<   2019年 11月 ( 13 )   > この月の画像一覧

天智天皇は665年秋、亡命百済貴族に指示し、長門国と筑紫国に城を築かせた。朝鮮式山城の遺構が現在も残っている。


唐や新羅の侵攻を予想したからだ。城というからには、非有事であってもある程度、軍が駐屯しているわけだ。西国は百済再興戦争で多くの戦死者、捕虜を出していたので、兵は出せなかったろう。おそらくそれらの城には、東国の兵力が投入された。築城要員はどこから徴用したのか?


山城以前に、もちろん島嶼防衛や、水城(水堀での防衛施設)、狼煙台による通信網を急ぎ構築している。工事のための動員は苛烈を極めただろう。

        

この年(665年)、唐の使者(郭務悰ら)が戦後処理のため来日し、さらに671年には総勢2,000人を引き連れて比知島(壱岐?)まで来て、「すぐに日本本土に上陸すれば、防人が矢を射かけてくるだろう」といって滞在した。この一報が対馬国司から朝廷に届いたのは、1110日。


それに先立つ同年(671年)1017日、天智天皇は病が重くなり、大海人皇子を呼んで後事を託すと述べたが、大海人皇子は固辞して剃髪、吉野に向かっている。


天智天皇崩御は12月3日だ。


唐の使者(郭務悰ら)は、筑紫に上陸してまだ居座っていたが、天智天皇が亡くなったので当面の交渉を諦めたか、朝廷のプレゼント攻勢が功を奏したか、翌672年5月に引き揚げている。


連れてきた2,000人はどうなったか。内訳は、おそらく戦時捕虜の西国人と、逃げ遅れた百済遺民だったのだろう。捕虜は故郷へ帰り、百済遺民は東国の開拓民になったのではないか。(日本書紀665年に「百済人400人を近江国に住まわせた」、翌666年に「百済人2,000人を東国に住まわせた」という記事がある。百済滅亡後、多くの百済難民が帰化していることがわかるが、地位のないものは東方の開拓民にされているようだ)


大海人皇子が吉野を脱出したのが、同年6月24日、大友皇太子が自死して近江朝が壊滅したのが7月23日だ。


つまり、対唐外交は緊張の連続であり、朝廷は必死に対抗策を講じていた。郭務悰ら2,000人が現実にやって来て半年も居座っているのだ。彼らの要求の中には、国土の割譲なども含まれていたに違いない。


郭務悰らは帰国するにあたって、「次は2万人を引き連れてくるぞ」くらいの脅しはかけただろう。(百済滅亡によって百済人の農地は当然没収されただろうから、難民発生である)


つまり、


大海人皇子が挙兵を決意した朴井雄君の話:「いよいよ近江朝は大海人さまを亡き者にしようと、動き出しました。天智天皇御陵をつくると称して、美濃国、尾張国にも徴用令がかかりました。しかも武器を持たせる方針です」の徴用は、実は、対唐防衛戦に備えてのものだったのではないだろうか。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16324125.jpg

e0022344_16353368.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-13 04:27 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

壬申の乱が、ーーーそこまで「日本国」が東国に負担をかけるなら、われわれ東国も「日本国」の運営に参加させろ、という実力行使を含むものだったとして、


防人の徴兵は、(通説)遠江以東に対して行われたけれども、美濃、尾張、伊勢などの大海人方の中心勢力はどういう立ち位置だったのだろう。私的仮説としては、「白村江敗戦直後の防人懲役は美濃、尾張、伊勢などを対象に緊急に行なわれた」と想定している。なぜなら、遠江以東からの徴兵では、おそらく間に合わないからだ。壬申の乱の結果、防人徴兵は「遠江以東に押し付けられた」のではないか。


天武天皇は亡くなる前、東国に対する減税など優遇措置を連発しているが、それは論功行賞というよりは、「充分に東国に配慮している」という融和策に思える。逆に、東国に配慮しておかないと、再び壬申の乱まがいが起こってしまうという憂慮もある。


