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これまでのまとめ 笑)2


安本美典氏は著書(「倭人語の解読」)の中で、さりげなく


>ヤマタイ国は、天津国


である可能性について触れている。


ヤマタイのタイに当たる文字は、もともと「臺」であって、臺は「つ」とも読みうる。当時の倭語は、「や」と「あ」が相通である。そうすると全体の読みが「あまつ」国となって、現在われわれがヤマタイ国と思っている固有名詞は、天津国(天の国)だということになる。


当時の中国人が、曖昧模糊たる倭人語を、必死に漢字に転写したのだ。現代の日本人が読める邪馬台=ヤマタイでは単純すぎるし、そもそも意味が不明である。邪馬臺国=あまつ国(天の国)が正しいとすると、ヒミコやアマテラスの実像がかいま見えてくるのではないか。


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by kugayama2005 | 2019-08-18 02:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

これまでのまとめ 笑)


東国の(人口増加や気候変動などに伴って?)縄文人たちは西へ移動した

北九州で渡来人と出会い、新しいヒト弥生人となった(西暦0年の佐世保市・下本山岩陰遺跡など)

北九州などで水田稲作が行われ、多くのクニが生まれた

北九州で人口増加がピークとなり、戦乱が起こった(西暦248年ヒミコの死)

北九州周辺国的を離脱するグループが現れ、彼らは東に向かった(ニギハヤヒの東上、神武東征など)


下本山岩陰遺跡的な時代からヒミコの死まで、たった250年。


出九州組が畿内に定住したのを大雑把に、西暦350年とする。


そうすると、その時期から壬申の乱(672年)までは300年しかない。


今から300年前は産業革命の時代で、われわれは産業革命や、ナポレオンや、徳川吉宗を「理解不能な古代のバケモノ」とは考えていない。


したがって、「ヒミコの平和」とその破綻、「出九州ヤマト」と「畿内ヤマトの創建」の経験は、「斉明(天智・天武)持統期」の心的基盤になっており、古事記、日本書紀、初期万葉集などに色濃く投影されている。


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by kugayama2005 | 2019-08-17 01:39 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️天武14年(685年)715  天武天皇は、「天下のことは皇后と皇太子に申せ」と勅した


近江朝滅亡(壬申の乱)は、弟(天武)による、兄(天智)の子(大友皇子)排除だった。それはそれで異常な事態だった。


(ところで最近思うのは、天武は近江朝攻撃に失敗した場合、東国に国を立てる計画だったのではないか。その点については後述)


さて、急ぎ朱鳥と改元したものの効果はなく、天武天皇は崩御。


政務は皇后(持統天皇)が執った。皇太子(草壁皇子)は、もっぱら天武天皇の送葬にあたり、政治には関与していないように見える。


こうして見てみると、壬申の乱終結後(672年)から天武天皇崩御(685年)までの13年は、凄惨な事件もなく、平和な特異期だった。壬申の乱で決着がつき、天皇政権への帰順が進んだ。


白村江の戦いで痛手を負った九州・西国勢も、当時、敗戦処理に懸命だった大海人(天武)の誠意を知っており、支持し、東国勢はそもそも大海人軍の主力だった。


北九州が倭王の都であると思っていた外国も、畿内の統一政権が日本だという認識になった。


柿本人麻呂は、そういう時期に大いに認められ、登用された。仮に人麻呂が壬申の乱時に18歳であれば、31歳までの時期だ。


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by kugayama2005 | 2019-08-16 00:45 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️天武天皇の心痛はいかばかりか。天武14年(685年)改元し、朱鳥(686年)とした。


朱鳥(あかみとり/しゅちょう)は、大化、白雉以来、途絶していた元号の復活で、たった1年で終わった。天武天皇が崩御したからだ。


なお、白雉や朱鳥は、道教的な瑞祥であるらしい。朱鳥というより、朱烏(赤いカラス)が本来の瑞祥だと思うのだが。


◾️天武14年(685年)

◾️715  天武天皇は、「天下のことは皇后と皇太子に申せ」と勅した

◾️720  元号を朱鳥とした

◾️99  天武天皇崩御、うののさらら皇后(後の持統天皇)は、即位式も挙げるいとまもなく政務についた


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by kugayama2005 | 2019-08-15 02:45 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

天文観測4


682年のオーロラの出現、大地震の発生に続き、


◾️6841123

◾️6

  星が東方に落ちた

◾️8

  大空がおおいに乱れ、雨のように隕石が落ちてきた

◾️同年11月中

  天の中央にぼんやりとした星があり、スバル星とともに動いた


これはおそらく、彗星が地球をかすめたのだろう。聖なるスバル星に、怪しいぼんやり星が絡んできたのだから、大事件だ。


実は大問題は、その直前にも起こっていた。


◾️同年1014日夜10

  大地震で山は崩れ、河は溢れた。国中の男女が叫び合い、逃げまどった。諸国の官舎、良民の家屋、社寺が破壊され、人と家畜が多く死傷した。道後温泉は湯が出なくなった。土佐国では田畑約1,000町歩が海になった。津波が押し寄せ、海水が湧き起こった。

