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◾️神武東征がなぜ「帰還」なのか? 3


吉備国に到着


前年の10月、日向を出発した一行は、翌年3月、高島宮という仮宮に入る。現在、岡山市の高島宮、笠岡市沖の高島の高島宮などが、その地の候補となっているらしい。


九州から流離してきた貴種が逗留するには、まず島が適しているだろう。陸上の狭い場所に拠点を設ければ、包囲される危険が常にある。


しかし、島にこもっていては、将来の東進計画を進めることが難しい。大勢力の吉備の理解を得ることが必須なのだ。


ここは妄想で言えば、神武天皇は島の宮にいて、重臣を折衝のため派遣した。


日向を出て合流した水先案内人、宇佐神宮の姫など、同行者については、塩土爺のような長老がすでに話を決めていたに違いない。吉備実力者にも、話が通っていなければ、出発から数ヶ月で吉備に逗留するまでにはならない。


前年の10月、日向を出て、翌年3月、高島宮の仮宮に入るということは、出発時にはすでに仮宮の建築が決まっていたのだろう。


日向の塩土爺、水先案内人、宇佐神宮の神官、吉備実力者は、すべて繋がっており、一言で乱暴に言えば「物部氏繋がり」だ。


吉備での準備


日向から吉備(岡山)まで来た神武一行は、吉備の高島仮宮に3年逗留する。日向の長老、塩土爺の善隣友好網も、ここで途切れた?


吉備も、諸般の事情で忙しかったに違いない。出雲との関係、畿内との関係はうまく均衡を保っておきたい。神武一行のために、パワーバランスを崩したくない。


3年間かけて、神武一行は兵、武器、兵糧を整えた。おそらく、九州からの離脱組を待った。大勢力になるのは難しい。


同時に、北九州で初歩を学んだ鉄製品について、吉備では多くの知見を得た。海人のネットワークに続き、鉄のネットワークに接したとすれば大きな収穫だ。


というより、鉄の知見を充実させるのも、吉備逗留の目的だったのではないか。神武東征(実は帰還)の時期を西暦250年(根拠なし)とすれば、鉄加工技術はすでに、北九州や吉備にはあった。


塩土爺は、出雲系の出自(「しおつち」を「しおつつ」と訛っていることに無理に根拠を置く)で、鉄加工技術について知っていたと推察する。


ヒッタイト辺りで発生したとされる鉄文化は、インドを経て中国へ伝わる。中国の戦国時代に大規模な戦闘が起こるのも、鉄器があってこそだろう。従って、製鉄は厳しく管理されていた。半島から列島へ鉄が伝わる(秦人によるという記録がある)のは、その後であり、独自に製鉄が可能になるのは更に後のこと。したがって、西暦250年頃の列島では、半島から入手した鉄材を加工するにとどまっていたらしい。しかし、北九州、出雲、吉備の鉄先進国では、製銅を参考に製鉄も研究されていただろう。


【写真】春のミサゴン劇場  急降下

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by kugayama2005 | 2019-03-31 00:11 | Trackback | Comments(0)

◾️神武東征がなぜ「帰還」なのか?


神武東征(実は帰還)の出発


1 長老・塩土翁(しおつつのおじ)が言う。「東に良い土地がある。この国の中心地である」


つまり彼らは、日本列島の中心は畿内だ、という地理感を持っていた。それだけではなく、人的な往来もあったはずだ。


2 日向から船出し漁人に案内を乞う


陸伝いに船を進め、臼杵あたりで水先案内人の海人を乗船させる。そこで合流する予定だったのだろう。「山彦」の孫たる「彦ほほでみ」一行には、海路は難しいのだ。


宇佐で宇佐津姫をメンバーにして、その夫にした人物が中臣氏の先祖だという。後の藤原鎌足は中臣氏といわれている。宇佐には今、宇佐神宮があり、全国の八幡神社の総本社だ。


八幡=八波多(八重の海)と解すれば、元は海神だろう。航海の安全を祈願しつつ、海人に「顔のきく」有力な同行者を乗船させた。「宇佐の姫が乗船している」というだけで、誰も手出しはできなかった。実際に宇佐姫が乗っていたかというと違うかもしれないが、宇佐姫の新夫はいた。


【写真】春のミサゴン劇場  急降下

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


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by kugayama2005 | 2019-03-30 01:37 | Trackback | Comments(0)

◾️神武東征がなぜ「帰還」なのか?