壬申の乱の根源に、百済再興戦争の戦争責任問題があったという仮説をもとに考えると、天武政権とは、その戦争責任をぎりぎりのところで回避できたと言える。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16345114.jpg

e0022344_16321101.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-12 00:41 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

壬申の乱、考えてみると、東国の「日本国」への参加運動という側面が見えてきた。


そのきっかけとなったのは、防人制度ではないか。ある日突然、東国のそれなりの人物が指名されて、西国防衛の兵隊になるのだ。準備は自前で、役人の監視下で連れていかれる。任期が終わったら、現地で解任されるが、自力で帰る方法をつくらねばならぬ。動員された防人よりも、「帰ってきた元防人がどういう発言をしているか」に興味があるが、そういう資料があるのかどうか、調べてみたい。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16312645.jpg

e0022344_16313184.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-11 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

小子部(ちいさこべ)の参陣は、壬申の乱を勝利に導いた。しかし戦後すぐ、小子部は自殺する。


大海人皇子(天武天皇)は、「小子部鉏鉤は戦功ある者だが、罪なくして死ぬこともないので、(近江朝に通じて)陰謀でもあったのだろうか」ととぼけているが、近江朝の官僚たる小子部としては、大友皇太子謀殺だけは許せなかったのだ。


7月22日、大海人軍は戦略拠点の瀬田川を突破、膳所に進出した。琵琶湖岸に、近江朝が望める。この日、湖西回りの大海人軍は、高島砦の朝廷軍を撃破、北陸道を制圧した。

23日、大友皇太子の伴は、物部麻呂と1、2名の舎人だけとなり、逃げる場所もなくなった。近江朝の近くまで戻り、「山前」という場所で自殺した。おそらく近江朝大津宮の裏山ではないか。


瀬田川をはさんで戦線が膠着し、講和が行われる構想もあったのだろう。あるいは、近江朝軍が全面的に山科方面に退却すれば、また別の折衷案が生まれたのかも知れない。小子部はそれに賭けて負けたのだろう。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16304771.jpg

e0022344_16305120.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-10 00:06 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

大海人皇子は6月24日に吉野を脱出し、26日未明には三重に到着。(長男の)高市皇子を大海人軍の総司令官に任命し、すでに(味方の)美濃勢が占拠していた不破関に派遣した。大海人は桑名にとどまった。


27日、高市皇子から大海人に連絡が来る。「父上のいらっしゃる場所が遠いので、軍事を行うに不便です。どうか近くへお越しください」


この要請の意味するところは、総大将が19歳の高市皇子では、各陣営に不安が走ったのだろう。東軍の主であり、次代天皇であるはずの大海人の姿が見えない。聞くところによると、大海人は桑名で鸕野(うの)夫人とともに逼塞しているらしい。


大海人皇子は高市の要請にしたがって、不破入りする。現代なら、桑名から名古屋を経由して関ケ原まで、鉄道で1時間半だが、当時は小半日かかる道程だ。急ぎ駆けつけたのだろう。


この日、大海人皇子の到着を待っていたかのように、小子部の尾張勢2万が不破に着陣する。尾張勢は近くまで来て、偵察していたのだろう。19歳の高市皇子が総大将で、大海人は来ていない。


小子部は中央官僚らしく、相手が格落ちでは動こうとしない。尾張の群雄も、これは騙されているのではないか?、と小子部を突き上げる。農作業を中断させられ、徴兵された二等兵もだらけてくる。中には近江朝軍に参加するのだと思って来た連中もおり、事実を知って脱走したりする。


28日、大海人皇子は全軍を閲兵。

29日、戦闘準備の命令を高市皇子に出させる。大和では遭遇戦が始まる。


そこで皆、納得する。


7月2日、不破関、鈴鹿関を越えての進軍を命じる。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16324761.jpg

e0022344_16300573.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-09 00:36 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

