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持統天皇の和歌、


春過ぎて夏来るらし白栲(しろたえ)の衣干したり天の香具山


【私訳】春が過ぎて夏が来たらしい。夜明け前、香具山の上にスバルが登ってきた。スバルは白く輝く連星で、清い乙女たちの巫女衣が吊るしてあるかのようではないか。さあ、季節の農事に取りかかろう。


さて、この持統天皇歌は、額田王(ぬかたのおおきみ)が成り代わってつくったもの、私見。


額田王は、天武、天智の妻だったが、天智天皇崩御後も近江朝にとどまり、壬申の乱で娘の十市皇女とともに救出された。


その後、中臣大島(なかとみのおおしま)という貴族と再々婚したという説がある。中臣大島は、持統天皇即位の神事で重要な役目を果たしている。したがって、そうであればなおさら額田王は持統天皇の近くにいたことになる。


ただし、「春過ぎて夏来るらし・・・」は万葉集によると、持統天皇が孫に譲位した時の歌という。そうなると額田王の3人目の夫大島は4年前に逝去しており、持統天皇の近くに額田王がいたという推定はやや強引かもしれない。


しかし、額田王は持統天皇の吉野行幸にも同道しているらしいので、直接の交流があったのだろう。何よりも気難しい持統天皇なのに、額田王に対しては優しい気持ちで接しているように思える。「少女うののさらら」として、才色兼備の額田王をあこがれの目で見つめていた気持ちを、保持し続けていたのではないか。


【写真】高岡城址/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-01-31 00:08 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇の和歌、


春過ぎて夏来るらし白栲(しろたえ)の衣干したり天の香具山


【私訳】春が過ぎて夏が来たらしい。夜明け前、香具山の上にスバルが登ってきた。スバルは白く輝く連星で、清い乙女たちの巫女衣が吊るしてあるかのようではないか。さあ、季節の農事に取りかかろう。


さて、この持統天皇歌は、額田王が成り代わってつくったもの、私見。


1 額田王はその時まで生きていたのか


額田王は、壬申の乱当時、近江朝にいただろう。なぜなら、近江朝の主、大友皇子は額田の義理の息子(父は天智天皇)だから。大友皇子は即位こそしていないが天皇同等の者だ。大友皇子の妃、十市皇女は天武天皇の長女であり、母が額田王なのだ。


壬申の乱で近江朝はもろくも崩壊し、人々は四散した。その前に、天武の絶対的命令が発せられていただろう。


1(最愛の娘)十市皇女を必ず救い出せ。

2(最愛の元妻)額田王を必ず救い出せ。

3 大友皇子は目立たぬところに誘導してなきものとせよ(証拠の首を持ってこい)。


(おまけ)藤原不比等がいるかもしれないけれどいたら保護したらどうかな。


1~3は完璧に実行された。(十市皇女は無残なことに、この6年後に自死あるいは謀殺され、天武天皇は号泣することになるけども)


【写真】高岡城址/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-01-30 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇の和歌、


春過ぎて夏来るらし白栲(しろたえ)の衣干したり天の香具山


実は、私見、この和歌の実作者は、額田王(ぬかたのおおきみ)だと思います。失礼ながら左脳のお方、持統天皇にはこんな隠喩入りの歌はできません。しかし、


1 額田王はその時まで生きていたのか

2 その当時の額田王は天皇の代詠をできるような地位にいたのか

3 持統天皇は柿本人麻呂を寵愛していたはず


などとギモンが束になってやって来るでしょう。


とりあえず、「この和歌だけでなく、斉明天皇、天智天皇、天武天皇になりかわって作歌しているのは額田王です」、と暴論を吐いておきます。


【写真】高岡駅構内/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-29 03:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)
持統天皇の和歌、


春過ぎて夏来るらし白栲(しろたえ)の衣干したり天の香具山


通例、歌の後半の意味は、


「白い衣を干してある天の香具山」


(小倉百人一首では、「衣干すてふ」とし、「衣を干したという天の香具山」と一歩引いている)


さて、天の香具山に洗濯物を干すということがアリエルのでしょうか?


