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運河や岩石庭園の公共工事


斉明天皇の時代で有名なのは、運河や岩石庭園をつくらせ、造成の負担が厳しいので人はそれを「狂心(たぶれこころ)の渠(みぞ)」と罵倒したのでした。


狂心とは、戯心という意味、という解釈もあるが、原文は「時人謗曰、狂心渠」。そしっていわく、狂心渠。


一方、今で言う古墳の造成を、万民の苦労が大きいとして廃止している。


斉明天皇、62歳、難波宮の実験都市が首尾上々で、帝位も取り戻し、ご機嫌だったに違いない。


運河を掘って、船を浮かべたのである。山の岩石を運んで、岩石庭園をつくったのである。明日香で発掘された酒船石遺跡が、それだという説もある。


斉明天皇がご機嫌だったのには、理由がある、という私説、それは朝廷の財政が飛躍的に充実したからではないか。上毛野から西国まで課税した場合、どのくらいの歳入があるか。いずれにしても、それは前代未聞のことだったに違いない。


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おろ?

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by kugayama2005 | 2019-02-28 01:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

2 弟・孝徳天皇の難波宮から脱出


孝徳天皇は在位9年間、京極天皇は退位しても権力者であり、その脇を息子2人、すなわち(後の)天智・天武が固めている。皇后は、間人皇女(はしひとの ひめみこ)で、彼女は天智の妹、天武の姉。


孝徳天皇は、姉・退位皇極によって、がんじがらめにされている。


さて、孝徳天皇、在位8年目。京極=斉明が、子どもたちを連れて、難波宮を脱出するという事態が起こる。その際、皇后の間人皇女が、兄で皇太子の中大兄皇子(後の天智天皇)と一緒に脱出したことで、この兄と妹は怪しい(実質的に夫婦だった)のではないか、という。古代でも同腹の兄妹の結婚状態は、タブーだ。


吉野裕子先生は、「オナリ神だった」と推察されている。オナリ神とは、妹が兄の守護神となること。とはいえ、当時、皇后が天皇をすてて、皇太子の兄とともに逃げるというのは、大スキャンダルだったろう。


このころ、弟・(後の)天武も、最愛の額田王に出会って、事実婚状態になった。


孝徳天皇は、官僚も引き抜かれて自失状態になり、一時代が終わった。


この時期、「思想としての」律令制を明示し、各有力者の総論賛成を得たのだろう。藤原鎌足も召かれて難波朝に参画している。


難波宮は、実験都市として成功した。大王たるものの理想像、国ぐにを統べる理念も思うままに展開してみた。官僚たちの研さんも実ったので、あっさりと孝徳天皇もろとも廃都となった。


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ふんふんふん

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by kugayama2005 | 2019-02-27 02:34 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

1 蘇我入鹿を宮中で謀殺(翌日に譲位)


私説、

蘇我氏排除は、京極天皇が指示し、中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足が立案。


蘇我入鹿の自邸は要塞化していて、攻撃は難しかったから、入鹿ひとりになる朝廷内での謀殺案が採用された。


蘇我入鹿は、朝廷を無視していたので、呼び出す工夫として、外国使節の接遇という虚偽の日程が作られた。


シナリオは藤原鎌足、実行は中大兄皇子(天智天皇)だが、このようなことを京極天皇の指示なしにできるわけがない。


聖徳太子没後、20数年という蘇我氏の専横時代は、あっけなく終わった。


京極天皇は、さすがに目前で蘇我入鹿が斬殺されたので衝撃もあったろうし、蘇我系の逆襲もありえたろう。翌日、弟に譲位し、中大兄皇子(天智天皇)を皇太子とした。


その機会に温められていた大化改新を、弟・孝徳天皇に推し進めさせて、天皇中心の律令国家建設への道が、現実のものとなった。天皇より古い有力者が、討伐された結果だ。


この時、右大臣に登用されたのが、うののさらら(持統天皇)の祖父、蘇我倉山田石川麻呂で、石川麻呂も早晩、謀殺され、うのの母は悶死することになる。母の死によって、うのと姉弟は、京極=斉明に引き取られ、育てられる。


乙巳の変が、頓挫していたらどうなったろうか。蘇我氏が、行政や軍事を独占し、幕府的存在になったかもしれない。もともと蘇我系から天皇を輩出していたわけだから、聖俗一体となった政府ができたかもしれない。


