2007年 10月 10日
藍川由美「高原断章〜三善晃作品集」(左川ちかの詩による) ともかく秋だ好きなCD聴きましょう(22)

(1)左川の詩は森や植物のことについて書く時、その森や植物は、海の近くにある。したがって、森や植物にもかすかに海の香りがしなければならない。だけど三善晃の曲には海のにおいがしない。
(2)左川の詩の情景は、どんどん時間が緩慢になるようなふしぎな終わり方をするものだと思っていたが、三善晃の作曲はその逆なので驚いた。Finaleの、「おくれないやうにと 枯れた野原を褐色の足跡をのこし 全く地上の婚礼は終わった」というところは、歩く早さから次第に立ちどまるというのがボクのイメージだったのに、三善の曲は「おくれないやうに」でいきなり脱兎のごとく走り出すので、そういう解釈が一般的なのかとたまげた。「衰へた時が・・・穏やかに過ぎてゆく」と言っているのだから、「おくれないやうに」とは、心で「遅れないようにしよう」と思っているのに、体は夢のなかのようにとてもゆっくりとしか動かない、なぜなら、地上の婚礼はもはや終わったからなのだ。あるいは、地上の婚礼は、衰えた時の流れにさえも遅れることのないようにと終わってしまった・・・とボクは理解するのだけれど。詩だからどう読んでもいいのだろうけど。
なんかずいぶん言いたい放題書いたけど、萩原朔太郎の詩への曲は、ボクのイメージとぴったりだった。左川の詩は、萩原朔太郎よりずっと深化している。左川の詩は、主知的な糸をぴんとはって叙情に流れるのを恥じながら、しかし所どころで少し破綻し、破綻したやぶれ目をちょっとした自己韜晦や自分へのアイロニー、あるいは直感のグロテスクで糊付けする・・・そこがちょっと自然のお茶目で、しかし全体が計画されているとするとも読めるのでそうであれば深い絶望をともなう・・・ものなのではないかと改めて感じた。
左川の詩にはメゾソプラノの方が合うと思った。なおこのCDの歌詞カードには左川を「佐川」と誤記している。
Finale 左川ちか 1934
老人が脊後(うしろ)で われた心臓と太陽を歌ふ
その反響はうすいエボナイトの壁につきあたつて
いつまでもをはることはないだらう
蜜蜂が茴香(ういきょう)の花粉にうもれてゐた
夏はもう近くにはゐなかつた
森の奥で樹が倒される
衰へた時が最初(はじめ)は早く やがて緩やかに過ぎてゆく
おくれないやうにと
枯れた野原を褐色の足跡をのこし
全く地上の婚礼は終つた
あたしはソプラノですが、音色はメッツォに近いとよく言われ、実際Finaleはとても歌い易いでのです。
ご存知かどうか、この4曲のチクルスは瀬山瑛子(瀬川じゃござんせん)さんの為に書かれたものなので、そちらも聴かれてみては。まぁ、印象は変わらないかも知れませんが。足跡を~だけはゆっくり歌うように譜面では指示されていますが、ここがまた、曲の中でもあたしの中では判然としない処だったのです。ですが、今日のブログを拝見して、もっと重点を置こう、と思いました。やっぱ現代音楽は難しいですね(苦笑)三善さんの曲の中では、高田敏子さんの詩に依る、駅が一番好きです。温かいです。善い録音があるかは判りませんが、機会があったらお聴きになって下さい。九月に歌ったばっかだけど、また歌いたいなぁ。14日が終わったら、今度はシューマンとフォーレとドゥビュッシーが控えております。嗚呼音楽の秋。。。
鳥撮り湾猫撮り生活はイビツじゃないですよ。
鳥盗り猫盗りはイビツですが。
あたしの方がイビツです。
毎日歌うたって絵と詩を書いて編み物して酔っ払って議論して、
ボエームに出て来る人たちの生活、ひとりで全部してます(苦笑)
パッチワーク猫は滅多にいないと思うので、写真をお見せしたいところですが、どうやって送ればいいのか判らない~。
そう云うのは全部旦那任せもので。
嗚呼イビツ~。
「おくれないやうにと」というのは難しいですね。三善案だと「おくれないやうにと急いだ」という解釈だと思いますが、ボクはそうじゃなくて「おくれないようにとは思ったけど既にもう遅れてしまってもう間に合わない」と考えています。・・・その結果、足跡だけを残し「地上の婚礼=現世的な恋愛の成就」は完全に終わっていた、というように解釈します。「おくれないやうにと」という一行が、衰えた時が過ぎていく~と~足跡を残し婚礼は終わった~ことをつないでいる絶妙さが、左川だなあと思わせるのですが。
