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◾️アマテラス系の聖権(オオキミ)と、スサノオ系の俗権(幕府)がせめぎ合い、分離して、スサノオ系の俗権が政府を形成しつつあった。という妄想。


というなかで、一族の討伐事件が連続した。乙巳の変(蘇我入鹿を謀殺)、蘇我倉山田石川麻呂の謀殺で最終的に、オオキミが王政復古を果たした。


それを「大化改新」と呼ぶのだろう。


大化改新がそれまでの支配と異なるのは、「法の支配を纏った」という点だ。


【写真】NIKKOR-H・C 5cm F2/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


  皆さんお待ちかねのライカLのニッコールです。え?誰も待ってない?


【写真】NIKKOR-H・C 5cm F2/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


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by kugayama2005 | 2019-05-31 04:44 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️「蘇我幕府の時代」という妄想が気に入った。


この時期、初の「日本統一」は、「蘇我幕府」によってもしかしたら実現したのかもしれない、というところまで行った。入鹿に、そこまでの構想があったかどうかは疑問だけれど。


「藤原家伝」にも「王室衰微(ミカド衰え)マツリゴトは君(天皇)によって行われない」という一節があるらしい。


もともと、聖権力と俗権力は分離するものだ。アマテラス系の聖権と、スサノオ系の俗権がせめぎ合い、分離して、スサノオ系の俗権が政府を形成しつつあった。


【写真】NIKKOR-H・C 5cm F2/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


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by kugayama2005 | 2019-05-30 03:53 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️蘇我入鹿が父(蝦夷)に代わって権力の中心になった時代

  ・群臣は朝廷ではなく蘇我邸に出仕

  ・おそらく税収等も蘇我氏に流れる

  ・「蘇我幕府」と言っても良いだろう

  ・実質、蘇我氏が行政、司法、外交を掌握

  ・外国使節の受け入れなど儀典はオオキミが遂行


  後の世、武家政権下では、以上のようなことは珍しくない。


【写真】LOMO TRIPLET-43 4/40 SMENA/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


  皆さんお待ちかねの露玉・ロモ=スメナです。え?、誰も待ってない?


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by kugayama2005 | 2019-05-29 00:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

日本書紀はかなり客観的に書いているとはいえ、当事者が関わっている時代は、微妙なものがあります。


蘇我倉山田石川麻呂(そがの くらやまだ いしかわまろ)については、特にその感があります。持統天皇の母の父であり、その自死によって家族も道連れになった。持統天皇の母も悶死して、幼い子どもたちは皇極天皇(父の母)に引き取られた。


それが同時代だったわけです。日本書紀では、石川麻呂がいかに「中大兄と鎌足の政略に利用されたか」について述べています。が、


乙巳の変(蘇我入鹿謀殺)が、蘇我入鹿と蘇我倉山田石川麻呂の、蘇我氏内の対立事件だとすると、なるほどそれらしき結果もあります。


乙巳の変(蘇我入鹿謀殺)後の石川麻呂の地位  ◾️右大臣に昇格


  乙巳の変(蘇我入鹿謀殺)後の石川麻呂の財  ◾️蘇我宗家の財を統合


しかし、その後、石川麻呂は謀略により自死。財産は、オオキミ(天皇)側に没収された。


要するに、蘇我倉山田石川麻呂に蘇我氏掌握の野望があったとして、その野望を育てつつ、最終的にまとめて収奪したのはオオキミ側(孝謙天皇・皇太子中大兄・鎌足/背景に皇極天皇)なのだが。


【写真】LOMO TRIPLET-43 4/40 SMENA/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


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by kugayama2005 | 2019-05-28 00:23 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

「日本古代の王権と王統」(篠川賢)による主旨は、「乙巳の変」(蘇我入鹿謀殺)は蘇我氏内の争い、という基調にそっている。


私妄もまた、この時期のオオキミ(天皇)家は、女系でみれば蘇我そのものなのだから、「乙巳の変」は、あっちの蘇我がこっちの蘇我に変わった、という視点はあった。が、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)がこっちの主体とまでは考えていなかった。


なぜなら、日本書紀では、蘇我倉山田石川麻呂は悪意なき人物で、冤罪のために死んだ気の毒な人、というニュアンスなのだ。日本書紀の編さんが始まった持統天皇とその次の世代に、石川麻呂を思慕する強い気持ちがあるのは当然(石川麻呂は持統天皇の祖父)。


【写真】LOMO TRIPLET-43 4/40 SMENA/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


皆さんお待ちかねの露玉・ロモ=スメナです。え?、誰も待ってない?