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by kugayama2005 | 2019-02-26 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

京極=斉明天皇は、宝女王(たからの ひめみこ)という。舒明天皇の皇后だったが、それ以前に一度結婚して子どももいたという、ふしぎな来歴の持ち主。


最初の夫、高向王は、百済からの亡命貴族系ではないかという説もある。後のことになるが、斉明天皇が、百済救済を強く推進したのは、何か確信があってのことだろう。


天皇より古い先住民の実力者を嫌い、亡命渡来系の貴族を好んだようにも感じる。


京極=斉明天皇こそは、古代という時代を引きずり下ろした最初の人となった。京極即位は48歳、(5年間孝謙に譲位し)斉明即位は61歳。


1 蘇我入鹿を宮中で謀殺 51歳(翌日に譲位)

2 弟・孝徳天皇の難波宮から脱出 59歳

3 運河や岩石庭園の公共工事 62歳

4 北方へ繰り返し軍事行動 60歳代

5 百済復興への軍事行動 66歳


その女帝の基本指針は、


1 蘇我支配を破却し、権力・財源を確保

2 日本国の版図にこだわり

3 計画したら即実行


何か、古代の織田信長のようですが。


反面、


1 法や史書の整備には興味なし

2 上手くいかなければ放り出す


というような感もあります。これらを全てやらされた長男・中大兄皇子(天智天皇)は大変だったと思います。


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by kugayama2005 | 2019-02-25 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は、何かモダーンな感じがする。彼が下級官僚で、現実を知っていたからだろう。律令が、古代を打ちのめしていく感覚、それは一種、モダニズムだ。


再度引用するけど、


「人麻呂的なものから、憶良、旅人的な転換が、この時期(西暦701年~724年)に用意されている。それは『万葉』のなかでは一見きわめて自然な展開のように受け止められているようだが、この二十数年の歴史的意味について、なお慎重に検討する必要がある」(白川静著「初期万葉論」)


と、白川先生は書かれているけれど、645年の乙巳の変(蘇我入鹿を宮中で謀殺)から、古代的なものが崩落していった、その末尾が724年(柿本人麻呂の死)ではないかと思う。


さて、持統期についてが長くなったので、時代を少しさかのぼって斉明(=皇極)に移りたい。


何度も書いたけれど、うののさらら(後の持統天皇)の人格形成を決定づけたのが、祖母・斉明(=皇極)天皇だ。


そして、私の目には、天智天皇は、母(斉明=皇極天皇)に引きずり回された、気の毒な息子に見えるのだが。


弟・天武天皇は、一歩さがってなんとか距離を保てた。うののさららも、姉と弟に祖母の愛が集中したので、ある程度、客観的に見ることができた。


天武+持統が、困難な時代を貫き通せたのも、斉明=皇極天皇の強烈なカリスマに耐えながら、その実態を冷静に見ていたからだと思う。


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by kugayama2005 | 2019-02-24 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

モーツァルトが額田王であれば、ヴェートーベンが柿本人麻呂という気がしてきました。


モーツァルトはザルツブルクというヨーロッパの辺境で、しかも新教徒追放の後、極端に人口が減った時期に生まれている。中世そのものに逆戻りしたような街ではなかったか。後半生に過ごしたウィーンは、産業革命以前のここもまた、中世が生きていたろう。


そして、ヴェートーベンの時代は、神聖ローマ帝国がもがき苦しんで消滅していく、まさにその時なのだ。


モーツァルト 1756-1791(35歳)

ベートーヴェン 1770-1827(56歳)


ベートーヴェンが、モーツァルトを訪ねてウィーンに行ったのは16歳の時で、この二人の人生は少し重なっている。


63??-69?? 額田王(推定64歳以上)

660-724 柿本人麻呂(64歳)


この二人も時代が少し重なっている。


モーツァルトと額田王の時代は末期というか、次に始まる急激な変化の予兆の時代。一方、ベートーヴェンと柿本人麻呂の時代は、変化の時代といえるかもしれない。


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by kugayama2005 | 2019-02-23 00:52 | 2019日記 | Comments(0)

安騎野の冬猟、柿本人麻呂の長歌と短歌(反歌)を中心に考えてきたけれど、一般的な解釈と、私訳では180度違う。


それは、草壁皇子がどのように亡くなったか、という根本に相違があるからだ。いや、それ以前に、持統天皇が息子・草壁皇子をどう評価していたかという点にある。


一般的には、持統天皇は、夫・天武天皇から継承した皇位を、息子(草壁皇子)へ、そして孫(軽皇子)へ、と継承することに愛をそそぎ、彼らが成長するまで皇位を預かった、というニュアンスで解釈しているが、私にはそうは思えない。


