2019年 07月 16日 ( 1 )

◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


柿本人麻呂のこの歌に戻ろう。この歌は、天皇(天武)が「いかづちのをか」(雷丘)に行き、仮宮に入った時のものだという。一説によると、天武の息子のひとり、オサカベ(忍壁)に献じたものが元だという。


雷丘は明日香にある小高い(というか低い)丘で、おそらく落雷もしがちな場所だ。天武天皇が、遊行で、そこの仮宮に入った。天武天皇の息子たちも近くまで来ていて、それを見ている。柿本人麻呂は、息子たちに仕えている。


柿本人麻呂が、ほぼ同年の長男・高市皇子と深いつながりがあることは、後年の高市皇子に対する挽歌にも明らかだが、その弟たちにも親しく接していたようだ。


この歌には、前史が関係している。大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱の折、まさに決戦に臨んで野上(関ヶ原の東端)の仮宮にいた夜、大雷雨が襲った。大海人皇子は、「神の助けがあるならばこの雷雨を止めん」と占った、そのことを前提としている。


桑名にいた天武天皇が、援軍2万騎が集結している関ヶ原周辺に移動したのは、軍事を任された長男・高市皇子が「桑名では遠すぎるのでもっと近くに来てください」と依頼したからだ。そこで大雷雨が起こり、大海人皇子は吉凶を占った。


その大雷雨と、今、天皇となって「いかづちをか(雷丘)」の仮宮に入った天武天皇を連想しているわけだ。壬申のとき幼児だった忍壁は、野上の大雷雨は体験していない。しかし、高市は18歳で全軍の将だった。


だからこの歌は、忍壁に献じたとしても、高市を強く意識しているのだろう。


「あの時の決死の大雷雨」と、大海人皇子が今や天皇になって「明日香の雷丘という低い丘に遊行している」、それを息子たちも見守っている、その情景をとらえているわけだ。


深刻な歌ではない。「神だから雷の上に仮宮をつくったのだろう」というのは、平和への安堵、ユーモアも感じられる。


もしこの歌を、柿本人麻呂が現場でとっさにつくったとすれば、決戦前夜の大雷雨を現地(野上)で体験していたのではないか、と思わざるをえない。そうだとすると、高市皇子と柿本人麻呂の関係はなお深く、天武天皇や持統天皇が柿本人麻呂を側近として政治任用した理由も自然だ。


【写真】仙山線(仙台山形)SONY DSC-RX0

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by kugayama2005 | 2019-07-16 01:19 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005