カテゴリ:2019日記( 186 )

◾️天武天皇、持統天皇、そしてその朝廷付き詩人である柿本人麻呂の「仙術嗜好」


考えてみると、皇極=斉明天皇の「岩石庭園」も、仙術嗜好だったのではないか。人々はまったく意味不明の岩石庭園造りに動員され、疲弊し、それを天皇の「たぶれ心のみぞ(狂心の渠)」とののしった。渠には水を流し、酒船石で仙術を行ったのではないか。


少し時代は下るが、山上憶良の書き物には、明らかに道教の書からの引用があるらしい。憶良は、柿本人麻呂が老境のころ、遣唐使に随行しているので、大陸で道教の書物を入手してきた可能性がある。


身分は最低だった憶良が、勝手に本を買ってきたとは思えない。おそらく朝廷の指示だった。


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by kugayama2005 | 2019-07-20 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

天武天皇、持統天皇、そしてその朝廷付き詩人である柿本人麻呂も、道教の影響を大きく受けていたという説もある。


それを「道教」というのは、ちょっと違うな、と思うのだ。


道教というよりは、「仙術嗜好」と言いたい。


仙術は、老荘思想とはほとんど関係がない。植物(本草)や鉱物(錬丹)を通じて、あるいは呼吸法などを通じて、人体の持っている健康可能性を極限まで引き伸ばす方法だ。


それが列島に伝わってきたら、実は列島にも同じような自然観、健康生活術があり、速やかに融合していったのだろう。


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by kugayama2005 | 2019-07-19 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


この歌について、

天皇を神格化

低い丘をいかにも雷神がいるように誇張


などと言う人がいるが、それは近江朝攻撃の前夜を想像していないからだろう。負けるかもしれず、勝つにしても、兄の後継者・大友皇子24歳を死に追いやることになる。世論は大海人を支持するだろうか。


夜の大雷雨。それが止んで、近江朝へ討ちかかることを、大海人は決意した。高市皇子はそれを見守っている。


しかし、夏の雷雨である。いくら激しくても、止まないわけはない。東国勢は味方だ。一方、西国の有力者は、近江朝の呼びかけにもとぼけている。


勝つための軍事的な準備は万端だったと言えよう。そのことを明らかにし、神の意志も勝利にある(つまり政治的にも勝つのだ)という「雷雨を止ませて勝ちを確信する」儀式が必要だった。


柿本人麻呂も、どこかその近くで、雷雨の中にいたはずだ。


◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の、


の歌は、柿本人麻呂が、ほぼ同年の大友皇子に対して、18歳の時の記憶を共有するという、ひそかな交情なのだ。


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by kugayama2005 | 2019-07-18 00:24 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大雷雨が起こり、大海人皇子は吉凶を占った


その場所は、野上。


壬申の乱で、大海人皇子の援軍2万が集結する関ヶ原の東方。


近江朝側の機先を制して、美濃の多(おお)氏は大海人側として、「不破の関」を占拠して固めた。近江朝が東国勢に接触できないようにした。不破から下れば、琵琶湖東岸に出る。


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柿本人麻呂も18歳くらいの若者で、柿本氏が水運に関係しているとすれば、このあたりの地理について知悉しており、大海人側に協力していたとしても不思議ではない。


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by kugayama2005 | 2019-07-17 00:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


柿本人麻呂のこの歌に戻ろう。この歌は、天皇(天武)が「いかづちのをか」(雷丘)に行き、仮宮に入った時のものだという。一説によると、天武の息子のひとり、オサカベ(忍壁)に献じたものが元だという。


雷丘は明日香にある小高い(というか低い)丘で、おそらく落雷もしがちな場所だ。天武天皇が、遊行で、そこの仮宮に入った。天武天皇の息子たちも近くまで来ていて、それを見ている。柿本人麻呂は、息子たちに仕えている。


柿本人麻呂が、ほぼ同年の長男・高市皇子と深いつながりがあることは、後年の高市皇子に対する挽歌にも明らかだが、その弟たちにも親しく接していたようだ。


この歌には、前史が関係している。大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱の折、まさに決戦に臨んで野上(関ヶ原の東端)の仮宮にいた夜、大雷雨が襲った。大海人皇子は、「神の助けがあるならばこの雷雨を止めん」と占った、そのことを前提としている。


桑名にいた天武天皇が、援軍2万騎が集結している関ヶ原周辺に移動したのは、軍事を任された長男・高市皇子が「桑名では遠すぎるのでもっと近くに来てください」と依頼したからだ。そこで大雷雨が起こり、大海人皇子は吉凶を占った。


その大雷雨と、今、天皇となって「いかづちをか(雷丘)」の仮宮に入った天武天皇を連想しているわけだ。壬申のとき幼児だった忍壁は、野上の大雷雨は体験していない。しかし、高市は18歳で全軍の将だった。


だからこの歌は、忍壁に献じたとしても、高市を強く意識しているのだろう。


「あの時の決死の大雷雨」と、大海人皇子が今や天皇になって「明日香の雷丘という低い丘に遊行している」、それを息子たちも見守っている、その情景をとらえているわけだ。


深刻な歌ではない。「神だから雷の上に仮宮をつくったのだろう」というのは、平和への安堵、ユーモアも感じられる。


もしこの歌を、柿本人麻呂が現場でとっさにつくったとすれば、決戦前夜の大雷雨を現地(野上)で体験していたのではないか、と思わざるをえない。そうだとすると、高市皇子と柿本人麻呂の関係はなお深く、天武天皇や持統天皇が柿本人麻呂を側近として政治任用した理由も自然だ。