私は、神武天皇の祖先が日向に到達し、その地を放棄するまでの間は、長くなかったと推察する。例えば100年くらい。


畿内ヤマト建国後、高千穂など天孫降臨に関係あるとされる地に対して、あまり関心が払われていないのが不思議だ。日本書紀編さん前に存在した、ばらばらで不確かな口承に対しては、それほど共感を持ちえなかったのではないか。


つまり、神話発生の具体的な土地、日向についての執着が、希薄なのだ。


それに反して、吉野、宇陀、伊勢一帯の地の高度な神聖化がある。それらの地は、神武帰還後の、真の神話性の揺籃場所なのだろう。


おそらく、神武天皇以前の畿内不在期間を、神代の説話で埋め、神性の根拠を求めた。


【写真】春のミサゴン劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-29 01:22 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️神武天皇はなぜ「ほほでみ」なのか? 2


神武天皇の祖父、山幸である「彦ほほでみ」。「海幸山幸」の神話でいえば、山岳の狩猟者である山幸が、意地の悪い兄の海幸を服従させたことになっている。


弟が善であり、兄が悪いという考えは、日本神話に多く登場する。これは、女系家族と末子相続に関係するのかもしれない。


それはともかくとして、神武天皇の系譜は、山岳派ということになる。海は苦手なのだ。


北方の北九州には各国がひしめき、南方の熊襲は断続的に攻撃をしかけてくる。阿蘇山も噴火して、畑地の耕作は困難になる。


神武東征(実は帰還)の背景だ。


神武天皇らは、九州ヤマト国(つまり邪馬台国)との同盟、あるいは連邦によって、当時北方から流入する新知見を得ていたに違いない。例えば、製鉄。しかし、どうも戦争は苦手だったようだし、戦争に不可欠な人口や兵糧にも欠けていた。


【写真】春のミサゴン劇場

 EOS 5DS R/EF400mm F5.6L USM


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by kugayama2005 | 2019-03-28 01:50 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️神武天皇はなぜ「ほほでみ」なのか?


神武天皇の実名は、「ひこほほでみ」(彦火火出見)という。


「海幸山幸」神話の弟、山幸もまったく同名の「ひこほほでみ」であり、山幸である「ひこほほでみ」は、神武である「ひこほほでみ」の祖父ということになる。変わった名前が合致するため、山幸と神武を同一人物とする考えもあるらしい。


◯◯彦ではなく、あえて彦◯◯というのはなぜか。「彦火火出見」と「姫火火出見」がセットのような気もするが。


さらに、神武の祖父の「ひこほほでみ」の母は、「このはなさくやひめ」で、「浅間」の神だ。


「浅間」は「あさま」と読み、浅間神社の主な所在地は、富士山周辺。その北東方向には、浅間山もある。


富士山、浅間山ともに、活火山であり、阿蘇山も同様。つまり、曽祖母このはなさくやひめ始め、強い山岳信仰の系統といえる。


「ほほでみ」(火火出見)は阿蘇山の噴火をイメージしている(のか?)


【写真】春のほけきょこ劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-27 00:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

この妄想の骨子を、最初に書いておきます。


1 初代天皇とされている「ほほでみ」(神武)は、卑弥呼と同時代人。

2 「卑弥呼の平和」が破られた時、「ほほでみ」は、畿内ヤマトへ帰還。


その時期は、西暦250年ころ。


その後、ポスト神武から仁徳の15天皇の時代は、約150年間(西暦400年までの間)


さらにその後の歴史は、ほぼ日本書紀にある通り。


【写真】春のジョビたん劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-26 02:08 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️大陸の大帝国に対応して、統一した日本国をつくらなければならない、という構想を支援したのは「海の人」---という妄想


史実であるか史実でないかは、私には関係ありません。そういう記述がされたということだけを頼りに、神武天皇の東方行について考えます。


◾️神武天皇

・脱九州(北九州各国の騒乱、南からの熊襲の攻撃を忌避)

