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 深夜、なぜか急に与世山澄子さんの、マル・ウォルドロン(Mal Waldron)との録音を聴いた。何度も那覇に行っていたのに、なぜ与世山さんの店に行かなかったのか、悔やまれた。と思う間に、速報が、首里城が炎上中という。初めて首里城に行った時、守礼門以外は何もなかった。その後、首里城にも、与世山さんの店にも行っていない。


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by kugayama2005 | 2019-10-31 19:28 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️小野神社の案内:「滋賀・びわ湖観光情報」より


「祭神の米餠搗大使命(たかねつき おおおみの みこと)は、遣隋使として随の国に赴いた小野妹子(おのの いもこ)の先祖で、孝昭天皇の第1皇子である天足彦国押人命(あまたらしひこ くにおしひとの みこと)の7代めの孫にあたり、応神天皇の頃に日本で初めて餠つきをしたと伝えられています。そのため、菓子作りの神様として菓子業者から広く信仰を集めています。」

【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ 小野神社 SONY DSC-RX0

↓ 階段上に餅状のものがあります
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↑ ◾️神社にある由緒書:

「古事記によれば天足彦国押人命は孝昭天皇と尾張国の連(むらじ)の娘余曽多木比命との間にお生れになった第一皇子で春日、大宅、栗田、小野、栃木、大阪、安濃、多岐、羽栗、都怒山、伊勢、飯南、一志、近江、の国造の祖であると記されている。
 又、日本書紀には大和和邇(やまとわに)の祖であるとも記されている。
 大和朝廷成立以前この地において、今の大阪府、京都府、奈良県、三重県、愛知県、滋賀県の広い地域を統治されていた王族であり、諸国に多い小野の地名、氏族の発生地、祖神でもある。」
















by kugayama2005 | 2019-10-31 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

小野神社。小野妹子、小野篁などの故地とされているので、柿本氏とも深い関係がある。小野神社に隣接する道路は、おそらく古代官道の北陸道だろう。北陸道は、ほぼ滋賀県道558号高島大津線に継承されているようだが、現代でも古代のまま残っている道筋が、ところどころにあるはずだ。


京都盆地方面からは、中世以降は逢坂山越えで東海道を進み、大津で北陸道が北へ分岐するが、古代は「小関越え」という経路だったらしい。(古代の東海道は鈴鹿越えで伊勢に出る)


古代北陸道の駅:


大津から

穴多(あのう)駅(大津市穴太)

和邇(わに)駅(大津市和邇中浜)

三尾駅(高島市安曇川町三尾)

鞆結(ともゆい)駅(高島市マキノ町)

北陸へ


小野神社は和邇駅の手前にある。


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ 小野神社 SONY DSC-RX0

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by kugayama2005 | 2019-10-30 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ SONY DSC-RX0

↓ 小野川右岸から蓬莱山方面を望む。

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↓ 小野川右岸にあるこんもりした場所に、小野神社がある。
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by kugayama2005 | 2019-10-29 04:21 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

和邇駅まで湖西線で行って、小野駅方面に歩いて戻り、和邇駅と小野駅の中間あたりに、和邇川があります。その和邇川ぞいに小野神社があるわけです。


湖西線でもっと北まで行き、高島の近くには、安曇川がある。和邇、小野、安曇とすべて古代氏族に関係がある名です。なお、高島は琵琶湖西岸を南下した東軍(大海人皇子=天武)が、近江朝の砦を撃破した場所。北陸道も東軍が抑え、南下して水運の要衝・堅田を制圧すれば近江朝は逃げ場を失う。


柿本猨は、そのあたりで活躍したのか?


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ SONY DSC-RX0

↓ 和邇川 川を渡る水道管やガス管についている銀色の金具は、歩行防止柵です

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by kugayama2005 | 2019-10-28 01:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


後に再度検討することにして、壬申の乱について、2人のことを書いておこう。


1 朴井雄君(えのいの おきみ)

美濃の物部氏。東軍(大海人皇子=天武)をまとめ、戦機を決した。


2 小子部連鉏鉤(ちいさこべの むらじ さひち)

尾張国司守。兵力2万をもって東軍(大海人皇子=天武)に参陣して功績があったが、その後自死。


兵力の数字には疑問があるが、朴井2万、小子部2万で、ほとんど全ての東軍だ。実質、壬申の乱は、東軍と旧飛鳥連合軍との戦争だった。旧飛鳥連合軍は、近江朝を守る意思はあったにせよ、東軍と戦って死ななければならない理由はなかった。


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ SONY DSC-RX0

↓ 志賀名物、「飛び出し坊や」の小野版。おそらく小野篁ヴァージョン? 「飛び出し坊や」は滋賀の看板屋さんが開発したもので、今や類似品が全国に出回っているけれど、これこそホンモノなのだ。

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by kugayama2005 | 2019-10-27 01:08 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


680年小錦下の朴井子麻呂は、それに続く小錦下組に先がけて、単独で小錦下を授かっている。朴井子麻呂を小錦下としたので、次いで同等の功績があった者を追加したのだろう。


