カテゴリ:2019日記( 251 )

692年(柿本人麻呂  推定39歳)

◾️軽皇子(かるのみこ)の安騎野遊猟


については、すでに


2019日記【039052】斉明(天智・天武)持統期の心的推移 16〜29に書いたので、今回は付け足さない。


安騎野遊猟歌は、柿本人麻呂の頂点を示すものだろう。この時、人麻呂は困難な任務に極限まで緊張を強いられていただろう。天武天皇から息子草壁皇子を通じ、孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位が移るべきものなのか。持統天皇の注文は厳しかった。


おそらく持統天皇の心中は、孫軽皇子に、草壁皇子同様の不安を抱き、天皇にふさわしいとは思っていない。しかし、事実上、次期天皇候補は他にいないのだ。天武天皇の直系を即位させなければならない、しかし、ほんとうに軽皇子でいいのか?


実務の中心、藤原不比等は、後継軽皇子で早く決着を付けようとしている。時代はすでに神話世界を離れ、政治の実体は藤原政府に移っているのだ。不比等は、持統天皇の決断した時の怖さを、身にしみて知っている。


不比等から見れば、人麻呂は持統天皇の影と見えただろう。おそらく、安騎野遊猟にあたって、不比等の強い圧力が人麻呂にも注がれた。後継軽皇子から逸脱するな、と。


柿本人麻呂  安騎野遊猟反歌(2019-02-09 の再掲)

◾️東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


【私訳】

未明の東の野に、登りくる日の兆しが見えている。これは軽皇子(後の文武天皇)の近未来を暗示している印だが、それが如何なものなのか、わかる力がいまの私にはない。返り見ると、薄い氷盤のような月が、傾いて西の漆黒に堕ちようとしている。これは、不幸な死を甘受した草壁皇子の姿にちがいない。母の慈愛により、ふたたび新たなより賢い生を受けるだろう。


今、夜明けを迎えるこの冬の地に、いざ近江へ向かわんとした彼らの祖父であり父である「あまの ぬなはら おきの まひとの みこと」(天武天皇)の威霊が満ちてきているではないか。東の空の暁も、すめらみことが焼き放った名張の幻火だろうか。


草壁皇子がそれを手にすることがかなわず、軽皇子がそれをまだ得ていない霊だ。私に言えることは、このような、もうなく=まだない時にあって、それを知るのは詩の言葉のみに違いないということ。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_13145312.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-22 23:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂=草壁(あるいは忍壁)皇子の舎人説、というのがあって、ナゼかな?、と思っていたが、草壁皇子への挽歌が、


◾️朝廷のお言葉もなさらず月日は経ってしまった。それ故に、草壁皇子に仕えた宮人たちは、どうなっていくのか全くわからない。


と、終わっている点や、


◾️多数の草壁皇子の舎人による挽歌(短歌)が併載されている


点を考えると、確かに、人麻呂は草壁皇子の身辺に仕えていた可能性はある。


それにしても、公的な挽歌に、使用人たちの動静をからめるなど、私的事情を持ち込んで良いものだろうか。おそらく、人麻呂に限っては許されたのだろう。持統天皇が良いと言うものは良いのだ。


さらに、草壁(あるいは忍壁)皇子の身辺にいることから、長男の高市皇子との交流もあった。


高市皇子としては、幼い弟と話しても面白くないので、同年の人麻呂に、


「ところで人麻呂くん、壬申の折にはどこにおりました?」などと聞き、人麻呂は、


「琵琶湖に舟を出し、密かに大海人皇子さまの軍に兵糧を運んでおりました」とか、


さらに高市皇子は、


「人麻呂くん、627日夜の雷雨には遭ったかね?」などと聞く。


人麻呂「はい、私は高島の港で、漁師に変装した間者と会っておりました。高島砦(近江朝方)の様子を、大海人さまの軍にお知らせするためです。その時、対岸の伊吹山に向かって、恐ろしい雷神が乱れ落ちて行ったのです」


