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◾️鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


この柿本人麻呂の自分自身の死を傷む歌、とされているものが、人麻呂の創作であるとする説を補強するのが、「讃岐の狭岑の島で石中死人を見て作った歌」だ。( )内は意訳。


◾️(西方から都への帰路、急に吹き出した突風を避けるため、(人麻呂の)船は讃岐の狭岑(さみね)の島に緊急避難する。そこで(人麻呂が)見たものは)


波の音繁き浜辺を敷栲の

枕になして荒床にころ伏す


(往き倒れの死人だった。ああこの男の家を知っていれば、行ってこの事態を知らせることもできように。この男に妻がいるならば、この場所を訪ねることもできように。しかし、道もわからず妻や家族は、ただこの男の帰りを心塞がれて待ち焦がれているのだろう)


◾️浜辺を枕になして荒床にころ伏す


「ころ伏す」というのは、単に転がって寝ているという意味ではなく、死んでいるということだそうだ。


往き倒れの死者に対する哀悼は、鎮魂の重要な要素らしいが、ここの人麻呂の体験は、もっと個人的な詩人の魂の震えだろう。このように、「私(人麻呂)も誰にも知られず死ぬのだ」、そう直感したに違いない。


以下の人麻呂自傷歌と比べて、死ぬ場所が違うだけで、しかも「狭岑(さみね)の島」と「石川の峡(かひ)」は、狭・峡と通じている。


◾️鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

◾️今日今日と我が待つ君は石川の峡(かひ)に交じりてありといはずやも


人麻呂が往き倒れの死人(おそらく水死して打ち上げられたのだろう)と出会った狭岑(さみね)島は、現在の坂出市にある沙弥(さみ)島だそうだ。埋め立てによって陸続きになっている(地図の⭕️印)。


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by kugayama2005 | 2019-09-30 22:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


この歌に魅入られて、鴨山を探してしまうのはやむを得ない。しかし、鴨は、賀茂でもあり、加茂でもあり、製鉄と関係があるというのが、古代人の常識らしい。石川の上流に鴨山があるのだそうだ。


往時の製鉄は、この列島に鉄鉱石が発見されなかったことから、砂鉄を求めて行われた。砂鉄は、石の多い川を遡って探すらしい。


◾️今日今日と我が待つ君は石川の峡に交じりてありといはずやも(意訳:今日か今日かと私がお帰りを待っていたあなたは、石川の奥の山々のはざまに行き、消えてしまわれたのかも知れませんね)


これは◾️鴨山の〜の次に掲載されている歌で、万葉集では「柿本朝臣人麻呂が死にし時に妻・依羅(よさみ)が作った歌」とされている。


この歌も、伊藤博氏の「人麻呂の創作した歌劇(歌語り)」説に従えば、人麻呂が妻になりかわって作ったものとなる。


◾️鴨山の〜、に続けて、一転、妻の視点になり◾️今日今日と〜、と歌うことで劇は進行するのである。


鴨山と石川によって自分の死にざま劇を歌った人麻呂の背景に、砂鉄による製鉄事業があったことは、宮廷歌サロンに集まった諸氏は当然知っていることだった。


人麻呂は、都を、宮廷をはるか離れて、鴨山製鉄所に赴任するのだ。そしておそらく、帰ってはこない。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1


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by kugayama2005 | 2019-09-29 23:43 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


私説。これは「うののさらら歌サロン」への惜別の言葉だ。「持統天皇、そして宮廷サロンのみなさん、さようなら」


伊藤博氏の言にしたがえば、「別れの歌劇」ということになろう。居並ぶ宮人たちの感動を、想像することができる。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1


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by kugayama2005 | 2019-09-28 23:42 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇の最晩年、うののさらら詩歌サロンも自然消滅し、柿本人麻呂も宮廷に足を踏み入れることはなくなった。何がしかの官位は拝領したのだろう。


天武天皇の弔辞を1番に読んだ凡海麁鎌も、冶金を命じられて、701年、陸奥国へ赴任した。


699年には役小角(えんのこつの?)という山岳信仰・修験道の創始者が伊豆に追放されている。「役」というのは朝廷への労働力提供であり、そういう徴用者の不満を集めて集団化し、警戒されたという説もある。2年後に大赦されているので、実は役小角の持つ法力によって金鉱を探させたのではないか。


