2019年 04月 12日 ( 1 )

広開土王碑(高句麗が倭軍を撃退したという碑文)が建てられる40年ほど前、辰韓消滅(356年)という歴史があった。


辰韓とは、おそらく秦韓の意であろう。秦国の圧政に耐えかねて、秦人が半島に亡命してきて、国をつくった。当時の半島南部はのどかだった。後漢書などにいわく、


1 秦国から亡命者が苦役を逃れて、半島にやってきた。

2 馬韓(後の百済のあたりの国)は、自国の東部の土地を、亡命者に割譲して与えた。

3 亡命者の言語は、秦語に似ている。ゆえに、彼らの国を秦韓と呼ぶことにした。

4 彼らの土地は、肥え美しく、五穀が実った。

5 養蚕をして、目の細かい絹織物の作り方を知っている。

6 牛馬に乗って婚礼の儀を行い、その際は、皆道を譲る。

7 製鉄を行い、濊(わい=半島北部の民族)人や、倭人、馬韓人は列をなしてその鉄製品を買った。

8 もろもろの交易は、鉄製の貨幣で決済した。

9 弁辰と秦韓は、同じ城に雑居していた。その両者は、衣服は同じでも、言語や風俗は違うところがあった。

10 彼らは身長が高く、髪は美しい。衣服は清潔だ。

11 刑法は厳しかった。


これだけはっきり書かれているのだから、妄想は不要だろう。養蚕や機織り、製鉄や鋳造貨幣、刑法の概念などを携えて半島へ、列島へ来たのは秦人だ。


半島の戦乱を経て、高句麗、新羅、百済の三国時代となる。新羅と百済に挟まれた秦人や倭人の居留地は、多くは百済に併合されていったのだろう。


秦人は倭人の近くにいたわけで、交流もある。秦人の国や倭人の居留地が百済などに併合された後、さらに新羅の攻撃によって百済が進退窮まると、列島移住も選択肢になった。


秦河勝(推定567年ー推定650年)は、そうして移住してきた一族で、製鉄、貨幣鋳造、養蚕、絹織物、法の知識などをもって、聖徳太子の懐刀になった。


【写真】アオサギ劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


e0022344_04592225.jpg












by kugayama2005 | 2019-04-12 02:17 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005