2019年 03月 02日 ( 1 )

5 百済復興への軍事行動


大陸では唐が盛んになる一方、半島では、高句麗、新羅、百済の三国鼎立が崩れ、新羅・唐の連合軍が、百済を滅亡させる。


高句麗、新羅、百済とも使節を訪日させ、調を納めていた(後には耽羅も)。これは偵察でもあり、日本の半島への武力行使を、常に警戒していたからだろう。


調とは、税制の租庸調の調ではなく、貢物という意味。日本側は、今年の調は去年より少ないとか、去年の日本の答礼品を今年持ってきた、などと難癖をつけている。おそらく、ある程度、形式的な貢物だ。


さて、百済復興への日本の関与は、よく知られているように、日本に人質として来ていた百済王家の王子、豊璋を帰国させることで始まる。


新羅・唐連合軍の攻撃で、百済の君臣は捕虜になり、連れ去られてしまった。しかしひとり鬼室福信将軍が、一城に依ってまだ戦っていた。武器もなくなり、棍棒で新羅軍と交戦した。


鬼室将軍は、日本に人質となっている豊璋王子を返還してもらい、百済王として迎えたいと願い、斉明天皇はそれに応じた。斉明天皇は、派兵準備のため、難波津から出航し筑紫に宮を構えたが、四ヶ月後に亡くなる。


結果として、豊璋は王として機能せず、鬼室福信を謀反の疑いで殺し、それを知った新羅は軍事攻勢に出た。豊璋は、増援の日本軍が来航するとして、諸将とともに白村江に迎えに行った。


実は、豊璋を見限った兵が次々と離脱していったので戦線を維持できず、日本軍に合流しようとしたのだろう。だがそこには、強力な唐の水軍が集結していた。


豊璋王と日本の諸将は、相談の結果、「先を争って攻めれば、敵は退却するだろう」という、根拠のない希望的観測のもとに戦い、壊滅した。豊璋は高句麗まで逃げたが、高句麗も唐に攻められ滅亡、豊璋も行方不明になる。


その後、唐は吐蕃(チベット)との戦争を始め、その隙に新羅は唐の支配を排除して、統一新羅となった。


そのことで、唐が日本を直接攻撃する可能性はなくなった。


【写真】セイタカシギ  早春のセイタカたん

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


てけてけてけ

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by kugayama2005 | 2019-03-02 05:36 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005