◾️同日夕

  東方から、太鼓の鳴るような音が聞こえた。伊豆島の西と北の面が、1㎞ばかり広がり、新しい島ができたらしい。


これは現代でいう東南海地震ではないか。


この地震の2週間前、すなわち684101日、天武天皇は、新位階の制度、「八色の姓」(やくさのかばね)制定を宣言したのだった。


◾️101日「真人」(位階第1位)指名

◾️1014  東南海大地震

◾️111日「朝臣」(位階第2位)指名

◾️1123  大流星雨、妖星出現

◾️122日「宿禰」(位階第3位)指名


もうこうなったら瑞祥ではありません。天武天皇の心痛はいかばかりか。天武14年(685年)改元し、朱鳥(686年)とした。


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by kugayama2005 | 2019-08-14 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

天文観測3


◾️新羅で、善徳女王(在位632647)が天文台を創設


この天文台は、「慶州瞻星台(けいしゅうせんせいだい)」として現存しているが、文献には残っていないらしい。


高さ9メートル余、現地の説明模型では、てっぺんに人間が登り、観測機器を空の向けている。わざわざ塔に登る意味が不明で、今日の意味の観測ではなく、占術の一種と思われる。


皇極(=斉明)天皇が即位したのは642年で、新羅の善徳女王(在位632647)と同時代だ。同じ女王ということで、興味があって当然だし、多くの半島の使者が来訪しているので、同時代の情報は豊富だったろう。


皇極期にも客星(まろうどほし=彗星)の記事が日本書紀にもあり、天体への関心は高かった。また、自然現象で吉凶を占うことも盛んだ。斉明期には岩石庭園をつくり、須弥山をつくって外国の賓客をもてなしたりしている。


須弥山には、中腹に四天王がおり、頂上にインドラ(バラモン教、ヒンドゥー教の最高神。仏教でいう帝釈天)が住まうという。


善徳女王の占星台も、須弥山の形象であり、女王が登壇して占術を駆使したのだろう。なお、斉明天皇の須弥山は、陽石状の石で、善徳女王の占星台に比べればごく単純なもの。


聖徳太子が四天王寺をつくったとされているし、中国の仏教経由で、インドの思想が強く流入していたことがわかる。


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by kugayama2005 | 2019-08-13 02:38 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

天文観測2


68312日、天武天文台開設8年、天武天皇は勅して、「皇位を継いでから、天瑞が数多く現れている。こうした天瑞は、政道が天道にかなっている時、示されるという。それを恐れ、また喜ぶ」と。


天瑞とは、おそらく天変地異だけではなく、動物にもその端緒が現れるもので、例えば日本書紀にもたびたび記されている、白い雀、白い雉、三本足の雀、四本足の鶏などの出現も天瑞とされるのだろう。


新羅では、善徳女王(在位632647)が天文台を創設している。その頃、中国の「山海経」などから収集された、天変地異のアンソロジー(「天地瑞祥誌」)がまとめられていたという説がある。「天地瑞祥誌」の写本は日本に3冊現存するだけらしいが、おそらく新羅からもたらされ、朝廷で珍重された。


天変地異、特異な動物、天文の観察は朝廷の機密事項、とする考えもある。本草や鉱物の秘薬や、動物・天文予祝の核心部は隠されていたのだろう。


日本書紀に書かれた天文現象は、主に日食・月食・ほうき星で、それが瑞兆なのか凶兆なのかは示していない。しかし、それとは別に、明らかに特異な現象も記録されている。


◾️68283日夜8

  大星が東の空から、西の空によぎった

◾️11

  火の色をした細長い旗のようなものが、空に浮かんで北方に流れた。それは各地で観測され、「日本海(越の海)に入った」という報告もあった。次には、大きさ3メートル60センチ四方の白気が、東の山に現れた。

◾️12

  大地震があった。

◾️17日

  地震があり、虹が天の中央に現れた。


大流星が飛び、怪しい気が起こり、大地震があった。11日の「細長い旗のようなものが、空に浮かんで北方に流れた」というのは、オーロラではないか?


