2019年 02月 22日 ( 1 )

安騎野の冬猟、柿本人麻呂の長歌と短歌(反歌)を中心に考えてきたけれど、一般的な解釈と、私訳では180度違う。


それは、草壁皇子がどのように亡くなったか、という根本に相違があるからだ。いや、それ以前に、持統天皇が息子・草壁皇子をどう評価していたかという点にある。


一般的には、持統天皇は、夫・天武天皇から継承した皇位を、息子(草壁皇子)へ、そして孫(軽皇子)へ、と継承することに愛をそそぎ、彼らが成長するまで皇位を預かった、というニュアンスで解釈しているが、私にはそうは思えない。


持統天皇は、あくまでも自分の手で、律令国家をつくろうとしている。そのために、藤原宮という今までとはまったく違う、恒久的な中央集権の都を、天武天皇とともに造営した。


その都で、統一国家日本の律令政治を推進するのは、天武・持統級の政治力が不可欠なのだ。


息子(草壁皇子)や孫(軽皇子)にその力があるのか?


近江朝とともに命を絶たれた、大友皇子のような、貴人としての豊かな才覚や、容姿。その近江朝をねじ伏せた、高市皇子のような豪胆にして緻密な、膂力と精神。そういうものが、息子(草壁皇子)や孫(軽皇子)にあるのか?


天武にとって兄の子である大友皇子は、持統にとっては父の子である。しかし、近江朝とともに躊躇なく滅ぼした。だが、柿本人麻呂をはじめとして、多く近江をいたむ歌が残っているのは、持統の心情でもあろう。


高市皇子には、考えられる最高の評価・待遇を、持統は与えている。しかし、自分の産んだ子ではない。自身の子・草壁皇子を退けてしまった以上、残るのは、その草壁の子、軽皇子しかいなくなった。これはあくまで私的妄想だが、持統は少年期の軽皇子を観察し続けて、後継者としての魅力を感じられなかった。


軽皇子への継承を強く期待したのは、むしろ藤原不比等や物部麻呂だろう。そういう官僚たちの企図と、持統天皇の心情を知る柿本人麻呂が、苦渋のうちにつくったのが、安騎野の冬猟の歌だ。


つまり、持統天皇によって軽皇子が拒否される可能性がある状況下で、人麻呂は、天武天皇の霊が(草壁皇子を経ずに)直接、軽皇子に合一することを希求した。実はそれは、持統天皇から示唆されたことでもある、しかし、人麻呂としては結論を出せるわけもなく、「時は来向ふ」としか結びようがなかった。


おそらく、安騎野の冬猟の歌の真意を解したのは、持統天皇、藤原不比等らだけだった。この歌の意味は、持統天皇に対して、「あなたが決めなければ決まりません」と言ったのだろう。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


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by kugayama2005 | 2019-02-22 01:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005