山本健吉先生は、「田植えの前に早乙女の資格を得るため、村の娘たちが物忌みをし、みそぎの斎服を脱いでは乾かしていた」旨説かれています。 しかし、明らかに夏が来たようだ、と明記されているのに、早乙女の準備では季節が合わないのではないか。


吉野裕子先生は、「白栲(しろたえ)の衣は、スバル星のこと」とし、「昴(スバル)は白衣なり」(開元占経)との指摘をあげている。そして、この星(スバル星=プレアデス星団)が天の真上に来る前、7月15日ごろソバをまけば豊作になり・・・農事を促す呪歌である、と解説している。


「白栲(しろたえ)の衣=スバル星」説はとても鋭い。しかし、先生に逆らうようですが、スバル星の位置はそこじゃない。天香山のちょうど上にスバル星が上がっていなけりゃ、歌として美しくないです。それに、せっかく「干してある」としているわけですから、天頂ではない。


種まきもソバじゃなくて、アワ・キビでしょう。


天の香具山は藤原京の東門から、真東に見えます。日の登る前、天の香具山の上に、スバル星が登ってくるのです。その日を7月15日と仮定して、天文盤で真東を見ると ↓ (赤十字線の中心M45がスバル星=プレアデス星団)


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写真】高岡城址にアシリパさんが?/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-01-28 00:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

当時、「私たちは日本人だ」と思っていた人は皆無に近いと思いますが、日本という国号を定め、成文法を公布した。天皇主権と、国土・国民が(国に二君なく、民に二主なし)明らかにされたわけです。


国号=「日本」は、「倭」ではないという意味です、私見、白村江の戦いで、実戦部隊を出した九州連合は、衰退したのです。そこで本来、大陸側からみた北九州連合の呼称である「倭」の自称をやめて、朝廷中心の国は「日本」であると宣言した。


702年の遣唐使が大陸に到着しまして、ここは唐のどこだろう?、ということで地元の役人に聞きました。


遣唐使 ここどこやねん?

中国人 周の楚州塩城県でござる。

遣唐使 わて唐に来たんやで、なんで周なんや?

中国人 則天武后(武則天)いうオバハンが皇帝になって国名変えたでござる。

遣唐使 ご苦労なこって。あてらのとこも持統ってオバハンが孫に譲位はしても太上天皇やとか・・・(あまり言わんとこ)。

中国人 ところでお主は東の海にあるという「大倭国」から来た使者でござろう。

遣唐使 ちゃうで、倭国やない、「日本」やで


ということで、日本側は唐に来たつもりが周に来たことになった。


中国側も混乱し、いろいろ考えた、


1 倭とは別の日本て国があるのか?

2 倭とは別の小さい日本という国があって、日本が倭を併合したのではないか?

3 倭という字を嫌って、日本にしたのではないか?


が、結論は出ずに両論併記にした。


663年の白村江の戦い以来、戦後処理の往来はあったが、平和裏での外交団派遣は久々だった。701年に大宝律令を制定し、いよいよ普通の国になった「日本」だったわけで、則天武后にも会って褒められなどした。


【写真】富山地方鉄道(立山線)SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-27 00:30 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

斉明・持統期は、それまで列島に並列していた実力者が、何故か一人(後の天皇)のもとに集約される傾向が顕著になった。すなわち、天皇のもとへの集権がなぜ起こりえたのか?


以前、


1 水稲栽培の最新技術

2 馬や金属の情報伝播


などを妄想していたのですが、馬産は東国の方が早期に、かつ大規模に行っていたようです。鉄器についても、九州や出雲、吉備に先進性があります。


奈良盆地が、東西を分かつ位置にあるので、西の先進技術を東に伝え、東が優位な馬産などを西に送ることができるなどの優位性はあったかも知れません。


壬申の乱で、大海人(天武)側がいち早く東国の協力を取り付け、西国に対しては近江朝側に協力しないよう工作できたのは、そういうネットワークがあったからではないか。


網野善彦氏は、大和朝廷が最新文化を伝えた力を評価しながら、


「(律令制実現を)本気でやっている。この本気さがどこから出てきたのか、事実は謎だと思う。あまりに本気なので、まわりの人もその本気に引きずり込まれて(笑)」


と述べています。


私見ですが、やはりその本気度は、白村江の戦い以降、レベルが上がったというべきではないでしょうか。


1 負けたにせよ大唐と一戦交えた

2 やはり唐と対抗できるだけの法制、国土整備、文化保存が必要だ


ということは、地方の有力者にも実感されたのではないか。


それから更に妄想ですけど、


1 白村江の戦いの結果、実戦部隊となった九州各地の実力者が衰退した

2 もともと白村江の戦いは、九州勢が推進に積極的だったので、戦後に戦争責任論が出なかった

3 その結果、対外的な代表権はほぼ朝廷に一本化された


【写真】富山地方鉄道(本線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-26 02:16 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