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by kugayama2005 | 2019-05-27 04:55 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

一般的に、乙巳の変と大化改新は、中大兄(後の天智天皇)と、それを補佐する鎌足(後の藤原)の「作品」だとされている。


しかし、私妄では、そうではなく


プロデューサー=皇極天皇(後の斉明天皇)

  ディレクター=中臣(藤原)鎌足

  主演=中大兄(後の天智天皇)


と考えたのだ。


ところが、「日本古代の王権と王統」(篠川 賢)を拝読すると、「孝徳天皇と蘇我倉山田石川麻呂(そがの くらやまだ いしかわまろ)」が主体のひとりと書かれていたので動揺。


【写真】LOMO TRIPLET-43 4/40 SMENA/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


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by kugayama2005 | 2019-05-26 01:27 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

「乙巳の変」を再検証すると言ってもね。読むものは日本書紀しかないけれど。


さて、日本書紀を編さんする場合、「蘇我氏をどう表現するか」、というのは困難な仕事だったろう。


なぜなら、持統天皇(うののさらら)の祖父が蘇我倉山田石川麻呂(そがの くらやまだ いしかわまろ)だから、そして、その石川麻呂は孝徳天皇と皇太子(中大兄=後の天智天皇)に謀反の濡れ衣を着せられ、一族もろとも滅ぼされた、という経緯がある。


持統天皇以降の天皇も(少なくとも元正天皇くらいまでは)、蘇我倉山田石川麻呂の強い血脈であるから、正史である日本書紀に石川麻呂をどう表現するか、だ。


◾️乙巳(いっし)の変(945年)


【写真】LOMO TRIPLET-43 4/40 SMENA/初夏の花ばな/OLYMPUS OM-D E-M1


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by kugayama2005 | 2019-05-25 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

推古(天皇)聖徳太子(皇太子・摂政)の時代、国際標準を手に入れようという熱意は、天皇(オオキミ)というものの不安定さと裏腹だと思う。


天皇が安定的な地位となったのは、例えば、蘇我氏との組み合わせにおいて、うまく行っている時。あるいは、後には藤原氏との組み合わせにおいて。


さらに、律令制を輸入して、安定的なガバナンスと税収を得た。各実力者を人脈的に補佐する部民を解体し、国家官僚にあてはめた。


◾️聖徳太子の生誕(574年)から

◾️持統期の終わり(703年)まで


130年で出来上がった体制は、天皇・蘇我体制といってもいい。


さてそこで、再び時代を進めて、乙巳の変(蘇我入鹿忙殺)まで行ってみたい。


【写真】SUMMILUX 1:1.4/50 LEIZ WETZLAR/春の花ばな/OLYMPUS PEN-F

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by kugayama2005 | 2019-05-24 00:03 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

聖徳太子(ウマヤトのトヨトミミ)の17条憲法をやたら讃えるヒトがいるが、どうだろうか。


「以和爲貴」とは、平和主義を言っているわけではない。あくまで、天皇の言うことを聞けということだ。


何しろ、言うことを聞かない群臣だったのだ。言うことを聞かないだけではなく、極端な場合、蘇我馬子は崇峻天皇を暗殺している。


さらに、仏教は万国の世界宗教だとして、推古天皇に「勝鬘経」を講じている。勝鬘とはインドのある王女で、彼女の仏法への帰依が熱烈に語られている経典だ。仏教をして、天皇をコントロールしようという意図が感じられる。


さて、そもそも日本人に、ブッダの自己省察と悟りは理解されたのだろうか。


【写真】SUMMILUX 1:1.4/50 LEIZ WETZLAR/春の花ばな/OLYMPUS PEN-F

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by kugayama2005 | 2019-05-23 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

大陸に、隋〜唐の巨大帝国ができた。推古(天皇)聖徳太子(皇太子・摂政)の時期、その影響はただちに顕在化した。帝国の論理が、波頭を越えて打ち寄せた。


それらは、唐が衰微し、日本では平安朝の貴族文化が開花するまで続いた。


その間は、おおよそ、


◾️聖徳太子の生誕(574年)から

◾️菅原道真の逝去(903年)まで


とすると、奇しくも遣隋使の創設〜遣唐使の廃絶の間ということになる。おおよそ330年間。


ローマ帝国、大英米帝国?、の存続時期に当てはめてみても、時間的なスケールを感じることができる。


◾️ローマ帝政成立(前27年)から

◾️コンスタンチノポリスへの遷都(330年)まで


◾️英国の産業革命(1760年)から

◾️現代(2019年)まで


そこで、推古(天皇)聖徳太子(皇太子・摂政)が急ぎ遣隋使を仕立て、隋の皇帝と対等に発言しようとした。文化的な共通基盤を求めて、仏教、儒教の導入を選択した。


推古天皇の後継は、聖徳太子(皇太子・摂政)と決まっている。「日出處天子」が隋の皇帝と対峙する、そういう日が来るのか?


【写真】SUMMILUX 1:1.4/50 LEIZ WETZLAR/春の花ばな/OLYMPUS PEN-F

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by kugayama2005 | 2019-05-22 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005