藤原定家「明月記」の記述と比べてみよう。


◾️1204221

  北から東北の夜空に、赤気が出た。その赤気の根元の方は、白く明るい。それは遠くに続き、火事の光のようだ。白気は雲ではなく、雲間の星でもない。白光と赤光とが入り交じって光り続けるのは、不思議であり、恐るべきことだ。

◾️1204223

  北から東北の夜空に、再び赤気が出た。それは山の向こうの火事のようだ。とても恐ろしい。


682年の天武期の記録も、1204年の明月記の記録も、赤い旗状の気や、白い気が、日没後の夜空に現れるという。近畿地方のような中緯度地域で、オーロラが観測されることはきわめて珍しい。


682年の天武天文台の役人は腰をぬかし、1204年の藤原定家も恐れおののいた。これが吉兆であるわけはない。


◾️68283  オーロラが出現し、翌日に大地震

◾️68312  天武天皇勅「天瑞が多く現れた」


これはいささか怪しい。朝廷は、オーロラの出現と大地震に、おののいていたのではないか。


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by kugayama2005 | 2019-08-12 00:19 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️天文観測


持統天皇と天文については、すでに少しだけ書いた(2019日記【0282019-01-28)けれど、天文台をつくったのは天武天皇だ。675年の15日に、初めて天文台(占星台)をお披露目したらしい。


天文観測は、農事サイクルの決定、暦の統一、方位の測定、特異現象の把握など、地球規模の客観的事実を把握するために必須だ。そのため、世界各地に、古代の大がかりな天文観測遺跡があるなかで、天武天皇の天文台は、ごく初歩的なものだった。


韓国の慶州に、新羅の善徳女王(在位632647)が創設したという天文台遺跡がある。善徳女王の天文台は、純粋な観測施設というより、天文呪術の用途があったのだろう。


いずれにせよ、規模と古さで言えば、両者ともピラミッドなどと比べられるようなものではない。


随から唐にかけて、中国では本格的な星図づくりが行われたらしい。おそらく、西域から天文観測の本格的な知識が流入したに違いない。そして、年代的に見ても、唐の天文熱が、速やかに半島から列島にも伝わった。新羅の善徳女王の動向は、ほぼ同時代でもあり、斉明天皇期あたりから情報が入ってきていたのだろう。


江戸幕府には天文方という役職があったが、天武天文台にも寝ずに星の番をする役人が急遽任命されて、寒いの暑いの眠いの蚊にさされるなど、ほうほうの体だったに違いない。


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by kugayama2005 | 2019-08-11 01:45 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

蟲紳ニッキ(1)おけら、あしたば、など


コンテナ栽培で、

おけら(朮)

あしたば(明日葉)


この2種類を育てれば、大成功と思うのです。


しかし、あしたば、は、今年初挑戦で蒔き時を間違え、発芽率ゼロという大失態となりました。


おけら、は、どこぞで探して、掘り出してくるしかないのでしょうか、ギモンです。これから花の季節ですので、探してみます。来春の新芽が食べごろです。


【写真】あしたば用の場所には、コリアンダー(パクチー)が遠慮なく生えてきましたぞ。まあ、当面タイカレーにパクチーのベビーリーフ入れてみるかい。いや、それよりもタネをピクルス液に入れたらよかろう。

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【写真】イタリアオクラの花。実がでかいので食いでがあるだろう、と欲張りまして。去年、なったのですが、食べるのを忘れていました。冬に枯れても、春には芽ぶき、夏にはまた花がさきました。

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イタリアオクラ、きざんで鍋底に敷きまして、鶏肉の酒蒸しをつくると極よろしいです。できれば岩塩と、ひきたて胡椒がほしいです。


【写真】イタリアオクラ。すげーこわい(強い)です。うぶ毛が剛毛で、よっぽど加熱しないとイタタタです。カメラはボケっぽいアイポンソフトです、けっこう良い。

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くわい、は、収穫後、種イモを選んで数個蒔き直して、毎年できます。連作障害もないようです。観葉植物としても良いです。シュウ酸が含まれるので、バカ喰いすると尿路結石を促すらしいです。動物性タンパク質といっしょに食べると、シュウ酸対策になるらしく、ほうれん草や、くわいに鰹節かける理屈です。


【写真】くわい。長雨と日照不足のためか、茶斑ができてしまいました。

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by kugayama2005 | 2019-08-10 12:30 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️天武期の人事政策2


律令制を進めていくと、人材の払底に気づいたのだろう。


律令制の官僚制度は、部民(職能集団)から、縦一本の国家官僚に向かった。律令国家としては、古くからの職能集団は取り扱いが難しい。天皇と他の実力者の関係も、複雑だ。


しかし、縦一本の国家官僚というのが、意外と役に立たないということも事実だ。


また、近江朝で、はなばなしく高位に進んだ亡命帰化人らも、天武朝ではおそらく故意に退けられている。百済滅亡時の集団帰化第一世代の貴族は、次々と世を去ってもいる(百済滅亡660年/壬申の乱672年)


そういう人事の危機に、誰の目にも明らかにな詩才をはなつ人麻呂が、寵愛されたのは当然だった。雄渾な公的長歌は、人々を驚かせたろう。前時代の天才・額田王とは、明らかに違う律令国家の詩人である。


うののさらら=持統天皇の政治的才覚を感じさせるという意味では、持統朝での藤原不比等と物部麻呂による「マハトとゲバルト」の采配もみごとなもの。柿本人麻呂の重用も、体系の総和を考えた人事の一環なのだ。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-10 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005