高市「ははは、その落雷の下に父上と私はいてね、父上は『神々よ私をお助けくださるのならこの雷雨を止めたまえ』と祈った。すると、時を待たず雷雨は収まった。まあ、夏の通り雨だからね、止んで当然なんだけど、父上はにっこり笑われた」


とか?


e0022344_13581462.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-21 22:44 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の、


近江朝(近江荒都)、草壁皇子(挽歌)については冷めた目

明日香皇女(挽歌)、高市皇子(挽歌)については万感の哀切


と分類してしまったが、今回は2については触れない。


明日香皇女と高市皇子は、持統天皇の偏愛の対象であり、それは柿本人麻呂においても同様だった。


明日香皇女(あすかのひめみこ)は、天智天皇の娘で、持統天皇の異母妹ということになる。明日香と忍壁は、睦じい仲だった。


高市皇子は、天武天皇の長男だが、母の身分が低いため天皇候補の序列には入れなかった。野望はなく、篤実に手際よく職務をこなしたためか、持統下で事実上の最高職、太政大臣に任命されている。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_12530337.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-20 23:52 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の草壁皇子挽歌に併載されている舎人(下級官吏)たちの短歌の中に、少し気になった短歌があった。


◾️鳥座(とりぐら)立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね


【意訳】鳥小屋をつくり皇子が飼っていた雁の子よ 巣立ったならば真弓の岡にお身体を横たえた草壁皇子のもとに飛んで来なさい


草壁皇子の身体は、「島の宮」という住居から、馴染みのない「真弓の岡」という場所に移され、仮に安置されていた。(身体から魂が抜けても、魂を呼び戻すことができるはずだ、という考えからだが、それは当時すでに形式化していたという指摘もある。後に持統天皇は、自らの遺骸を即火葬に付すよう指示して、古代からの思想を破却した)


他にも、島の宮で放し飼いにされていた水鳥の歌が、(人麻呂作を含めて)あるが、この歌は実際に鳥係を仰せつかった舎人の作ではないか。子雁よ、早く巣立って、本葬が行われる前に、真弓の岡の草壁皇子のお身体に会いに来なさい。


会いに帰りなさい、なのか、会いに来なさい、なのか。おそらくこの舎人は、島の宮と真弓の岡を往復して公務を行なっていたのだろう。


島の宮で雁の子を世話するにつけ、「きみのいるべきところは草壁皇子の元だから、そこへ帰りなさい」、真弓の丘で雁の子を思い出すにつけ、「雁の子よ、早く巣立って草壁皇子の元に飛んでおいで」というわけで、「飛び帰り来ね」という幻想二重性が発生する。


それで、言いたいことは、公務多忙なはずの27歳の皇太子が、思い入れを込めて水鳥を飼っていたということなのだ。政治向きの高市皇子や大津皇子が、そのように鳥の飼育に夢中になるとは想像できない。


母持統が、近江朝を脱出するとき、(高市皇子や大津皇子は近江朝に置いたまま)、草壁皇子と幼い忍壁皇子を連れ出したのは、やはり草壁は政治や軍事に向いていなかったゆえだろう。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_12521209.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-19 23:18 | 2019日記 | Comments(0)

2019日記【260】柿本人麻呂についての私的妄想27


一般に、持統天皇は、


自分の産んだ草壁皇子を天皇にしたい一心で、姉の子大津皇子を見殺しにし、

草壁皇子早生によりその息子(持統にとっての孫=後の文武天皇)を天皇に即位できる年齢までがんばって在位し通した。


子への愛、孫への愛によって、天皇であり続けた、と見なされているが、それは間違えではないか。持統天皇は、天皇であり続ける政治基盤を、自ら強化し、維持していた。そして、その帝位を継承する相手は、亡き夫天武より優れた者でなければならない、という強い信念があった。


持統天皇は、息子の草壁にも、軽皇子(後の文武天皇=持統の孫)にも天皇たる素質を認めていなかった筈だ。持統天皇は少年時に亡くなった、言葉を発しない弟タケルが、宮廷では生きていけないという現実を見て育った。


