2019年 08月 21日 ( 1 )

◾️(ところで最近思うのは、天武は近江朝攻撃に失敗した場合、東国に国を立てる計画だったのではないか。その点については後述)


と、書いて忘れてた。


大海人(後の天武天皇)は、壬申の乱で吉野を、おそらく少数の身の回りの者と出立し、山越えして一旦、伊勢方面へ南下。その後、(船で?)桑名まで行く。うののさらら(後の持統天皇)がへとへとに疲れてしまったので、と言って、桑名にとどまる。実は桑名は、伊勢国の最北部だから南下しなくても伊勢には行ったことにはなる。


一旦南下したのは、伊勢方面の実力者の協力を確かめたのだろう。もちろん、有力な部下が外交成果をあげていたにせよ、大海人本人が謝意を表しに行くべきなのだ。旗色が悪ければ、近江朝に寝返ってしまうかもしれない。


桑名に滞在していると、長男の高市皇子から、「父上、そこでは遠すぎます」と言ってきて、関ヶ原の東端の山上(地名は野上)に進出した。


高市皇子はおそらく、尾張氏など東国勢に、「大海人が臨戦態勢でなければ戦いは難しい」と、こんこんと説教されたのだろう。高市皇子、大海人から総大将を任命されたが、実戦は知らない18歳(19?)であった。


関ヶ原から琵琶湖岸に向かう要衝、不破の関は、手際よく東国勢によって固められている。


この状態で、大海人の心中を妄想すると、


近江朝がこのまま自滅するようにできないか(つまり、甥・大友皇子を殺めたくない)


戦争になった場合、敗北もありうる(その際には尾張氏を頼り、東国に拠点をつくりたい)


1については、大友皇子はすでに天皇に即位していた可能性が高い。日本書紀が、そこを無視しているのが怪しい。即位しているとすれば、天皇殺しということになる。


大友皇子に最後まで付き従ったのが、物部麿(まろ)。大友皇子は最後、逃げる場所もなくなって自殺したとされる。それを知るのは、物部麿のみ。物部麿は天武・持統政権で、老年まで尊重された。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-21 00:08 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005