尾張国司の小子部(ちいさこべ)が、尾張の群雄を率いて大海人軍に参陣したのが、壬申の乱の勝敗を決めた。


美濃、伊勢が大海人側についたという背景で、尾張の立ち位置は難しかったろう。「人国記」が言うように、「謀反、一揆などが昔から多く、セクト主義が横行している」という土地柄である。一部は騙されて大海人軍に入ってしまった可能性もあるし、あるいは小子部自身が海千山千の尾張人に引き摺り回されたのかも知れない。


しかし、尾張さえ参加すれば、近江朝に勝てるというのが共通認識だったはずだ。その上、おそらく東軍には、(近江朝攻略に時間がかかった場合)大海人皇子を中心に東国政権を樹立するという構想もあったと思う。


東国政権が実現すれば、尾張がひとつの中心になる。近江(近つ淡海=琵琶湖)に対して、遠江(遠つ淡海=浜名湖)あたりに東国朝廷ができれば愉快である。場所は舘山寺温泉あたりがよろしかろう。飛騨国も東国政権に取り込まれるから、立派な都が造営できる。


一方、西国も近江朝にはへきえきとしているので、西国共和国ができて、日本も三国時代に突入である。


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16442432.jpg
e0022344_16443189.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-08 02:44 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

承前:


◾️小子部連鉏鉤(ちいさこべの むらじ さひち) 尾張国司守


壬申の乱(672年)で大海人軍に参加。尾張勢の合流がなければ、そもそも兵力が足りなかったはずだ。近江朝の国司がなぜ大海人側に?


◾️噛み砕いて空想を書けば、


小子部連鉏鉤「尾張国はもともと群雄が割拠して、争いごとも多い。それらの猛者を一人ひとり諭し、大海人皇子の挙兵に合流することと決した。折しも朝廷より徴用の令がくだったので、白昼堂々と挙兵の準備ができたとは奇貨である」


朴井雄君「よくぞ決意されました。尾張勢2万なくしては、近江朝に太刀打ちできません。私は、美濃、伊勢、伊賀と駆け回って同盟を結びましたが、尾張国抜きでは如何ともしがたいのです」


小子部連鉏鉤「飛鳥でも、近江でさえ、朝廷に対する失望の声を隠す者さえいなくなった。朝廷の御蔵に放火する者まで現れる始末だ。大友皇太子に罪はないが、その軽薄さが露呈したことは否めぬ。近江朝の軍は、戦って死する覚悟はないであろうから、瀬田川が破られれば壊滅、敗走するであろう。近江朝の重臣どもは、大海人皇子が吉野から東国へ移られたと知るや、邸を打ち棄てて逃げ出すであろう。そういう連中なのだ。身命を惜しまず、朝廷をお諌め申し上げるのも、わが天命。しかし、兵を用うるのは易いが、収めるのは難しい。朴井殿はどうお考えかな?」


朴井雄君「実のところをお話ししておきましょう。われらは、近江朝の動きの逆を巧みに行います。近江朝は東国の兵を動員して、東海道、東山道を制圧、大和から吉野に兵を急派して、大海人さまを亡きものにしようと謀っている。しかしわれらは、逆に機先を制して不破関、鈴鹿関を封鎖するので、東国としては負けない戦になります。場合によっては、東国に大海人朝をうち建てます。その上で、すでに近江国、伊賀国には兵力を浸透しておるから機を見て進退を決める。伊賀方面ではすでに優勢だ。大和では、在地の大海人側の士が乱戦を仕掛けるでしょう。近江には、不破関を越えて決戦を挑み、そこでふた手に分かれて、一方は瀬田川を目指し、一方は湖西へ迂回して北陸道を抑えながら近江朝に北から迫る。吉野に大海人さまを包囲しようとした近江朝が、逆に包囲されて行き場がなくなるというわけです。小関越えで大津から山科に抜ける道は、あえて開けてあります。逃げたい者は、そこから逃げればよい。われらは近江朝からやや離れて布陣するでしょう。漁師姿になった神職らが、行き来して、和戦を探るでしょう」


