2006年 08月 19日
リルケの墓碑銘(夏休みモード09)
薔薇 おお 清らな撞着
喜び
誰の眠りもそこにはない
その幾多の 瞼の下には
Rose, oh reiner Widerspruch,
Lust,
Niemandes Schlaf zu sein
unter soviel Lidern.
・・・この、薔薇の内部に秘められたものが、外にむかって開く。しかし、薔薇の内部にあったものは結局自分だけなのではないか、というイメージはリルケには何度も繰り返し現れる主題なのです。でもこの墓碑銘は、瞼(薔薇の花びら)の下には誰の眠り(死)もない=それが喜びでもある、ということが書いてあるとすれば、それまでに現れたリルケの薔薇のイメージとは少し違うのですが、それをまとめて「撞着」(普通ここは「矛盾」と訳される)として読む者の心をゆさぶるんですね。閉じている瞼はあるが、瞼の奥にはなにもない。墓はあるが、ボクはここになんかいないよ、とも読めます。でもそういう矛盾が喜びなんだ、と言っています。
サロベツとか、名もない草の丘で、これと同じような気持ちになりました。草が地平線まで風に揺れている。向こうの丘から、雲が下がってきて、草や花やボクとかチャリ坊を濡らす。草と風って、別々に存在しているものでしょうか。・・・草の一本一本を引き抜いていったら、草原の秘密が解けるのでしょうか。まさに瞼の下の瞳には誰の眠りもない。自然というのは、清らかな矛盾の喜びだってね。
ところでリルケの名前は、ライナー・マリア・リルケと言います。マリアとは女の名前じゃないのか、と思いますけど、ムカシのドイツ語の先生の解説では、マリアの時間に生まれし、という意味だそうです。しかしただそれだけじゃなくて、リルケの複雑な育ちかた(母はリルケを産むとすぐ離婚し、幼児リルケを女の子として育てた)と関係しているのではないかと思います。
ラファエロの聖母子像
アヴェ・マリア選集。特に、若い頃のバーバラ・ボニー(ソプラノ)は素晴らしい。このジャンルがボニーの独壇場であることがよく分かります。
ちょっと違うかもしれないけど・・・・
リルケって、若いころ、拾い読みしかしてないんですよ。あの日本語訳散人さんだったのですか!
散人さんの・・・サロベツの一本一本の草が・・・思い出しました。
ん、確かに・・矛盾ではなく、撞着のほうが・・・どれも、魅かれるのだものね。