は変わっても)無事1813年までは独占的茶問屋だったわけだ。串村甚四郎家は現在も同地に池田家として存続しているらしいので、同慶というべきだろう。一時的に茶問屋を変えるという藩の行為はなんとなく怪しいが、経済基盤が脆弱な大聖寺藩は町人への課税が頻繁だったらしいので、その一環か。
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↓ 甚四郎が逃げた方面の川(小松市)/GoogleMap