しかし、結果から見るとたしかに、持統文武(孫)元明(息子の妃)元正(孫)聖武(ひ孫)孝謙(ひひ孫)淳仁(天武系・天智系の折衷)称徳(=孝謙)※ここで天武系が消滅


と、一定期間は天武系が続いたので、一般に言われている持統天皇についての1、2の解釈は、結果から遡行してのそうあるべきという推論であろう。


(その後は、光仁(天智天皇の孫)桓武(天智天皇のひ孫)※長岡京・平安京へ遷都、と天智系になる)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_12531108.jpg


















by kugayama2005 | 2019-09-18 23:51 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

妄想もいいかげんにしろ!、と言いたいところだが、言ってしまおう。


柿本人麻呂の長歌を分類してみると、


近江朝(近江荒都)、草壁皇子(挽歌)については冷めた目

明日香皇女(挽歌)、高市皇子(挽歌)については万感の哀切


と、まったく様相が違う。この違いは、ありていに言って、持統天皇の心情であり、それを全面的に人麻呂が受け入れているのだろう。持統天皇の、明日香皇女、高市皇子への偏愛は明らかだ。


それに反して、天智天皇(父)、草壁皇子(息子)への冷たい眼差しはなんなのだろうか。持統天皇には、父と息子に流れている何かを拒否したい動機があるのだろうか。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_12504999.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-17 23:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️689 草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


【大意】

・(前半はアマテラスから天武までの神話体系を謳い上げる)


・(後半は草壁皇子について、)

(天武天皇は神のままで天上へ登った=神上がりした。そこで、それに続く)草壁皇子の世は、春の花の貴いように、望月が満ちるように、世の人々が大船に乗ったように頼みとし、慈雨を仰いで待つように、(皆が期待していたのに、草壁皇子は)どのように思われたのか、皆にとってなにも馴染みのない真弓の丘に(ご遺体となって安置され)太い宮柱を建て、御殿の甍を高々と上げ、朝廷のお言葉もなさらず月日は経ってしまった。それ故に、草壁皇子に仕えた宮人たちは、どうなっていくのか全くわからない。


私の勘違いかもわかりませんが、草壁皇子を追悼するというよりも、皇子の突然の死によって皆が混乱している、という終わり方は尋常ではない。


この後続く、明日香皇女(忍壁皇子の妃)や高市皇子への人麻呂挽歌にみられるような、万感迫る哀切は、ここには存在しない。


また、多数の草壁皇子の舎人による挽歌(短歌)が併載されているのも奇妙な感がある。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_12485523.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-16 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

◾️ふたつの挽歌


【妄想】柿本人麻呂

 年齢は今のところの推定


◾️686年(33歳)天武天皇崩御

    持統天皇による挽歌(額田王引退?)

◾️689年(36歳)

    草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


私は、天武天皇への挽歌は、名義は持統天皇作になっているけど、実作者は額田王だと思う。


それから3年後の、草壁皇子への挽歌は、柿本人麻呂作であると記されている。


天武天皇崩御の後、額田王の役割が、人麻呂に任じられたのだろう。額田王は、弓削皇子や人麻呂との交流も続けており、宮廷歌人としては存在感を放ち続けている。


伊藤博氏は「萬葉集釋注」の中で、草壁皇子挽歌(人麻呂作)について、「天武天皇までを神話のなかの神とし、草壁皇子が人皇第1代」という見方をされている。


額田王から柿本人麻呂へ、という交代も、確かにそういう考え方に即している。


時代は律令制を推し進め、神権政治からすでに法治へと、大きく舵を切っている。リアリスト持統が、側近の詩人にも、時代への同道を求めたといえる。


また伊藤博氏は、人麻呂が表現した長歌と反歌の緊密な緊張感は、「人麻呂と持統宮廷が時代精神の極限として生み出したもの」と指摘しているが、まさにその通りだと思う。


後の「安騎野遊猟歌」で、それはさらに高みを迎える。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_17574860.jpg


















by kugayama2005 | 2019-09-15 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️681225日、草壁皇子は、確かに皇太子になっている。


