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◾️大祓のなかのイメージと人麻呂2


國つ神は高山(たかやま)、短山(ひきやま)の末に上り坐して


意味は:

(天つ神は天の八重雲を分けて聞き)国つ神=地上の神は高い山、低い山に登って聞く


何を聞くかというと、世の中のあらゆる罪をバッサリと切り倒し、清浄化する祝詞を聞くのです。


すなわち、

「(天の神はさておき)、われら地上の者は、(国つ神のように)高かろうが低かろうが山頂に登り、あらゆる罪が滅せされる祝詞を聞こうではないか」


やはり柿本人麻呂にも、山岳信仰が息づいていると思います。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-31 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


なかなか表題の、壬申の乱と近江荒都に行き着かないのですが、大祓のなかのイメージについてだけ今は触れておきます。


◾️大祓のなかのイメージと人麻呂


磐根樹根(いわねきね)をも語止(ことや)めて天の磐座(いわくら)放ち


・磐根樹根は、自然信仰の対象たる、岩や樹根

・天の磐座は、高天原の宮


意味は:

岩や木の根も口を閉ざし静かになって、高天原の宮を下った


すなわち、

「集まった神々も、岩や樹根や草の葉さえ口ぐちに思いを述べていたが、皆、口を閉ざした。いよいよ高天原を去る、ディアスポラが下されたのだ」


これは柿本人麻呂のいわゆる「石見国自傷歌」に投影されているイメージです。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-30 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


さて、ところで柿本人麻呂が巡遊神人だったとして、彼の少年期の才能を妄想してみよう。


下部に、「大祓」を書き写してみた。おそらく書き間違えがあると思うが、許されよ。


人麻呂はきっと10歳くらいで、この「大祓」をよどみなくとなえることが出来た、と思う。ただとなえるだけではなく、ここに凝縮している語法、リズム、イメージの展開を、我がものにしていた。さらに、舶来の宗教観が混交していない古代のエスプリを、無尽に吸収したのだと思う。


◾️大祓(おほはらへ)の詞(ことば)


高天原(たかまのはら)に神留(かむづま)り坐(ま)す皇(すめら)が親(むつ)神漏岐(かむろぎ)神漏美(かむろみ)の命(みこと)以ちて八百萬󠄄神(やほよろづのかみ)たちを神集(かむつど)へに集へ賜ひ神議(かむはかり)に議り賜ひて我(あ)が皇御孫(すめみま)の命は豐葦󠄂原(とよあしはら)の水穗國(みづほのくに)を安國(やすくに)と平󠄁けく知食󠄁(しろし)めせと事依(ことよ)さし奉(まつ)りき此(か)く依さし奉りし國中(くぬち)に荒󠄄振る神等(かみたち)をば神問はしに問はし賜ひ神掃(かむはら)ひに掃ひ賜ひ語問(ことと)ひし磐根樹根(いわねきね)立草󠄂(たちくさ)の片葉󠄂(かきは)をも語止(ことや)めて天の磐座(いわくら)放ち天の八重雲を伊頭(いつ)の千別(ちわき)に千別きて天降(あまくだ)し依さし奉りき此く依さし奉りし四方(よも)の國中と大倭(おほやまと)日高見國(ひだかみのくに)を安國と定め奉りて下つ磐根に宮柱太敷き立たて高天原に千木(ちぎ)高知(たかしり)りて皇御孫の命の瑞(みづ)の御殿(みあらか)仕へ奉りて天の御蔭(みかげ)日の御蔭と隱り坐して安國と平󠄁けく知ろし食󠄁さむ國中に成り出でむ天の益人(ますひと)らが過󠄁ち犯しけむ種種(くさぐさ)の罪事(つみごと)は天つ罪(あまつつみ)國つ罪(くにつつみ)許許太久の罪(ここだくのつみ)出でむ此く出でば天つ宮事(みやごと)以ちて天つ金木(かなぎ)を本(もと)打ち切り末(すゑ)打ち斷ち千座(ちくら)の置座(おきくら)に置き足らはして天つ菅麻󠄁(あまつすがそ)を本刈り斷ち末刈り切りて八針(やはり)に取り辟(さ)きて天つ祝詞(あまつのりと)の太祝詞事(ふとのりとごと)を宣(の)れ此く宣らば天つ神は天磐門(あめのいはと)を押し披(ひら)きて天の八重雲(あめのやへぐも)を伊頭(いつ)の千別(ちわ)きに千別きて聞こし食󠄁さむ國つ神は高山(たかやま)の末(すゑ)短山(ひきやま)の末に上り坐して高山の伊褒理(いほり)短山の伊褒理を搔き別けて聞こし食󠄁さむ此く聞こし食󠄁してば罪と云ふ罪は在らじと科戶(しなど)の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く朝󠄁(あした)の御霧(みぎり)夕(ゆふべ)の御霧を朝󠄁風夕風の吹き拂ふ事ことの如く大津邊(おほつべ)に居(を)る大船(おほふね)を舳解(へと)き放ち艫解(ともと)き放ちて大海原(おほうなばら)に押し放つ事の如く彼方(をちかた)の繁木(しげき)が本(もと)を燒鎌󠄁(やきがま)の敏鎌󠄁(とがま)以ちて打ち掃ふ事の如く遺󠄁(のこ)る罪は在らじと祓(はら)へ給ひ淸め給ふ事を高山の末短山の末より佐久那太理(さくなだり)に落ち多岐(たぎ)つ速󠄁川(はやかは)の瀨に坐す瀨織津比賣(せおりつひめ)と云ふ神大海原に持ちも出でなむ此く持ち出で往(い)なば荒󠄄潮󠄀(あらしほ)の潮󠄀の八百道󠄁(やほぢ)の八潮󠄀道󠄁(やしほぢ)の潮󠄀の八百會(やほあひ)に坐す速󠄁開都比賣(はやあきつひめ)と云ふ神持ち加加呑(かかの)みてむ此かく加加呑みてば氣吹戶(いぶきど)に坐す氣吹戶主(いぶきどぬしと云ふ神根國(ねのくに)底國(そこのくに)に氣吹(いぶ)き放ちてむ此く氣吹き放ちてば根國底國に坐す速󠄁佐須良比賣(はやさすらひめ)と云ふ神持ち佐須良(さすら)ひ失ひてむ此く佐須良ひ失ひてば罪と云ふ罪は在らじと祓へ給ひ淸め給ふ事を天つ神國つ神八百萬󠄄の神等共(かみたちとも)に聞こし食󠄁せと白(まを)す