いずれにせよ、文武天皇の時代となって、天武・持統的時代背景は遠ざけられたのだ。


柿本人麻呂は、小野神社の神人として築いたネットワークを使い、下級官吏として各地の情報収集を行ったのだろう。


当時の朝廷の関心事は、全国の鉱物資源の探査だった。そして、地方の有力者が貴金属を隠匿することを恐れただろう。北日本の山沢には、まだ大量の砂金が存在していた。


凡海麁鎌が派遣された奥州、役小角が流刑に処された伊豆、柿本人麻呂が生涯を終えたとされる石見、いずれも後年、豊富な金銀が発見されている場所だ。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-27 23:54 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂

◾️石見国自傷歌


(万葉集の編纂にあたって誰かが付けた詞書(題詞))

柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に臨む時に、自ら傷(いた)みて作る歌一首


◾️鴨山の磐根し枕(ま)ける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ


【意訳】

それは鴨山の岩にはさまって、岩根に頭をのせ、死した身体を横たえている私だろう。そんなこととはつゆ知らず、妻は私の帰りを待ちつづけているのだろうか。そうだ、待ちつづけているに違いない。


万葉集の編纂にあたって誰かが付けた詞書(題詞)には、これが辞世の歌と書いてあるが、奇妙なことだ。


「鴨山の磐根し枕(ま)ける我」というのは、一種の、はかない死への憧れではないか、だいたい、岩根を枕に横死しようとしている人が、筆をとって辞世の歌を書くこと自体、絵画的であって現実ではない、とも思ったのだが、


伊藤博氏が、「(柿本人麻呂の石見国自傷歌は)歌俳優人麻呂の創作した歌劇(歌語り)だ」との旨説かれている(國文学 解釈と鑑賞 19739月号)ことを知り、私の目もぱっちりと開いたのだった。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-26 23:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

柿本人麻呂

◾️石見国自傷歌1

◾️石見国自傷歌2


私見。柿本人麻呂は、持統天皇の崩御も、平城京への遷都計画(707年)も知らずに亡くなった。亡くなった時も、場所も不明だ。


いわゆる「石見国自傷歌」を根拠に、人麻呂の死を語るのは暴論、というより思考の衰弱だ。


ふたたび私見:


700年(人麻呂47歳)

◾️明日香皇女(天智天皇の皇女)のための挽歌をつくる。同時期に、◾️石見国自傷歌1が作られ、終幕間近な「うののさらら詩歌サロン」で披露された。


701~3

持統天皇は、事実上公務を離れ、吉野などに行幸する。


うののさらら詩歌サロンは自然消滅し、その前後に人麻呂は◾️石見国自傷歌2をまとめ、都を去った。


703年末  持統天皇 崩御

その前後(おそらく前)柿本人麻呂死去


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-25 23:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇は、軽皇子(なお、軽皇子は、正しくは「珂瑠皇子」ではないかと私は思う)を後継とすることを受け入れた。リアリスト持統は、律令政治が、立法行政府(藤原不比等)の手によって実現することを、深く理解していた。


藤原宮子(藤原不比等の長女)を、軽皇子(文武天皇)の妃に迎えることも大賛成だったろう。


ここで天皇は、はからずも象徴天皇となったのだ。


持統天皇は晩年、吉野など故ある場所を頻繁に訪れ、その象徴性を高めていった。柿本人麻呂の宮廷詩人としての役割も、そこで終わった。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-24 23:53 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂  安騎野遊猟反歌

◾️東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


考えてみれば、「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて」というのは、確かに、「東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)」は事実立っているのだ。渾身で詩神を呼び起こし、炎を視認したのだ。


その日の未明、軽皇子は騎乗姿もりりしく、東の野に乗り出した。そこに炎を見た以上、皇位は継承されるだろうと読みべきなのかもしれない。


なお、炎=かぎろい、と読むのは賀茂真淵大先生の天才的な読みだが、私は意を決して反抗してみる、


炎=ほむらび


でどうだろうか 笑)


もちろん、炎=ほむらびは、日の出前の幾条かの、かすかな陽光ではあるが、知っている人には軽皇子と天武天皇が重なって了解されるのだ。


大海人皇子(後の天武天皇)は、吉野を脱出すると、安騎野から伊賀に至り、名張の馬家を燃やした。馬家とは官道に配置された駅で、それを焼くということは、前代未聞、天皇の都近江朝に弓を引く政権交代ののろしだった。その炎を連想させるのだ。


炎=かぎろい、では詩趣に満ちてしまう。炎=ほむらび、なら知っている人には明快だ。さらに火(ほ)は古代精神の象徴のひとつだから。


◾️東(ひむがし)の野に炎(ほむらび)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-23 23:13 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

