2019年 09月 09日 ( 1 )

◾️近江荒都歌1 


◾️ささなみの志賀の辛崎さきくあれど大宮人の船待ちかねつ

 

◾️ささなみの志賀のおほわだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも


(現代で読みやすいように表記を少し変えてある)


この2首には、少なくとも2人の、結果としては3人の悲しい死が反映されている。


671 天智天皇崩御

672 大友皇子縊死

678 十市皇女(とおちのひめみこ)の突然死


【意訳】

◾️さざなみ寄せる志賀の辛崎の港よ。おまえは変わらず残っているが、滅亡した近江朝の貴族たちの船は、待っていてももう来るわけがない。


◾️さざなみ寄せる志賀の大わだの湖面は流れもせず、静かに、ここだけ時間が止まっているかのようだ。だが、死んでいった昔の人にふたたび逢うということがあろうか。そんなことは、ありはしない。


この歌は、額田王を強く意識してつくられている、


【参考】天智天皇の大殯(おおあらき=仮葬)の時の(額田王の)歌

◾️かからむとかねて知りせば大御船は

てし泊に標結(しめゆ)はましを

 (このように(夫)天智天皇が亡くなってしまうと知っていたならば、あなたのお船を泊めている港にしめ縄をして、船が出て行かないようにしたものなのに)


(次いで舎人吉年の歌)

◾️やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎

 (わが大君のお船を、志賀の唐崎(=辛崎)の港は今も待って思い続けているだろうに)


仮葬の天智天皇の遺体から、魂はすでに抜け去ってしまった。殯(あらき)という行事は、その抜け去った魂を呼び戻す意味があったらしい。


しかし、柿本人麻呂の2首は、

◾️船は、待っていてももう来るわけがない

◾️昔の人にふたたび逢うということがあろうか。そんなことは、ありはしない。

と、きびしく断絶している。


額田王が天智天皇側近の女性たちと大殯に臨み、歌を残した日から半年後、壬申の乱によって大津の都は敗亡、都の主大友皇子は山中で縊死した。


額田王にとって天智天皇は夫、大友皇子は娘の十市皇女(父は天武)の夫だ。本来なら、近い将来、ふたりは近江朝の天皇皇后のカップルだ。


さらに6年後(678年)、十市皇女は宮中で突然死している。最愛の娘を失った天武天皇、額田王は激しく動揺した。


柿本人麻呂が、「近江荒都歌1」を宮中歌壇で披露したのが十市皇女の死後だとすると、そこで「死者は戻らない」と断じるのはあまりに厳しすぎるのではないか?


思うに、人麻呂がこの2首を披露した直後に、十市皇女の突然死があった。


そして、人麻呂はただの詩人ではなく、死者の霊魂を揺りうごかす特異な人と認知されたのではないか。そして、死の現実を直視することができた、異端の古代人だったのかもしれない。(その異端さは、後述の「石見国自傷歌」に強く現れる)


この歌を聞いて動揺しなかったのは、一人うののさらら。彼女は、死んだ人は帰ってこないと考えていた。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_17423613.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-09 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005