シューマンとフォーレとドゥビュッシー・・・うへえ、そんなにいろいろ歌うのですか;;
不思議な言葉遣いなのは、
枯れた野原を褐色の足跡をのこし
というところにもありますね。普通は「野原に」なんでしょうけど、「野原を」だと、足跡を残す主体がまだ遠くにに見えている、という感じがしますね。遠くに見えているけど、もう絶対に追いつくには遅すぎた、という。
うちの繪子はアブナくはないですよ。でも金魚のくせに、うるさいんです。
ガラス玉をがしゃがしゃ鳴らしたり、水面ちゅうちゅう吸ったり、眠りの深い主人が目を覚ます程。
金魚には満腹中枢がないそうで、起きている間はひたすら餌を探しているんです。生きるとは残酷な事ですね。
もっと長く生きて、他の男性にも心を寄せられる事があれば、足跡は褐色ではなくなり、思い出の一頁として、色鮮やかな押し花のような色に変わったんじゃないでしょうか。彼女の若過ぎる死が、多くの人を辛い思いにさせ、巻き込み、思い返す時に痛みを伴うような人物像を作り上げてしまったのではないかと思います。女学生時代の彼女は、赤毛のアンを思わせます。ただ、時代が時代だけに、彼女の感性は削られ、尖った印象を受けるものになったような気がします。童謡を書こうと云う積もりがあったようですが、それを産み出す前に亡くなられたのが残念でなりません。是非、子供たちの前で歌いたかった。
もう一つ気になるのは、どうして左川と名乗っていたのか、です。由来をご存知ですか?欧米では右が正、左が悪の象徴とされている文化があるようですが、関係はないんでしょうか??浅い知識で、色々考えてしまって・・・。考えるほどの事ではないんでしょうけど、感化され易いタチで(苦笑)オペラで死ぬ役なんて演った日には、ホントに死にたくなるので困ったものです。
日曜はもう一曲歌うと云うのに、ひたすら内向してしまい、半日潰してしまいました。
とりあえず感じた事を吐き出させて戴いたので(勝手にスミマセン)、夕飯後はちゃんと練習します。
遅れない~、の解釈、よく解りました。あたしは曲から入ったので、理解不能でしたが、それなら納得いきます。
納得行ったところで、さ~あ頑張るぞ~!!!!!!
ってあたしんちは江古田ではないんですけど。
さっき今更ながらに気づいた事があるんです。
三善さんは左川さんの曲をチクルスとして(意味判ります?組曲とか全曲って意味です)、4曲のメインタイトルを、白く、として書かれているので、元の詩もそうなのかと思ってました。疑いもせずに!!でもこれってもしかして、一つ一つ独立した詩???他の三曲は今回歌わないので、楽譜を参考程度にさらっただけで、余り深く考えなかったんです。
嗚呼、でも今となってはもう遅い(悔)これ以上のめり込んでは反って歌えません。今回は左川ちかではなく、川崎愛と云う女性になって歌ってみようと思っているんです。
それにしても、前のカキコで何だこれ??と思われた箇所がおありだと思うので、一応己の知識の無さをお伝えした次第です。
川崎愛になりきって、というのも難しいですね。彼女(川崎愛)はおそらく自分のよってくる感性の根源を、私生児ということに置いていたとおもいます。それは川崎愛の感性であって、それを超えたところに、左川ちかがあるのです。・・・彼女にとって、既に失われていたものとは、父だったわけですが、詩人となるためには、そういう市井の出自を超えていかねばならない宿命があったわけです。そう考えると、左川ちかの喪失感というのは、生半可なことではないと思いますが?・・・そこまで考えると、音は無音となって、歌は口からでなくなりますので止めておきませう。
左側ですか。なるほど。深く考え過ぎました(笑)
でも左側なのに共産党って、なんかシニカルですね。
なりきる、と云うのは本人を知らなくても出来るのです。
あたしは彼女の詩から、彼女の在りたい姿を勝手に(ごめんなさいですが)模索しました。そこのほぼ対称に居るのではないかと、またまた勝手に考えました。演劇と一緒です。
いつもはこんなに細かく仕分け(?)はしないんですが、左川ちか像、彼女の詩、三善晃の曲、と云うトライアングルがあたしの中で全く結びつかず、正に一時声が出ない(と言うかただ音符を追うだけ)、と云う状態になってしまったんです。恐らく曲を元々知っていたせいでしょう。
