2019年 05月 15日 ( 2 )

承前、


◾️小野妹子が「日本の統治者を「アマタリシヒコ・オオキミ」と述べた」


これは隋書によると、倭国の王について問われた使節(小野妹子?)は、


「王の姓は阿毎(アマ)、名は多利思北孤(タリシヒコ)、號は阿輩雞彌(アハケミ)」と答えた。


アマ+タリシヒコ=天より降りた男子

アハケミ=オオキミ(当時の発音はアフケミに近かった?)


と解釈すると、オオキミ(天皇は女帝推古)が「彦」なのはおかしい。だから、これは聖徳太子のことを言ったのだ、とか、北九州の使節が勝手にアマ+タリシヒコ=オオキミ説を隋に持ち込んだのだ、とか妄想が広がるのだ。


そこで私も不安になって、「日本古代の王統と王権(篠川 賢)」を読んでいたら、この部分は、


「阿毎(アマ)、多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞彌(アハケミ)」は、「一般的な王統のあり方について述べた部分」と説かれていたので、さっそく降参しました (笑。


【写真】SUMMILUX 1:1.4/50 LEIZ WETZLAR/春の花ばな/OLYMPUS PEN-F


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by kugayama2005 | 2019-05-15 23:27 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

遣隋使が持参し、隋の煬帝がその内容に怒った倭国国書の「日出處天子」を聖徳太子だとすると、倭国の皇太子が、隋の皇帝に親しげに語りかけたことになり、煬帝の怒りはごもっともと言うしかない。


これに関して小野妹子側には、2つの妙な点がある。


  日本の統治者を「アマタリシヒコ・オオキミ」と述べたこと


日本側の記録にある遣隋使は3回だが、中国側の史料には倭国からの使節来訪は、煬帝記に2回、倭国伝に2回。九州ヤマト国の使節が別にあり、「アマタリシヒコ」を王と言ったとの説もある。

小野妹子が自己紹介で「アマタリシヒコ」と言ったのを、隋側が誤って大王の名とした?


小野妹子が帰路、百済で煬帝の返書を紛失した、ということ


【写真】SUMMILUX 1:1.4/50 LEIZ WETZLAR/春の花ばな/OLYMPUS PEN-F

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by kugayama2005 | 2019-05-15 02:25 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005