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<承前>

◾️陶弘景「真誥」の私訳


◾️少女神女(13歳くらい)が降臨<続き>


楊羲(当時36歳の修行者)のもとに紫微夫人が降臨し、神女・安の鬱姫(13歳くらい)を連れてきた。紫微夫人は楊羲に、「この姫をあなたのものにしてしまったら?」と迫った。


鬱姫は、楊羲に、

「これからあなたに詩を贈るので、あなたはそれを筆で書きとめなさい」と言い、次のように吟じた。


雲の城、天に立ちおり

聳ゆる、鬱羅の玉台よ

紫の宮、緑の山に映え

霊観は、峨々と萌えつ

玉宝の、朱き小部屋に

高徳は、暁色に証さる

伏して、雲居で口濯ぎ

仰いで、樹の碧花摘む

足洗う、玉天の池水に

櫂鳴る、牽牛星の河中

鞭打つ、瑞雲の奔馬に

轡落つ、騎竜から嶺へ

衣より、地平に塵捨て

裾絡げ、濁波を渉らん

願うに、山沢で結ばれ

剛柔は、和して一つに

清めん、手を取りつつ


【大意】

(私たち真人真女(仙人)は、雲居にそびえる宮城に住んでいます。瑞雲に乗駕して、天地の際を飛翔するのです。さあ、あなたも私とともに天地を往き来して、自然のなかで、ふたり結ばれましょう)


鬱姫は、

「紫微夫人の良きはかりごとによって、お会いすることができました」として、楊羲が急ぎ書き終わった詩文を一読し、


「今、この詩をあなたに贈ります。私のまごころを吟じたものですから、あなたは余計なことを考えてはいけない。詩文にわからない箇所があったら、自分で考えなさい」と言った。


紫微夫人は、楊羲に、真人真女のなかまになるよう誘い、

「さようなら。明日また、鬱姫とともに参りましょう」と言うと去って行った。


鬱姫は少しの間留まっていたが、楊羲の手をとって、

「今はあなたを思い、詩を吟じるのみです。明日また参りましょう」、と、向かった戸口を出る前に、忽然と姿を消した。


(参考:石井昌子著「真誥」)


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by kugayama2005 | 2019-07-31 01:51 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

<承前>

◾️陶弘景「真誥」の夷訳


◾️少女神女(13歳くらい)が降臨


晋哀帝興寧3年(西暦365年)625日の夜、紫微夫人が天上界から楊羲(当時36歳の修行者)のもとに降臨した。夫人は、少女神女(13歳くらい)を連れてきた。少女の名前は、安の鬱姫。


少女の長い上着は朱色で、半身から裾に至って青く変わり、きらびやか。緑の刺繍のある帯を締め、そこには大小10個の鈴をつけている。その姿は、雲母が輝々とかがやくように、部屋中をきらきら光らせている。


美しい黒髪を、中央にととのった結い髪とし、余った髪は腰までさらさらと垂らしている。細くて白い指には金の指輪を、なよやかな腕には白玉を結んでいる。


紫微夫人は、少女神女・鬱姫について楊羲に問う、

「あなたはこのような姫さまにお会いになったことはありますか?」


楊羲答えて、

「心は尊く、気高く麗しい鬱姫さま。言葉で言い表すことはできません」


紫微夫人は、笑って、

「それでは。あなたのものに、してしまったらどう?」


突然のお言葉に、楊羲は答えることはできなかった。


当の少女神女・鬱姫は、ずっと黙っていた。手の内には3つのナツメの実を握っており、1つを楊羲に、1つを紫微夫人に、残る1つを自分に残して、皆に食べるように言った。


食べ終わると鬱姫は、楊羲に年齢と生まれ月を尋ね、さらに、


「あなたの師である女真(女の仙人)南夫人から、あなたの事は久しく聞いています。思いがけなく今夜、このようにして出会ったのですから、あなたとは末永く添い睦み合っていきたい」と言う。


楊羲は答えて、

「俗世間に沈んで溺れ、骨の髄まで塵にまみれる我が身です。貴女の教えの言葉で、どうか私の闇を払っていただければ、無上の喜びです」


鬱姫いわく、

「そのような仮そめに飾った言葉を、何やかやとしゃべらないでください」、と、しばらく黙ってから、

「これからあなたに詩を贈るので、あなたはそれを筆で書きとめなさい」


楊羲は、急いで筆と紙を用意した。


鬱姫の口からは次のような言葉が、


<次回に続く>


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by kugayama2005 | 2019-07-30 00:29 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️陶弘景(456年〜536年)「真誥(しんこう)」