今になってようやく、一人の人間が確かに書いた、血の通った言葉として捉えられるようになりました。
川崎愛さんの人格は演じられませんが、心の叫びとして、詩をお伝えしたいと思って・・・・・・・・・・・・・努力します。
木曜日なのにいきなりこんなこと言ってしまいますが、川崎愛のことはいったん忘れたほうがいいのではないでしょうか。ははは。・・・褐色の足跡、というところはそう読めるのですね。ここの部分は、視線が、枯れた野原から褐色の足跡に移り、そして最後は遠くの(海のある)方をみつめるような歌にしてくださいね。きっとそれが左川ちかの心だと思うから。
ところで褐色の足跡なんですが、左川が17歳まで暮らしていた近くにフゴッペ川という川があります。フゴッペとはアイヌ語で、赤い岩という意味だそうです。その川の脇のがけに、赤い岩が露出していたので、そう名づけられたという伝説です。しかし、赤いのはその岩だけではなく、フゴッペ川の中の石も赤いし、周辺の土もそれに影響されています。そこを歩くと、まさに褐色の足跡ができるはずです!
フゴッペ川については、今年の夏写真を撮ってきましたのでぜひ、見てください。↓ 左川ちかもこの川は何度も渡ったはずだし、赤い地面のこともよく知っているはずです。この前後に、フゴッペ川の河口の写真もあります。
http://kugayama05.exblog.jp/6339618/
前言撤回。赤い岩は古平(フルビラ)でした。場所が違うよ。ごめんなさい。でもフゴッペ川の砂も褐色をしているので、赦してください。フゴッペ川の写真はこの日の下の三枚です。↓
http://kugayama05.exblog.jp/6332604/
なるほど、です。褐色は実在するかも知れない色なんですね。
でも、褐色のと歌いながら、薔薇色を表現するのはマリア・カラスにも不可能なので、曲想としては、久我山さんの仰る通りになるように、練ってみます。これは本来イリーガルな事なんですが、テンポを落として演奏してみようと思ってるんです。全部が全部って訳じゃないですけど。三善晃の譜は細かく場所場所にテンポ等の指示があって、そのまま演奏したら誰が歌っても同じになってしまうんですけど、今回に限って、発表会と云う気楽な会なので、変わった演奏をしてみようと思ってます。ただ、明日もう一曲の方の作曲者に会うんですが、彼女がやめろと言ったらやめます。何しろご健在の方の曲なので、いじっては失礼に当たるからです。
ともかく今夜、試してみます。
褐色の足跡・・・なかなか印象的ですね。ほんとうにそうか心配になって調べましたら、余市あたりの山には、茶褐色をした砂岩が多いそうです。よかったあって。あんまりドロドロした地面じゃなくて、砂っぽい土に足跡ができている感じかな!
褐色~の部分は音が飛び過ぎて、それ自体が情緒になっているので、かっしょく、と、きちんと聴き取って戴けるように歌う事にしました。後はお客様の感性ですね~。でも、その反応も、歌い手として、歌う意義なのです。
譜面をひねって解釈する事に関しては・・・・・、このスレにバッシングの嵐が来たらやめようと思ってました(笑)弱!!でも、ピアノと合わせてみる迄は断言出来なかったのですが、部分部分を丁寧に仕分けし、位置付け、それぞれのつながり目をなくす作業を、ピアニストとしたところ、追放されない程度で、納得の行く仕上がりになりました(苦笑)
そもそも、こんなやりとりを公開でしている自体、あたしって命知らず(爆)
でも三善先生は、曲を愛するが故に、追求したくなる気持ちを解って下さると思います。
でも、あたしに彼女が曲を提供してくれた事、久我山さんが親切にして下さった事、色々考えても、今回の演奏は人の心の上に成り立っているようにしか思えません。発表会と云うと如何にもお手軽ですが、むしろこう云う会の方が、音楽には興味はないけど知り合いが出てるから、と云うお客様が多いのです。その方々に、もし喜んで戴けたら、それが何よりです。
流金繪子は、最近構ってやらないので、水草をむしりまくってます(困)
終わったら話し相手(?)になってやります。
事後報告致しますね。
本当にありがとうございます。

