2019年 03月 31日 ( 1 )

◾️神武東征がなぜ「帰還」なのか? 3


吉備国に到着


前年の10月、日向を出発した一行は、翌年3月、高島宮という仮宮に入る。現在、岡山市の高島宮、笠岡市沖の高島の高島宮などが、その地の候補となっているらしい。


九州から流離してきた貴種が逗留するには、まず島が適しているだろう。陸上の狭い場所に拠点を設ければ、包囲される危険が常にある。


しかし、島にこもっていては、将来の東進計画を進めることが難しい。大勢力の吉備の理解を得ることが必須なのだ。


ここは妄想で言えば、神武天皇は島の宮にいて、重臣を折衝のため派遣した。


日向を出て合流した水先案内人、宇佐神宮の姫など、同行者については、塩土爺のような長老がすでに話を決めていたに違いない。吉備実力者にも、話が通っていなければ、出発から数ヶ月で吉備に逗留するまでにはならない。


前年の10月、日向を出て、翌年3月、高島宮の仮宮に入るということは、出発時にはすでに仮宮の建築が決まっていたのだろう。


日向の塩土爺、水先案内人、宇佐神宮の神官、吉備実力者は、すべて繋がっており、一言で乱暴に言えば「物部氏繋がり」だ。


吉備での準備


日向から吉備(岡山)まで来た神武一行は、吉備の高島仮宮に3年逗留する。日向の長老、塩土爺の善隣友好網も、ここで途切れた?


吉備も、諸般の事情で忙しかったに違いない。出雲との関係、畿内との関係はうまく均衡を保っておきたい。神武一行のために、パワーバランスを崩したくない。


3年間かけて、神武一行は兵、武器、兵糧を整えた。おそらく、九州からの離脱組を待った。大勢力になるのは難しい。


同時に、北九州で初歩を学んだ鉄製品について、吉備では多くの知見を得た。海人のネットワークに続き、鉄のネットワークに接したとすれば大きな収穫だ。


というより、鉄の知見を充実させるのも、吉備逗留の目的だったのではないか。神武東征(実は帰還)の時期を西暦250年(根拠なし)とすれば、鉄加工技術はすでに、北九州や吉備にはあった。


塩土爺は、出雲系の出自(「しおつち」を「しおつつ」と訛っていることに無理に根拠を置く)で、鉄加工技術について知っていたと推察する。


ヒッタイト辺りで発生したとされる鉄文化は、インドを経て中国へ伝わる。中国の戦国時代に大規模な戦闘が起こるのも、鉄器があってこそだろう。従って、製鉄は厳しく管理されていた。半島から列島へ鉄が伝わる(秦人によるという記録がある)のは、その後であり、独自に製鉄が可能になるのは更に後のこと。したがって、西暦250年頃の列島では、半島から入手した鉄材を加工するにとどまっていたらしい。しかし、北九州、出雲、吉備の鉄先進国では、製銅を参考に製鉄も研究されていただろう。


【写真】春のミサゴン劇場  急降下

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


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by kugayama2005 | 2019-03-31 00:11 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005