2019年 09月 13日 ( 1 )

吉野浩子先生は、「草壁皇子の死〜ある白昼夢〜」という一文のなかで、草壁皇子は持統天皇・藤原不比等ラインに毒殺された、という空想を語っている。


私の妄想も、吉野浩子先生に大きく依拠しているのだが、まず、草壁皇子の死の20年以上前のことである。


斉明天皇に付き従って、百済復興戦争準備のため、父(天智天皇)、夫(天武天皇)とともに九州に赴き、


姉(おおた)、妹(うののさらら)は、彼の地で続いて出産した。


妹の生んだ子が後の草壁皇子(662年生まれ)

姉の生んだ子が後の大津皇子(663年生まれ)


姉の子大津は、成長して何においても立派で、才能もあり、外見も好ましい。天智天皇は、近江朝の若きスター大津(天智天皇にとって孫でも甥でもある)を、すこぶる愛した。


近江朝が続いていれば、大友皇子(父が天智)、妃の十市(父が天武/母が額田王)、そして大津皇子が主役となっただろう。(ちなみに大津皇子の大津は近江の大津とは関係がなく、生まれた那大津=博多あたりの地名に由来している)


一方、草壁皇子は、いつから皇太子になったんだっけ?、と調べ直さないと忘れるほど影がうすい。681225日、確かに皇太子になっている。


さてここでふと考えた。壬申の乱のおり、近江朝を脱出した高市皇子と大津皇子は、兵を揃えて山越えし、父大海人皇子(天武天皇)に立派に参陣している。その時、草壁皇子は?、実は草壁は父母とともに先に近江朝を去って、すでに吉野から随伴していたのだ。はっきり言って、母親べったりではないか。


うののさらら(持統)が自分の産んだ子(草壁)を連れて出たのは自然かもしれないが、そうであれば、もう政治的野望は放棄し、隠棲するつもりだったのかもしれない。


大海人と、うののさらら(持統)が近江朝を去り、吉野に向かった当初は、ほんとうに仏道に入る決意だったのではないか?、と以前書いた。高市と大津を近江朝に残し、草壁を連れて出立したのは、母うののさららの意向だろう。おそらく、高市や大津のように政治向きでもなければ軍事にも弱い草壁を、母はいとおしく思ったのだろう、吉野で出家させて仏道に励めば、と。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-13 02:25 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005