・船で日向を出てさっそく漁人に案内を求める(詳しい海路の知識がなかった)

・吉備に逗留すること3年(目的についての戦略は固まっておらず、兵も武器もそろっていなかった)

・河内湾から上陸するもナガスネヒコ(長髄彦)に撃退される(太陽を背負った高地の敵を、低地から攻撃するという初歩的な戦術破綻)-兄ひとり戦死

・紀伊半島を回り込んで熊野に上陸(残された可能性にかけた)-兄ふたり遭難死

・八咫烏(3本脚のカラス)に助けられて紀伊半島縦断(なんとか到達)


日本書紀や古事記になんとなく好感がもてるのは、都合の悪いこともちゃんと書いてあるからです。


【写真】春のヒヨたん劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-25 01:22 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

この時期、すなわち斉明(天智・天武)持統期に、日本国という概念をまがりなりにも実体化しなかった場合、


◾️相当後まで、統一国家は出現しなかった可能性がある


ということについてです。統一国家が良いかどうかは別の問題として。


やはり、隋から唐という大帝国が大陸に出現し、グローバリズムの波が列島に到達したのでしょう。情報の波であり、経済の波及です。そして端的な痛みとしての軍事です。


白村江の戦いで、日本の数多い水軍が、唐の大船に完敗しました。唐・新羅の連合軍が、そのままの勢いで北九州から瀬戸内海に突入してくれば、おそらく防ぎようがなかったのです。


百済再興にかけた斉明天皇が筑紫の地で崩御して以降、ふたりの息子、すなわち天智・天武、実務者としての藤原鎌足の苦悩は大きかったと思います。


大陸の大帝国に対応して、統一した日本国をつくらなければならない、という構想を支援したのは誰か?


結論から私の妄想を申し上げると、それは「海の人」。


【写真】春のメジロン劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-24 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

斉明(天智・天武)持統期に至るまでのしてき妄想」というのは、私的には「天皇ファミリーはなぜ先住者に支持されるに至ったのか」という意味です。


すこし振り返ってみます。


1 大陸系の新知見

◾️行政制度(令)

◾️刑法体系(律)

◾️養蚕・絹織物

◾️本草体系(薬理)

◾️金銀などの貴金属


◾️仏教


2 大陸系の旧知見

◾️水田稲作

◾️製銅・製鉄

◾️麻織物

◾️馬産


◾️道教  陰陽五行

◾️文字文化


これらは、在来の知見(◾️呪術など)

の基礎の上に逐次導入された。「1 大陸系の新知見」を大規模に追求したのが、斉明(天智・天武)持統期だったと妄想するのだ。


そのことは、藤原氏(中臣氏)の拡大、大伴氏や物部氏の後退、葛城氏の消滅にもつながっている。


この時期を「斉明期の始まり655~持統期の終わり703」とし、遡って、さて、天皇ファミリーが畿内ヤマトの地に現れたのは何時なのか?


ひとつの目印になるのが、「箸墓古墳」(奈良県桜井市)の存在だろう。箸墓古墳の造営を西暦250年と仮定すると、日本書紀の記述をそのまま当てはめれば、神功皇后の時代になる。そのことには何も意味はないが、日本書紀の時空間のねじまげを縫って、示唆されるものがある、と妄想する。


天皇ファミリーが、奈良盆地の南方向に受け入れられた時期を、強引に西暦250年と妄想する。持統期の大宝律令制定(西暦701年)を、天皇による中央集権政治の第1歩とすると、その間は450年だ。


【写真】春のメジロン劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-23 02:47 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️斉明期の始まり655年~持統期の終わり703


前史1:

・聖徳太子に象徴される

    →大陸法の導入

    →仏教の導入

・それ以前の大君(天皇)は、諸王と並立


前史2:

・大化改新に象徴される

    →律令制思想(国号=日本、国家元首=天皇、経済=米本位→天皇を唯一の王とする中央集権)


「聖徳太子」「大化改新」は時代思想の象徴であり、制度的実態ではない。


【写真】春のメジロン劇場

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by kugayama2005 | 2019-03-22 00:35 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005