持統天皇は、あくまでも自分の手で、律令国家をつくろうとしている。そのために、藤原宮という今までとはまったく違う、恒久的な中央集権の都を、天武天皇とともに造営した。


その都で、統一国家日本の律令政治を推進するのは、天武・持統級の政治力が不可欠なのだ。


息子(草壁皇子)や孫(軽皇子)にその力があるのか?


近江朝とともに命を絶たれた、大友皇子のような、貴人としての豊かな才覚や、容姿。その近江朝をねじ伏せた、高市皇子のような豪胆にして緻密な、膂力と精神。そういうものが、息子(草壁皇子)や孫(軽皇子)にあるのか?


天武にとって兄の子である大友皇子は、持統にとっては父の子である。しかし、近江朝とともに躊躇なく滅ぼした。だが、柿本人麻呂をはじめとして、多く近江をいたむ歌が残っているのは、持統の心情でもあろう。


高市皇子には、考えられる最高の評価・待遇を、持統は与えている。しかし、自分の産んだ子ではない。自身の子・草壁皇子を退けてしまった以上、残るのは、その草壁の子、軽皇子しかいなくなった。これはあくまで私的妄想だが、持統は少年期の軽皇子を観察し続けて、後継者としての魅力を感じられなかった。


軽皇子への継承を強く期待したのは、むしろ藤原不比等や物部麻呂だろう。そういう官僚たちの企図と、持統天皇の心情を知る柿本人麻呂が、苦渋のうちにつくったのが、安騎野の冬猟の歌だ。


つまり、持統天皇によって軽皇子が拒否される可能性がある状況下で、人麻呂は、天武天皇の霊が(草壁皇子を経ずに)直接、軽皇子に合一することを希求した。実はそれは、持統天皇から示唆されたことでもある、しかし、人麻呂としては結論を出せるわけもなく、「時は来向ふ」としか結びようがなかった。


おそらく、安騎野の冬猟の歌の真意を解したのは、持統天皇、藤原不比等らだけだった。この歌の意味は、持統天皇に対して、「あなたが決めなければ決まりません」と言ったのだろう。


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by kugayama2005 | 2019-02-22 01:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

安騎野の冬猟、柿本人麻呂の長歌につけられた短歌四つのうち、最後のもの。


◾️短歌(反歌)

日並皇子(ひなみしのみこ)の命(みこと)の馬並(な)めて御狩(みかり)立たしし時は来向ふ


これで終わっている。前夜、眠れぬままに先祖の霊を念じ、明け方に狩の支度がととのう。亡くなった草壁皇子の霊が騎乗する馬と、馬を並べ、軽皇子(後の文武天皇)が狩に発たれる時が来たのだ。


人麻呂は狩には参加せず(参加する資格がない?)、宿営地にとどまったのだろう。この狩は、軽皇子(後の文武天皇)が将来の天皇にふさわしいかどうか、見極めるためのものとして、持統天皇が企画したものだ。冬至の祭事であるとともに、狩は軍事訓練でもあり、不測の事態が起こらなければいいが、と人麻呂の心は陰る。


以下、安騎野の冬猟、柿本人麻呂について私訳を再掲。


◾️長歌

やすみしし 我ご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷かす 宮(みやこ)を置きて 隠口(こもりく)の 泊瀬(はつせ)の山は 真木立つ 荒き山道を 石(いわ)が根 禁樹(さへき)おしなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕さり来れば み雪降る 阿騎の大野に 旗すすき 小竹(しの)をおしなべ 草枕 旅宿りせす 古(いにしへ)思ひて


【私訳】長歌

国ぐにを平定するわが大君は、空高くかがやく太陽の御子、まさに神であり、神々の系譜に並ばれ、これまでになかった壮麗な藤原宮をつくられた。


その藤原宮を後にして、山々の重なる間の泊瀬にさしかかると、杉の大木がそそりたっている。荒々しい山道を、巨岩がふさぎ、樹木がさえぎり、それらを押しやって進む。


朝には峠を鳥が越えていった、何かの予兆だろう。薄暮の夕には、雪が降りかかる、それも何かの暗示だろうか。


阿騎の大野に、すすきや笹を押し倒して、草枕とする。そのように旅泊まりされた、いにしえの大君を思いつつ、われわれも夜を迎えるのだ。


◾️短歌(反歌)