しかし、日本書紀は、


◾️68321日、大津皇子が初めて朝政を執る


と、明記している。


この時期、天武天皇はたて続けに政治改革を実施し、実務も山積していた。「大津皇子が朝政を執る」という書き方は、不気味だ。


大胆に解釈すると、681年に草壁皇子を皇太子にしてみたが、実務的に無理だったので、大津皇子に朝政を任せた、とも読める。


そうであれば、天武天皇崩御の686年には、実務を重んじる人の目には、後継は大津皇子だということになろう。


あるいは、草壁皇子の皇太子就任が虚偽の記事だったと言えなくもない。となると、6795月6日に行われた「吉野の会盟」(天武天皇とうののさらら皇后が、天武の6人の皇子に対し、争わぬことを誓わせた。皇子側からは草壁が代表して誓約した。草壁が代表して答えたことで、事実上後継者と見なされる)がきわめて怪しい。


草壁皇子は「今後、この誓いに背いたならば命は亡び子孫は絶えるでしょう」と断言している。天武天皇もそう言い、おそらく、うののさららもそう誓約した。誓いに反すれば命を失う、という、くどい念押しだ。


大津皇子の刑死を正当化するため、7年遡って、誓約の場を創造したという疑いを持たれてもしかたがないほど、「吉野の会盟」は突如劇的に書かれている。


日本書紀には、さほどの潤筆はないと思うが、持統天皇の関係は本人の強い意志で曲げられている可能性はある。それに対抗して、後世の編纂者は、大津皇子を賛美する「懐風藻」の文章を押し込んだりしたのだろう。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_17552152.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-14 01:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

吉野浩子先生は、「草壁皇子の死〜ある白昼夢〜」という一文のなかで、草壁皇子は持統天皇・藤原不比等ラインに毒殺された、という空想を語っている。


私の妄想も、吉野浩子先生に大きく依拠しているのだが、まず、草壁皇子の死の20年以上前のことである。


斉明天皇に付き従って、百済復興戦争準備のため、父(天智天皇)、夫(天武天皇)とともに九州に赴き、


姉(おおた)、妹(うののさらら)は、彼の地で続いて出産した。


妹の生んだ子が後の草壁皇子(662年生まれ)

姉の生んだ子が後の大津皇子(663年生まれ)


姉の子大津は、成長して何においても立派で、才能もあり、外見も好ましい。天智天皇は、近江朝の若きスター大津(天智天皇にとって孫でも甥でもある)を、すこぶる愛した。


近江朝が続いていれば、大友皇子(父が天智)、妃の十市(父が天武/母が額田王)、そして大津皇子が主役となっただろう。(ちなみに大津皇子の大津は近江の大津とは関係がなく、生まれた那大津=博多あたりの地名に由来している)


一方、草壁皇子は、いつから皇太子になったんだっけ?、と調べ直さないと忘れるほど影がうすい。681225日、確かに皇太子になっている。


さてここでふと考えた。壬申の乱のおり、近江朝を脱出した高市皇子と大津皇子は、兵を揃えて山越えし、父大海人皇子(天武天皇)に立派に参陣している。その時、草壁皇子は?、実は草壁は父母とともに先に近江朝を去って、すでに吉野から随伴していたのだ。はっきり言って、母親べったりではないか。


うののさらら(持統)が自分の産んだ子(草壁)を連れて出たのは自然かもしれないが、そうであれば、もう政治的野望は放棄し、隠棲するつもりだったのかもしれない。


大海人と、うののさらら(持統)が近江朝を去り、吉野に向かった当初は、ほんとうに仏道に入る決意だったのではないか?、と以前書いた。高市と大津を近江朝に残し、草壁を連れて出立したのは、母うののさららの意向だろう。おそらく、高市や大津のように政治向きでもなければ軍事にも弱い草壁を、母はいとおしく思ったのだろう、吉野で出家させて仏道に励めば、と。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

e0022344_17542513.jpg

















by kugayama2005 | 2019-09-13 02:25 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005