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-29 00:40 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


滋賀県大津市小野(琵琶湖西岸)に、小野神社があり、柿本人麻呂が若年時、その神社の巡遊神人だったと仮定して:


琵琶湖の西岸を通る北陸道

琵琶湖の航路


を利用して、小野神の普及に出かけていただろう。また、


現在の京都市左京区あたりにあったらしい和邇氏の拠点のひとつを経由して:


飛鳥北辺の父祖の地、さらに飛鳥の都

淀川水系で難波へ

西国街道(現代の山陽道)、山陰道、海路への選択もある


巡遊神人という立場であれば、かなり自由に往来できたのではないか。天武期の記録によれば、浮浪者が勝手に移動しており、そうした場合には「元の場所と、移動先で二重課税しろ」と命じている(677930日勅)。つまり移動自体をやめさせるのは、半ばあきらめていたのか。


巡遊神人が宗教を本業としても、商売や芸能に才能を発揮していくのは、むしろ当然といえる。


柿本人麻呂も少年時から18歳くらいまで、巡遊神人の環境に育つなかで、小野神社の祭事に特別な才能をあらわしたのではないか?


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-28 00:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


柿本人麻呂が、小野神社の巡遊神人であったとして、現代の小野神社を調べてみた。結論からいうと、下段のリスト6、7(滋賀県)、8(島根県)が柿本氏と関係がありそうで、他はあまり小野氏とも柿本氏とも関係がなさそうだ。


現代でも1000以上数えられる春日神社と比べて、圧倒的に少ない。


驚いたのは、8 島根県益田市の小野神社で、柿本人麻呂は都を去って、石見国で亡くなったとする説があり、人麻呂の子孫は益田氏を名乗ったという。説明文は神社によるものだが、それが事実なのか、高名な歌人を敬って後に伝承が生まれたかは不知。


◾️現代の小野神社の所在地(関係神名・人名、説明)


東京都多摩市 (天下春命<あめのしたはるのみこと>)

東京都府中市 (多摩市のものと一対)

東京都町田市 (小野篁の子孫)

神奈川県厚木市 (小野妹子の子孫)

長野県塩尻市 (建御名方命<たけみなかたのみこと>)

滋賀県大津市小野(米餅搗大使主<たがねつきのおおおみ>)(天足彦国押人命<あめたらしひこくにおしひとのみこと>)

滋賀県高島市 (米餅搗大使主<たがねつきのおおおみ>)

島根県益田市(小野郷はその昔小野族と柿本族が開いた古代文明の発祥の地である。小野は春日族の支族で遠く大和国からこの地に移住し開拓した)

広島県府中市 (小野恒河)

10高知県南国市 (天足彦国押人命<あめたらしひこくにおしひとのみこと>)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-27 02:24 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


折口信夫「柿本人麻呂は、「巡遊神人」であったのであろう」


神人とは、神社の下級職で雑事にあたるのだが、神社そのものの管理よりも、布教の下支えをするのだろう。巡遊というわけで、拠点から拠点へ営業して回るわけだ。そうしているうちに、小商いもし、芸事にも手を染め、漁労も手伝ったりする。身過ぎ世過ぎなのだ。


大集団春日氏のもとを離れて、和邇(ワニ)神を祭る和邇氏が近江の地に至り、小野神を祭る小野氏と新しい拠点をつくる。「小野神祭りに参与する各地の氏人の中に、柿本氏もいた」と折口信夫はいう。


JR湖西線に乗って北上し、琵琶湖大橋のあるあたりを過ぎると、「小野」という駅があり、次の駅は「和邇」。そのものズバリすぎて、“笑けてしまう”。


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by kugayama2005 | 2019-08-26 00:10 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️壬申の乱と近江荒都


