2019年 09月 14日 ( 1 )

◾️681225日、草壁皇子は、確かに皇太子になっている。


しかし、日本書紀は、


◾️68321日、大津皇子が初めて朝政を執る


と、明記している。


この時期、天武天皇はたて続けに政治改革を実施し、実務も山積していた。「大津皇子が朝政を執る」という書き方は、不気味だ。


大胆に解釈すると、681年に草壁皇子を皇太子にしてみたが、実務的に無理だったので、大津皇子に朝政を任せた、とも読める。


そうであれば、天武天皇崩御の686年には、実務を重んじる人の目には、後継は大津皇子だということになろう。


あるいは、草壁皇子の皇太子就任が虚偽の記事だったと言えなくもない。となると、6795月6日に行われた「吉野の会盟」(天武天皇とうののさらら皇后が、天武の6人の皇子に対し、争わぬことを誓わせた。皇子側からは草壁が代表して誓約した。草壁が代表して答えたことで、事実上後継者と見なされる)がきわめて怪しい。


草壁皇子は「今後、この誓いに背いたならば命は亡び子孫は絶えるでしょう」と断言している。天武天皇もそう言い、おそらく、うののさららもそう誓約した。誓いに反すれば命を失う、という、くどい念押しだ。


大津皇子の刑死を正当化するため、7年遡って、誓約の場を創造したという疑いを持たれてもしかたがないほど、「吉野の会盟」は突如劇的に書かれている。


日本書紀には、さほどの潤筆はないと思うが、持統天皇の関係は本人の強い意志で曲げられている可能性はある。それに対抗して、後世の編纂者は、大津皇子を賛美する「懐風藻」の文章を押し込んだりしたのだろう。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_17552152.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-14 01:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005