・葛洪の時代は、古代的な仙術の世界

・陶弘景は、より洗練された道教体系


とは言っても、陶弘景の「真誥」は過去の記録をさかのぼって編集しているものなので、内容は葛洪の時代に近いものも多いようだ。陶弘景の心中は、渡来新興宗教の仏教が深遠そうな思索を展開していくなかで、道教が「薬を飲んで不老不死」のような側面におちいることに批判的だったのだろう。


ということで、陶弘景「真誥」のごく一部を超訳してみよう。


◾️少女神女(13歳くらい)が降臨


この一件を体験した楊羲は当時36歳、道教の修行者で、女真(女の仙人)から信任されている。


晋哀帝興寧3年(西暦365年)625日の夜、紫微夫人が天上界から楊羲のもとに降臨した。夫人は、少女神女(13歳くらい)を連れてきた。少女の名前は、安の鬱姫。


少女の長い上着は朱色で、裾に至って青く変わりきらびやか。緑の刺繍のある帯を締め、そこには10個大小の鈴をつけている。その姿は、雲母がかがやくように、部屋中をきらきらと照らしている。


美しい黒髪を整った髷に結い、余った髪を腰まで垂らしている。指には金環をつけ、腕に白玉を結ぶ。


<次回に続く>


晋哀帝興寧3年とは、西暦365年だから、実は、「抱朴子」の著者・葛洪(283年〜343年)の時代に近い。


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by kugayama2005 | 2019-07-29 04:58 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️葛洪(283年〜343年)<抱朴子>

◾️陶弘景(456年〜536年)<真誥>


繰り返しになるが、「抱朴子」には、飲むだけで不死の仙人になれる最高の薬(丹薬)は、液体の金である、としている。しかし、実はその原料がまだ見つかっていないので、丹薬が合成できるまでは、草木の薬で命を延ばすしかないという。


一方、陶弘景に至ると、仙人になる薬(金丹)の合成をめざすのではなく、心身の鍛錬によって仙人に近づこうという考えになる。石井昌子氏は、「葛洪の仙人中心主義は、陶弘景では真人中心主義になり、葛洪の錬金術中心主義は、陶弘景では心身錬成法中心主義に移行した」(著書「真誥」)と指摘されている。


背景としては仏教思想が翻訳され、知識人の関心を得ていた時代、ということもあるようだ。道教としても、未完の錬金術にこだわっていられない。一般的に言うと、葛洪の時代は古代的な仙術の世界であり、陶弘景はより洗練された道教体系を志向した。


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by kugayama2005 | 2019-07-28 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

道教について何点か確認しておきたい。


道教とは、仙人と交感し、自らも不死の仙人になることを目的としている。しかし、それは困難だ。


したがって、仙人にはならずとも、その手前の状態になることをまずは考える。心身を健康に維持しなければならず、そのための方法が選定された。


秦の始皇帝(前259年〜前210年)などは、仙人に会いさえすれば、仙人に秘薬をもらうことができ、それを飲めばよいと考えた。始皇帝は、「オレは中国を統べる皇帝だから、必ず仙人は秘薬をくれるはず」と疑わなかった。


しかし、待てども仙人発見には至らなかった。晩年は、仙薬の調合を急いだが、ぽっくり死んでしまった。一説によると、水銀の飲みすぎらしい。仙人になるには、液体の金を飲むのが近道とされていたが、水銀でも一定の効果があると信じられていた。


そういう、仙人に薬をもらえばいい、とか、生成途上の薬でも多少は効果があるだろう、という考えは退けられていく。


その過程で、道教の経典をまとめようとした人がいる。


◾️葛洪(283年〜343年)<抱朴子>

◾️陶弘景(456年〜536年)<真誥>



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by kugayama2005 | 2019-07-27 01:48 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂の晩年について、先走って書いてみれば、


天武・持統期に政治任用された詩人だったので、通常の官僚秩序に編入されていなかった


したがって、持統天皇崩御後は、低位の身分に相応した現場仕事を続けた


以上はごく自然な成り行きだと思うが、背景には急激に本格化した律令政治がある。


天武・持統の神道(古来の自然崇拝と道教が習合したもの)に傾斜した思想は、皮肉なことに、天武・持統が強力に推進した律令制によって、朝廷の中枢から駆逐された


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by kugayama2005 | 2019-07-26 03:33 | 2019日記 | Trackback | Comments(5)

◾️おそらく、仙薬(金丹や本草)の具体的製造法に関する巻は、朝廷の奥深く秘蔵されていた?