斉明・持統期は、それまで列島に並列していた実力者が、何故か一人(後の天皇)のもとに集約される傾向が顕著になり、持統天皇に至って、


1 「日本」の対外的な国号

2 「天皇」の称号

3 「首都」藤原宮への遷都

4 「律令」の施行

5 「国史」などの編纂開始


が実現したわけです。藤原宮については発掘も遅れていたので、あまり注目されていませんが、規模は平城京、平安京よりも大きいということが近年わかっています。


藤原京は、唐の長安を模した条坊制の街で、大和三山の中央に宮が位置し、条坊は大和三山を含めて広がっています。


【写真】富山地方鉄道(立山線)立山駅/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-25 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

日本の「農業化」と律令制定時期について、心的な面から推移をさぐってみます。「斉明(天智・天武)持統期」としたのは、斉明・持統においてはその政治表現が死の直前まで明快であり、天智・天武においては実質がかなり不明瞭で、しかも蛇尾に終わっているからです。


◾️斉明天皇

理念・政策

・北方領土への強い関心

・半島南部への強い関心

・朝廷への集権化

手法

・戦争

・人事 蘇我支配の打破

主なスタッフ

・天智・天武

・藤原鎌足

・額田王(宮廷歌人)


◾️持統天皇

理念・政策

・国際標準への強い関心

・成文法整備への強い関心

・首都(藤原宮)整備への強い関心

手法

・皇位継承への強いこだわり

・人事 官僚の再編

・旧来の呪的背景ではなく陰陽五行を用いる

主なスタッフ

・藤原不比等

・柿本人麿(宮廷歌人)


【写真】富山地方鉄道(立山線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-24 03:52 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️持統天皇(うののさらら)と去来する人びと


うののさらら(持統天皇)

・誕生(西暦645年)

・父(後の天智天皇) 蘇我入鹿を朝廷で謀殺★(乙巳の変)

・4歳 祖父(母の父) 誣告(冤罪)により自死★

・6歳 母 (吉野浩子曰く)狂死★

 祖母(京極天皇=斉明天皇)に引き取られる

・12歳 叔父(後の天武天皇)と結婚

・14歳 弟(たける) 逝去★

・15歳 祖母(斉明天皇)父(後の天智天皇)夫(後の天武天皇)らとともに九州に向かう  額田王(19~31歳説)も

・16歳 祖母(斉明天皇) 逝去★?

・17歳 長男(後の草壁皇子)出産(筑紫で)

・20歳 姉(おおた) 逝去

・23歳 父(天智天皇) 即位

・23歳 夫(後の天武天皇) 皇太子に

・24歳  藤原鎌足 逝去

・27歳 父(天智天皇) 逝去

・27歳 弟(大友皇子) 自死★ 壬申の乱

・28歳 夫(天武天皇) 即位

・33歳 義娘(十市皇女=父母天武天皇、母は額田王) 逝去★?

・41歳 夫(天武天皇) 逝去

・41歳 甥(大津皇子=母は姉の大田) 刑死★?

・44歳 長男(草壁皇子) 逝去★?

・49歳 藤原宮 遷都

・51歳 退位 太上天皇に

・52歳 孫(文武天皇) 即位

・58歳 逝去


★は、悲惨な死

★?は、謀殺、あるいは研究者によっては謀殺とみるもの


※年齢は年未満を無視した単純計算

※貴族の死亡の表現は位階によって異なるが、すべて現代語としての「逝去」に統一


【写真】富山地方鉄道(立山線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-23 04:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️持統天皇(うののさらら)の皇位


西暦686年 病気がちとなった天武天皇は、「天下のことはことごとく皇后(持統)皇太子(草壁)に報告せよ」と指示した。実質、天皇と同質化した。即位は690年。


西暦697年 持統天皇は孫(文武天皇)に譲位し、自身は太上天皇となる。


西暦703年 崩御


実質、この間の17年、持統天皇は実権を持ち続けた。孫への譲位にあたって、太上天皇というそれまでにない概念を取り入れ、大宝律令で明文化した。


一般的に語られることがある。「持統天皇は息子の皇太子(草壁)の成長・即位までの中継ぎで即位した。しかし、草壁が逝去したため、孫(文武)が一人前になるまで頑張って天皇を続けた。息子、孫への深い愛情のためだ」という解説だ。


この「愛情説」には、どうも納得できなかった。少なくとも壬申の乱あたりから、持統天皇は天皇位と、天皇への中央集権に強いこだわりを持っている。吉野浩子先生は著書「持統天皇」の中で、白昼夢と断りながら、草壁(皇太子)の死は、母・持統(後の天皇)による毒殺と想像している。


【写真】富山地方鉄道(立山線)/SONY DSC-RX0

私は鉄道ファンではありませんが、勢いで。


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by kugayama2005 | 2019-01-22 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005