折口信夫は、柿本氏は春日氏の支流で、飛鳥の北辺に本拠地があり、その地は大規模な一族・春日氏の地に近く、宮廷の地の北辺の地境だ、という。


春日氏は、春日信仰に依る集団で、春日信仰は藤原氏の氏神だ。藤原氏は中臣氏のなかでも主に山地に依り、春日信仰も山岳・龍神雷神を説く。


山岳信仰、鹿島から鹿に乗って神の到来。東国的(縄文的)な背景。


折口信夫は、柿本人麻呂は、このような信仰集団の「巡遊神人」であった、と推定している。そうであったとすれば、人麻呂は、「巡遊神人」あるいは「巡遊神人」から抜擢された朝廷の舎人として、壬申の乱を経験したことになろう。神人も舎人も、身分は低い。


672年(19歳)壬申の乱)

680年より前  柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)

◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)

◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)


年齢は今のところの推定

参考書

「全現代語訳 日本書紀」宇治谷

「万葉集 釋注一」伊藤

「折口信夫全集第九巻」(昭和30年)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-25 02:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️柿本人麻呂

  ※年齢は今のところの推定


672年(19歳)壬申の乱)


680年より前  柿本人麻呂、宮廷歌壇に登場)


◾️近江荒都歌1 (天武天皇の最晩年のころ?)


686年(33歳)天武天皇崩御  持統天皇による挽歌(額田王引退?))


◾️近江荒都歌2 (万葉集の配列による推定=688年ころ)


689年(36歳)

◾️草壁皇子(くさかべおうじ)のための挽歌


690年(37歳)持統天皇の吉野行幸)


691年(38歳)

◾️川島皇子(かわしまおうじ)の殯宮で泊瀬部皇女に献歌


692年(39歳)

◾️持統天皇の伊勢行幸に従駕した某女性への歌

◾️軽皇子(かるのみこ)の安騎野遊猟


694 藤原宮 飛鳥浄御原から遷都)


696年(43歳)

◾️高市皇子(たけちのみこ)ための挽歌


697 持統天皇 譲位)


700年(47歳)

◾️明日香皇女(天智天皇の皇女)のための挽歌


◾️石見国自傷歌1

◾️石見国自傷歌2


703 持統天皇 崩御)


709年(56歳)あるいはもっと早く  柿本人麻呂死去?)


710 平城京へ遷都)


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-24 01:40 | 2019日記 | Comments(0)

◾️(ところで最近思うのは、天武は近江朝攻撃に失敗した場合、東国に国を立てる計画だったのではないか。その点については後述)3


天武天皇は東国に興味と好意を持っており、信濃に仮宮をつくらせようとした。おそらく計画は中止になったようだが、温泉に入りたかったのか、と日本書紀では推察している。


また晩年、

伊賀、伊勢、美濃、尾張の各国(調・役を隔年で免除)

東山道の美濃以東、東海道の伊勢以東の位階のある貴族(役の免除)

に、減税を実施している。


これは壬申の乱で大海人(天武天皇)を実力で支援した地域、人びとだ。体調の悪化を意識した天武天皇の、東国に対する感謝の意と思われる。


(ただし減税効果はいかがなものだろうか。天皇から調を猶予されて、民からは調を取れれば美味い話だが、それでは民情不穏だ。各国はおそらく調で中間利益を得ているだろうから、調を免除されても良し悪しだろう。国に対しては、隔年で調と役との免税をしているが、役の免除は民にとっては良いことかもしれない。後年、大宝律令では、役は庸布庸米で収めることに変質したようだ。役は民を実際に使役するわけだから、特に防人で大きな負担を経験した東国にとっては、大きな困難だったろう)


いずれも東国との強い人脈の存在が推察され、それは一朝一夕で出来上がったものではない。幼少年期、凡海(おおあま)氏に養育されていたことも関係しているだろう。(天武天皇を養育したオオアマの宿禰アラカマ氏は、天武の葬儀で一番に弔辞を述べている。内容が伝わらないのは残念だが、強いつながりを感じる)


◾️近江朝攻撃では、敗北もありうる(その際には尾張氏を頼り、東国に拠点をつくりたい)


東国勢は、手際よく不破の関を固めた。近江朝突入に失敗しても、不破以東で連合国を維持しようという意図があったのではないか。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-23 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️(ところで最近思うのは、天武は近江朝攻撃に失敗した場合、東国に国を立てる計画だったのではないか。その点については後述)2


近江朝滅亡、大友皇子(実は天皇即位?)は、「首」となって大海人(後の天武天皇)の元に届けられた。物部麿が、大海人の意を受けていたのだろう。


高市皇子も大いに働いて、天武天皇は事あるごとに高市皇子を厚遇した。


この時期に、柿本人麻呂もどこかで壬申の乱を体験していたとしか思えない。人麻呂の「近江荒都」歌が、天武・持統に絶賞され、人麻呂が天皇側近の詩人となっていくきっかけである。また、人麻呂が壬申の乱を同時代として生きたことで、ほぼ同年齢の高市皇子との心の交流も生まれた。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-08-22 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005