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柳田國男「海上の道」の悪影響だと思いますが、沖縄の旧石器人は、海流に乗って日本列島を北上したのではないかと思っていたのです。


現在の遺伝子解析では、縄文人のDNAも調べていまして、日本列島の初期の住民が縄文人であり、現日本人も縄文人の遺伝子を一定程度受け継いでいることがわかっています。


しかし、旧石器人と縄文人(新石器人)のつながりは、実はわからないのです。道具で時代区分を行うこと自体がギモンではありますが。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-31 03:33 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

港川人が縄文人と関係がないとすると、彼らはどこから来てどこへ行ったのでしょうか。港川人は、オーストラリアのアボリジニや、インドネシアの先住民に近く、人類の「出アフリカ」以降、速やかにその航海術を駆使して太平洋に進出した人々ではないかと言われています。


日本列島に相当する場所(約1万年前の氷期終了時に日本列島は大陸と完全に分離)に住みついた、他の旧石器人との出会いはなかったのでしょうか。


【写真】沖縄県南城市 港川の流れる谷/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-30 11:04 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

2年ほど前に、世界最古級(推定2万3000年前)の釣針が出土していて、旧石器人が河口から船を出し、漁労をしていたと考えられます。


その川は、今でも港川と呼ばれるように河口に漁港があるのです。沖縄の海はサンゴ礁を越えると急に深くなり、大型の魚もいます。


【写真】沖縄県南城市 港川河口/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-29 00:24 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

今は観光スポットになった玉泉洞という鍾乳洞に隣接して、崩落鍾乳洞が発見され、そこにも旧石器時代の痕跡があるらしいです。


今回の興味はそこではなく、南方から航海してきた旧石器人が、港川の河口に到着し、ここは良さげだ、と思った気分を多少共有したくてですね。


【写真】沖縄県南城市 港川河口/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-28 04:34 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

日本で旧石器時代の全身の人骨が初めて見つかったのが、沖縄南部の港川というところです。その後、石垣島でも見つかっています。


旧石器人が、日本の四島にいなかったわけではもちろんありません。道具など生活痕は多く残っていますが、人骨は酸性土で融解してしまうのです。


港川人は、その後、縄文人になったという説があったのですが、最近は否定されています。


それはともかく、港川に行ってみなければと、那覇から糸満を経て行きました。何と、そこには20歳のころ行ったことがありました。


玉泉洞という洞窟があって、今はピカピカの観光地になっているではありませんか。中国さんや韓国さんが楽しそうに徘徊しています。ハイビスカスが咲きほこり、韓国の女の子が「ハワイイみたい!」と喜んでいました。韓国語ではHawaiiの最後のiiを律儀に発音して「ハワイイ」になることを知りました。


【写真】沖縄の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-27 15:07 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

琉球王朝以前、琉球王朝時代を通じて、琉球と日本とのつながりを考えてみると、その背景には日明貿易がある。


博多や堺の商人は、香木や生薬など南方系の商品について、明国を経ずに琉球の商人と取り引きできることを知っていた。勘合貿易は明国の都合でやっている建前で、私貿易はまた別なのだ。


多くの人が琉球からやってきて、日本語と琉球の言葉に少なからぬ共通点があることに気づいただろう。「おもろさうし」などの記述に、漢字仮名交じり文が採用されたのも、そういう背景があってではないか。


また琉球から来たお客を、当時流行の申楽見物に招待すれば、人気演目の「汐汲」(「松風」の原型)を鑑賞する機会もあった。


琉歌と松風の「汐汲」を強引に結びつけるつもりはないけれど、月と海の満ち干の秘密を知ってる者にしかわからないモチーフだと思う。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-26 02:11 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

琉球王朝時代の「おもろさうし」に、日本のことを「京・鎌倉」と表現している箇所があり、以前から不思議の感をもっていた。


鎌倉幕府は1333年に終わっている。琉球王朝は1429年からで、そのころ鎌倉はさびれた田舎町でしかない。「おもろさうし」に収録された内容が、百年以上口承によって伝わってきたものなのだろうか。


あるいは、日本の成り立ちについては、京に都があり鎌倉に武家政権があるという認識で、鎌倉時代が終わっている琉球王朝時代にもそれが保持されていたのだろうか。


琉球王朝(首里を首都とした統一王朝)以前の沖縄は、グスク(城)時代と言って群雄割拠の状態だった。北部の今帰仁(なきじん)城などは一大勢力で、明と交易をしていた。明へだけではなく、広くアジアを航海していたので多くの知見を持っていた。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-25 04:04 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

光源氏は、都から逃避して住んだ須磨の地で台風に遭遇し、住居を破却されてさらに明石に移り住む。


海女の宿は「松の柱に竹垣を差しかけたようなもので、夜寒は葦火で耐える」というもの。台風が来れば吹き飛ばされてしまうのだろう。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-24 03:00 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

松風、村雨は「海女の宿は人里はなれ、月よりほかは友もなし」という生活の中で、汐汲みの桶に月が入ったことに少し心も和み、「月はひとつ影はふたつ」と貴人との出会いを懐かしむ。宵の月。


一方、琉歌の汐汲みは、おそらく塩水として調理に使ったり、豆腐づくりをしたりするのだろう。桶に月が汲み移ったので、家族へのお土産にしようというわけだ。早朝、未明の月ではないか。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-23 00:10 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

謡曲「松風」の成立は、観阿弥世阿弥よりも古いということで、能ではなく申楽の面影を濃く残しているのだろうか。


例えば「松風」の場合も、松風・村雨の視線で生き生きと語られているわけで、申楽の人気の源泉がよくわかる。


【写真】那覇の秋/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2018-10-22 02:15 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005