692年(柿本人麻呂  推定39歳)

◾️軽皇子(かるのみこ)の安騎野遊猟


については、すでに


2019日記【039052】斉明(天智・天武)持統期の心的推移 16〜29に書いたので、今回は付け足さない。


安騎野遊猟歌は、柿本人麻呂の頂点を示すものだろう。この時、人麻呂は困難な任務に極限まで緊張を強いられていただろう。天武天皇から息子草壁皇子を通じ、孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位が移るべきものなのか。持統天皇の注文は厳しかった。


おそらく持統天皇の心中は、孫軽皇子に、草壁皇子同様の不安を抱き、天皇にふさわしいとは思っていない。しかし、事実上、次期天皇候補は他にいないのだ。天武天皇の直系を即位させなければならない、しかし、ほんとうに軽皇子でいいのか?


実務の中心、藤原不比等は、後継軽皇子で早く決着を付けようとしている。時代はすでに神話世界を離れ、政治の実体は藤原政府に移っているのだ。不比等は、持統天皇の決断した時の怖さを、身にしみて知っている。


不比等から見れば、人麻呂は持統天皇の影と見えただろう。おそらく、安騎野遊猟にあたって、不比等の強い圧力が人麻呂にも注がれた。後継軽皇子から逸脱するな、と。


柿本人麻呂  安騎野遊猟反歌(2019-02-09 の再掲)

◾️東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへりみすれば月傾(かたぶ)きぬ


【私訳】

未明の東の野に、登りくる日の兆しが見えている。これは軽皇子(後の文武天皇)の近未来を暗示している印だが、それが如何なものなのか、わかる力がいまの私にはない。返り見ると、薄い氷盤のような月が、傾いて西の漆黒に堕ちようとしている。これは、不幸な死を甘受した草壁皇子の姿にちがいない。母の慈愛により、ふたたび新たなより賢い生を受けるだろう。


今、夜明けを迎えるこの冬の地に、いざ近江へ向かわんとした彼らの祖父であり父である「あまの ぬなはら おきの まひとの みこと」(天武天皇)の威霊が満ちてきているではないか。東の空の暁も、すめらみことが焼き放った名張の幻火だろうか。


草壁皇子がそれを手にすることがかなわず、軽皇子がそれをまだ得ていない霊だ。私に言えることは、このような、もうなく=まだない時にあって、それを知るのは詩の言葉のみに違いないということ。


【写真】湾ねこ SONY DSC-RX0  VCT-SGR1

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by kugayama2005 | 2019-09-22 23:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂=草壁(あるいは忍壁)皇子の舎人説、というのがあって、ナゼかな?、と思っていたが、草壁皇子への挽歌が、


◾️朝廷のお言葉もなさらず月日は経ってしまった。それ故に、草壁皇子に仕えた宮人たちは、どうなっていくのか全くわからない。


と、終わっている点や、


◾️多数の草壁皇子の舎人による挽歌(短歌)が併載されている


点を考えると、確かに、人麻呂は草壁皇子の身辺に仕えていた可能性はある。


それにしても、公的な挽歌に、使用人たちの動静をからめるなど、私的事情を持ち込んで良いものだろうか。おそらく、人麻呂に限っては許されたのだろう。持統天皇が良いと言うものは良いのだ。


さらに、草壁(あるいは忍壁)皇子の身辺にいることから、長男の高市皇子との交流もあった。


高市皇子としては、幼い弟と話しても面白くないので、同年の人麻呂に、


「ところで人麻呂くん、壬申の折にはどこにおりました?」などと聞き、人麻呂は、


「琵琶湖に舟を出し、密かに大海人皇子さまの軍に兵糧を運んでおりました」とか、


さらに高市皇子は、


「人麻呂くん、627日夜の雷雨には遭ったかね?」などと聞く。


人麻呂「はい、私は高島の港で、漁師に変装した間者と会っておりました。高島砦(近江朝方)の様子を、大海人さまの軍にお知らせするためです。その時、対岸の伊吹山に向かって、恐ろしい雷神が乱れ落ちて行ったのです」


高市「ははは、その落雷の下に父上と私はいてね、父上は『神々よ私をお助けくださるのならこの雷雨を止めたまえ』と祈った。すると、時を待たず雷雨は収まった。まあ、夏の通り雨だからね、止んで当然なんだけど、父上はにっこり笑われた」


とか?


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by kugayama2005 | 2019-09-21 22:44 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005