2024年 03月 30日
2024日記【090】境界と自由972
1684/貞享元年8月28日、江戸城内で「堀田(筑前守)正俊(大老)刺殺」という大事件。
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そして翌1685/貞享2年に「将軍御成先で犬猫を繋がないよう命ず」という指示が出て、おそらく将軍直々のお達しで「生類憐みの令」諸令のさきがけだ。これは、将軍の御成先で「犬が将軍一行に噛み付いたら大変なことになる」と恐れた浅草観音知閑院寺領の代官が、犬を布袋に押し込んで浅草川(隅田川中流域の江戸側)に沈めてしまったという背景がある。
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将軍綱吉の犬好きはすでに知れ渡っており、綱吉周辺の者は「捨犬、病犬、老犬を自分の屋敷に連れ帰り、死んだ場合は僧侶を呼んで弔いをした」と茂睡は書いている。
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翌1686/貞享3年6月6日には、綱吉将軍の小姓伊東淡路守が閉門処分を受け、後に南部家にお預けとなった。その理由は、食いついてきた蚊を打ち殺したというもので、そのことが綱吉に知れて「鳥類畜類はもちろんのこと蚊や蚤も殺すべからず」という指示に違背しているからだ、と茂睡は書いている。まだこの頃は、周辺の者への諌めという色彩が濃いが、1687/貞享4年2月あたりから具体的な「生類憐みの令」諸令が現れ、江戸市中から全国へ禁令が広まっていく。
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