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by kugayama2005 | 2019-07-16 01:19 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

道教は、身体的でもあります。北方の儒教や、西方の仏教との違いです。


ニンゲンの統治規範(儒教)や、脳内瞑想(仏教)ではなく、「体を大事に長生き」という現実的な目標があり、それを極めれば不老不死の仙人になるわけです。


「本草」や「錬丹」も、例えば抗がん物質の発見にもつながるわけなので、始皇帝が夢中になったのも理解できます。


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by kugayama2005 | 2019-07-15 04:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

道教の特質のひとつに、「本草」と「錬丹」への強烈な傾倒があります。場合によっては、神仙思想よりも、「本草」「錬丹」が主目的のようにも見えます。


「本草」は、植物エンサイクロペディアで、漢方薬などに実用化されています。


「錬丹」は、金属への深い関心です。錬金術を研究した。銅器をつくり、剣と鏡を神聖視した。さらに辰砂から水銀をつくり、不老不死の薬石を発見しようとした(気の早い人は水銀を飲んで死んだ)。


「錬丹」の初歩は、辰砂から「丹」を生成することでしょうか。畿内ヤマトでも辰砂を産出し、宮の柱などを「丹塗り」し、朱色に染めたのでしょう。


福永光司氏によると、「錬丹」には大きな投資が必要で、秦国のような大帝国でないと財政的に無理らしいです。小規模予算でできるのは「本草」で、小国では「本草」が主流になるようです。


これまで触れてきた、畿内ヤマトに現れた、巫女アカデミーでの薬草知識、三種の神器の2つである剣と鏡、鉱物採取への執念などは道教からの強い影響が感じられます。


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by kugayama2005 | 2019-07-14 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

南方(揚子江下流域)からの道教の伝播があれば、それは例えば秦の始皇帝のころでしょう。


繰り返しになりますが、始皇帝(道教の強力な支持者)の秦帝国の強い命令によって、錬丹術(錬金術)をおこない、不老不死の薬草を求めて四方八方を探索した(させられた)、多くの官人などがいたのです。


彼らのうちの何人かが、列島にも到達した。徐福伝説が事実かどうかはさておき、派遣地で定住する覚悟の人間を伴ってやって来た。そのリーダー格の何人かは、道教の教義を持参し、当然それは漢字で書かれていたわけです。


一般的に、王仁(わに)という人物が、紀元400年ころに、漢字(論語や千字文)を列島に伝えたというように言われていますが、これはおそらく楽浪郡(半島にあった中国の出先機関)出身の帰化人が、日本書紀編さんの際に、先祖の功績として挿入したのでしょう。


徐福的な人物が列島に到達していたとすると、紀元前200年くらいのことですから、漢字の伝来は600年早まるのです。


それら、道教の教義と漢字を保持するグループが、古代の列島に点在していた。例えば、空海の先祖など、という妄想です。空海は、遣唐使の一員に抜擢されるまでは、無名の若者(讃岐のマオくん)です。しかし彼は、すでに漢文をこなし、それだけではなく中国語を使うことができたという説もある。


空海があっという間に習得してきた真言密教は、相当部分、道教と習合しているらしい。父は讃岐国の有力者だったというので、「道教の教義と漢字を保持するグループ」と関係があるのかもしれない。


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by kugayama2005 | 2019-07-13 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

福永光司氏によると、「天皇」や「神社」という文字自体、古代道教の経典に存在するという。ということは、例えば「天皇」は、仏教的、あるいは儒教的概念ではないので、それを採用したと思われる天武・持統朝は、特に道教への傾倒が強かった。


さらに柿本人麻呂の、


◾️大君(おおきみ)は神にし座(ま)せば天雲(あまくも)の雷の上に廬(いほ)らせるかも

◯大君(天皇)は神としておられるので天空の雷の上に仮宮を建てられるのだろう


における「神」も、われわれが近現代で認識している「神」とは、別の概念なのではないか。


福永光司氏は端的に、この神は「道教の神仙、神人の神と重なり合う」として、「神のような人、すなわち人が修行努力して、超越的存在の境地に到達しえたということで、基礎はあくまで人にある」として、仏教系の「現人神」(神が人に姿になって現れる)とは別のものと示唆されている。


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by kugayama2005 | 2019-07-12 00:48 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

福永光司氏は「明日香と道教」という対談で、「縄文期からの日本土着の思想信仰がタテ軸とすると、ヨコ軸には大陸からの(道教の)影響が考えられる」と仰っている。


このことがまさに、強い緊張感を伴って現実におきて記録される、つまり歴史化するのが、斉明(天智・天武)持統期だと思うし、福永光司氏も斉明天皇、天武・持統天皇の道教的行動について指摘されている。


そのことの表現者としての柿本人麻呂が、そのヨコ軸に強く牽制されていたことは間違いない。


また、秦の始皇帝の中国統一にともなって、その帝国から追放されあるいは逃亡した人々が、道教的考え方とともに列島にやって来たのだろう。例えば徐福伝説のように列島に、あるいは馬韓を経てやって来た秦人のように。


徐福や秦人は、当然ながら海路で列島に来た。また、機織りの技術者を求めて列島側から、おしなべて「呉」の国と認識されていた江南に航海もしている。


道教が海を渡って来た時、そこには思いがけなく同質の、縄文以来の自然精霊信仰があり、急速に習合していったのではないか。


縄文以来の自然精霊信仰になかったのは、


神社という組織性

金属への傾倒(銅器信仰・錬丹術)


ではなかったか。


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by kugayama2005 | 2019-07-11 03:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005