「抱朴子」には、飲むだけで不死の仙人になれる最高の薬(丹薬)は、液体の金である、としている。しかし、実はその原料がまだ見つかっていないので、丹薬が合成できるまでは、草木の薬で命を延ばすしかない、と説明、紹介している。


草木の薬でも数百年は生きられるというわけなので、草木の薬でも相当な効き目といえる。そのような具体的な情報が流布されては困るのだ。


突飛な妄想かもしれないが、柿本人麻呂の詩人としてではない仕事は、主に鉱物探査だった。最期、石見で死す、というのも鉱物探査を続けていた結果だ。


以前、額田王の別の顔は、薬用植物による薬剤師だったのではないか、と書いたことがあるけれど、それは蛇巫女としての秘儀である。


柿本人麻呂の最晩年は和銅年間であって、なぜ和銅というかというと、秩父地方で銅鉱が発見されて、朝廷は大歓喜につつまれ改元したのだ。つまり、その前史として鉱物資源の外国依存から脱却しようと、国産化を模索していた。非天皇勢力にそれを占有されてしまったら危機であろうから、鉱物探査は密かに行われていた。


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by kugayama2005 | 2019-07-25 23:16 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

抱朴子(283年〜343年)<実名は葛洪>は言う、


「儒者は人間は死ぬものという固定観念を脱しえず、神仙を眉唾物だという。私のこの書物(抱朴子)を見たら大笑いし、誹謗するだろう」


として、書物(抱朴子)を一般向けの部分(外篇)と、神仙思想の入門(内編)に分けた。


山上憶良は、「沈痾自哀文」(病に沈み自ら哀しむ文)に「抱朴子内篇」の中の1項目「微旨」から引用しているというが、憶良は「抱朴子内篇」の全編を読んでいたのだろうか?、と考えるとそうではないような気がする。


おそらく、仙薬(金丹や本草)の具体的製造法に関する巻は、朝廷の奥深く秘蔵されていたのか?


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by kugayama2005 | 2019-07-24 00:03 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

秦の始皇帝の時代、強烈な中央集権政治を嫌って、周辺に逃げ出した官僚や商人たちも、あてなく流亡したのではない。


半島に馬韓をつくった秦人のごとく、計画性に富んでいたというべきだろう。


中国官僚の記録魔ぶりは驚異的といえる。呉、越、楚がほろびた時、旧支配者層の一部が海外に逃亡した、という記録があったに違いない。


海岸沿いでいえば、揚子江河口あたりから北上して、始皇帝の帝国から亡命しようとすれば、半島や列島に行き着くことは、おそらく先例があった。


福永光司氏は、戦国時代に秦にほろぼされた最後の国、斉(山東半島を含む地域)に逃げ込んだ楚の人々が、斉の滅亡時に船で半島や列島にやって来たと述べられています。それらの人々は、呉・越・楚・斉のいずれもの元官僚が混在して、波状的にやって来たのではないでしょうか。


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by kugayama2005 | 2019-07-23 01:18 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️秦の中国統一から疎外されて亡命した秦人  紀元前200


が、ある程度まとまった帰化渡来人の初めなのではないか?


そのころ、列島で古墳時代が始まる。古墳時代とは、現在目にするものが古墳だからそう言うのであって、その背景は土木工事と工作機械だ。土木工事と工作機械はそもそも墓造りのためにあるのではなく、産業基盤であり、水田稲作が飛躍的に大型化したのだろう。


秦の始皇帝の圧政を嫌って逃亡したとして、その圧政とは


焚書坑儒(儒教などの本を燃やし、儒者を生き埋めにして殺す)


というような思想統制もあるが、


首都造営、道路・運河の整備、万里の長城建設


などの全土に及ぶ公共事業、果ては皇帝の墓にするための兵馬俑建設など、現実的な(労働力供出を含む)税負担が、すさまじいことになっていたはずだ。


それに耐えかねて列島に逃亡した人々(地方官僚や知識人)も、実は(始皇帝と同じ)公共事業好きであり、道教信奉者だった!、とすれば、


高松塚古墳など後期の古墳の壁画にも、明らかに道教思想の強い影響が見られると言われているので、紀元前200年から1,000年間近く、列島には純度の高い道教集団がいたことになる。


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by kugayama2005 | 2019-07-22 12:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005