東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


【私訳】短歌(反歌)

未明の東の野に、登りくる日の兆しが見えている。これは軽皇子(後の文武天皇)の近未来を暗示している印だが、それが如何なものなのか、わかる力がいまの私にはない。返り見ると、薄い氷盤のような月が、傾いて西の漆黒に堕ちようとしている。これは、不幸な死を甘受した草壁皇子の姿だが、母の慈愛によりふたたび新たなより賢い生を受けるだろう。


※「安騎野」「阿騎野」の表記違いは白川静先生の真似。


【写真】富山地方鉄道(立山線)立山駅/SONY DSC-RX0

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by kugayama2005 | 2019-02-21 02:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

初期万葉集について今回気づいたこと。柿本人麻呂の冬狩の歌について。


「吉野ー安騎野(宇陀)ー熊野(伊勢)」というラインが強く意識されている。


以前ふれたように、天武・持統が近江朝を打ち倒すために向かった道だ。吉野や安騎野(宇陀)から見て、太陽の登る方向に、熊野や伊勢がある。


そしてこのラインは、神武の東方進出の最後に、熊野からやっとヤマトの地にたどり着いた道筋でもある。


ところで、徐福伝説も同じように、熊野に逢着している。(不老不死の霊薬を求めて大陸より渡海し、平原広沢がある場所に定住して王となった。平原江沢と言うからには、もし紀伊半島であれば海岸線ではなく内陸部だろう)


つまり、伝説が事実であるかどうかは別として、西方から航海してくる「異邦人」が日本列島に取り付く、一つのパターンなのだ。


神武の東方進出は、過去に日向の地にたどり着いた者たちが、さらに先住民の合間に点在する同族を求めて、東へ航海する物語ではないか。「長髄彦」は、最も東の平原広沢に進出していた同族だと思う、妄想。


柿本人麻呂は、当時収集が進められていた、古事記や日本書紀の原史料を、見ていた。持統天皇との親密な関係からして、当然だろう。


史料をひもとけば、ヤマトの地にとって、天皇一族が「異邦人」であることは一目瞭然で、もし天孫降臨を接ぎ木した神話と解すれば、いったいどこから来た人たちなのか?、という不都合な問題に行き当たる。


持統天皇、藤原不比等、柿本人麻呂は情報を共有していた。持統崩御後、人麻呂が排除されたのも、低位の官僚にしては知りすぎた男だったからだろう。


【写真】富山地方鉄道(立山線)立山駅/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-02-20 02:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

初期万葉集について今回気づいたこと。


言葉に二重、三重の意味があり、事実を知らない人にはそれがわからない。あるいは、ある言葉が次のどこに掛かっていくのか、晦渋化してある箇所には秘密が隠されている。その点、呪術的、つまり政治的という感がある。


例えば、安騎野の長歌でも、冒頭に現れる「我ご大君」をふつうは軽皇子と解釈しているようだが、全体を読めば天武天皇のことではないかと思われる、等。


さらに理解が危うくなる要因は、私たちが初期万葉集に接する時、本を読むわけだが、そこに書いてある歌はもともとは書かれたものではないということにある。読むものではなく聴くものなのだ。


特に初期万葉については、鎮魂のための歌は、本来、舞踏をともなうものであり、「うた」とは言わず「ふり」というべきものだ、と折口信夫は指摘している。


また、初期万葉が採録されたのは奈良朝に入ってからのことであり、編集者の付けた「序」と歌の内容に矛盾があるものが半数以上、とも言う。


西暦612年、百済人の「みまし」が、呉の国で伎楽を学んできたので、「桜井に子どもを集めてそれを習わせた」という。桜井、すなわち泊瀬の周辺だが、そこにはおそらく、舞踏を伝習する施設があったのだろう。


初期万葉や古事記については、国文学的アプローチではなかなか真相に迫れない。


おそらく、「大君」から「天皇」へ、「やまと」から「日本」へ、「呪術」から「律令」へ、という変化は、ニンゲンの脳の変化を伴った、という当初のテーマに戻る。その背景は、農業化と集権化。


【写真】富山地方鉄道(立山線)立山駅/SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-02-19 01:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005