壬申の乱の忠臣・朴井雄君(えのいの おきみ)は676年に急逝しているので、その後継者の朴井子麻呂が栄誉を受けたのではないか。


朴井雄君、壬申の乱の忠臣と呼ぶには平凡すぎる。実質、「壬申の乱の戦略を構築した人物」と私は考えている。


朴井(えのい=後には榎井とも)は、美濃の物部氏らしい。私的見解では、美濃・尾張は、南下西遷した縄文人の拠点である。すなわちまた、海人族の集散地でもある。熊野、伊勢、尾張あたりは複雑な海路であり、彼らのネットワークは古代以前から存在していた。(信長や家康も伊勢湾の海人を味方にして天下人となった)


ただ、朴井雄君が、「壬申の乱の戦略を構築した人物」であっても、琵琶湖の水運についてはやや自信がなかったのではないか。柿本猨は、播磨灘-難波ー淀川、その先の東山道、東海道、北陸道、の結節点であるその琵琶湖水運を熟知していた人物だろう。もちろん柿本人麻呂もその関係者だ。


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-10-26 00:11 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


680年小錦下の朴井子麻呂(えのいの こまろ)は、それに続く小錦下組に先がけて、単独で小錦下を授かっている。朴井子麻呂を小錦下としたので、次いで同等の功績があった者を追加したのだろう。


壬申の乱の忠臣・朴井雄君(えのいの おきみ)は676年に急逝しているので、その後継者の朴井子麻呂が栄誉を受けたのではないか。


朴井雄君、壬申の乱の忠臣と呼ぶには平凡すぎる。実質、「壬申の乱の戦略を構築した人物」と私は考えている。


朴井(えのい=後には榎井とも)は、美濃の物部氏らしい。私的見解では、美濃・尾張は、南下西遷した縄文人の拠点である。すなわちまた、海人族の集散地でもある。熊野、伊勢、尾張あたりは複雑な海路であり、彼らのネットワークは古代以前から存在していた。(信長や家康も伊勢湾の海人を味方にして天下人となった)


ただ、朴井雄君が、「壬申の乱の戦略を構築した人物」であっても、琵琶湖の水運についてはやや自信がなかったのではないか。柿本猨は、播磨灘-難波ー淀川、その先の東山道、東海道、北陸道、の結節点であるその琵琶湖水運を熟知していた人物だろう。もちろん柿本人麻呂もその関係者だ。


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ SONY DSC-RX0

↓ 小野駅

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↓ 和邇駅
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by kugayama2005 | 2019-10-25 00:20 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂、柿本氏の同族である和邇氏、小野氏の根拠地のひとつと思われる、和邇、小野の地を訪ねんと、風情ある湖西線に乗ってみる。京都駅では始発なので長い時間停まっている。ボーッと過ごすのも良い。


大きくみると春日氏の系統で、飛鳥の首都北辺にいた一族だ、と折口信夫氏は言っている。春日氏のなかでも、山地を根拠としていた者を、藤原と言うそうだ。大元は和邇氏であり、次第に春日氏を名乗るようになり、その後、小野氏や柿本氏が生まれたらしい。


684111日、大春日氏、小野氏、柿本氏らが朝臣の姓を賜っている。それより以前、6811229日には、柿本臣猨という人物が小錦下という位を受けている。


【写真】湖西線で和邇駅、小野駅方面へ(始発の京都駅) SONY DSC-RX0

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by kugayama2005 | 2019-10-24 02:40 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️懐風藻の人物評


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葛野王(かどのおう)は、大友皇子の第一皇子。すなわち、祖父が天智天皇。それだけではなく、母が十市皇女であるから、母の父が天武天皇、さらに母の母は額田王ということになる。


壬申の乱の際は3歳だから、祖母・額田、母・十市とともに近江朝から退避したのだろう。当然ながらそこには、額田・十市の母娘を溺愛する天武天皇(当時は大海人皇子)の強い救出指示があったはずだ。


「懐風藻」によると、持統天皇文武天皇の継承に重要な節目となった、群臣の会議に、葛野王は決定的な役割を果たす。


持統天皇が召集した(事実上次の天皇を決める)会議は、各自が自説を唱えて一向にまとまらない。持統天皇が、後継を直系の孫の珂瑠皇子(後の文武天皇)にしたがっていることは明白だが、一方、天武天皇の(亡くなった草壁以外の)皇子を後継にすべきだという意見も多かったからだ。


そこで葛野王が弁舌をふるい、「子孫に皇位を継ぐことが法である。兄弟が相続すれば世が乱れる」と、不満げな弓削皇子を睨みつけ、弓削皇子も発言できなくなって珂瑠皇子の皇太子が決まった。


持統天皇としては自身が壬申の乱の首謀者でもあるわけで、天皇の後継者問題に意見を言いにくい立場。もちろん葛野王との事前準備は完璧だったにしても、天智・天武の孫、大友皇子の子という葛野王の特異な血が、群臣を黙らせたのだろう。


【写真】近江神宮 祭神は天智天皇 創設は昭和15年と新しいものだが、清々しく良い社殿 SONY DSC-RX0 
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by kugayama2005 | 2019-10-23 00:27 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005