小子部連鉏鉤「そこまで至ったならば、私を使者に立ててほしい。後世の者は、私を蝙蝠と呼ぶだろうが、構わぬ」


朴井雄君「大友皇太子の御身体は、われらが物部の麻呂と申す者がお庇い申し上げて、単身山地の仮宮にご安心いただく手配です。近江朝に仕えた群臣も、多少の謹慎期間はあれども、赦されて元の通りお仕えできるでしょう。小子部殿も御存知の通り、大友皇太子を誤った道に導いたのは、ほんの数人の重臣だ。御心の広い大海人さまは、よくわかっていらっしゃる」


小子部連鉏鉤「お気遣いはありがたいが、そうはいくまい。朴井殿、最後にひとつだけ私を欺かれたな。胸襟を開いてお話頂いたので、私も一言申し上げておこう。物部麻呂という士、警護のために皇太子に付くわけではなかろう。大友皇太子の身に何かがあれば、私はその場で抜刀するつもりだ」


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_16291757.jpg

e0022344_16292076.jpg

















by kugayama2005 | 2019-11-07 03:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️朴井雄君(えのいの おきみ) 美濃の物部氏


壬申の乱(672年)勃発前、近江朝の動静を逐一、大海人皇子に知らせたのは朴井雄君だ。


◾️噛み砕いて空想を書けば、


朴井雄君「大海人さま、いよいよ近江朝は大海人さまを亡き者にしようと、動き出しました。天智天皇御陵をつくると称して、美濃国、尾張国にも徴用令がかかりました。しかも武器を持たせる方針です。吉野におられては、包囲されて袋の鼠。ひそかに吉野をお出になり、鈴鹿越えで伊勢国桑名にお向かいください。近江朝の監視人が道々に出没しておりますので、途上、わが一族の者が猟師の姿でお守りするなど、手は尽くしてあります。しかし、時間がありませんので徒歩ですぐお立ちになり、駅で官馬を求めるという手もあります。駅の役人が承服しない場合は、事が朝廷に知れます。その際は近江朝に残された皇子たちが危ない。即刻脱出させまつり桑名で合流できますよう、私どもが手配いたします」


大海人皇子「朴井よ、近江朝がそこまで私を疑うのなら、かねがね諸君が言っていたその道を進もう。百済再興戦争の結果責任は私にもあるが、祭りごとの道を違えた近江朝を糾し、律令を定めることこそが天命だ。西国の皆に事情を知らせることはできるか?」


朴井雄君「大海人さまもご存じの通り、畿内、西国を通じ常に往還している神人らがおります。彼らが旅したとて、何ら不審ではなく、さらに大海人さまをお育てになった摂津の凡海麁鎌(おおあまの あらかま)殿とも昵懇。しかし、近江朝の近臣である春日氏や小野氏の一部があまりに動けば目立ちすぎ、疑惑を生むことにもなる。そこで、同じ和邇氏の末裔でも目立たぬ柿本氏に託し、すでに西国の士とは気脈を通じております。近江朝からの命があっても、彼らはのらりくらりです。百済復興戦後の西国での大海人さまの誠意あるお働きを、みな忘れずにおりますゆえ」


大海人皇子「朴井よ、わかった。大友が天皇にまだ即位していないということからして、この戦は神意であろう。しかし、いくら天命があれども、それだけでは勝たれまい。どのように兵を用うるのか聞かせよ」


朴井雄君「実は、以前お話しした、小子部連鉏鉤(ちいさこべの むらじ さひち)、すなわち尾張国司守が加勢されます。近江朝に兵を差し出すと見せかけて、一部を不破関へ、一部を鈴鹿関へ向かわせ、そのまま我が方に合流する所存です」


大海人皇子「しかし、国司なれば近江朝の忠臣であろう。近江朝を裏切るものは、この大海人をも裏切りはせぬか?」


朴井雄君「小子部は、近江を兵で囲んだ後、大海人さまと大友皇太子が和解されることを望んでおります。小子部としては、あの気性の難しい尾張の群雄を説得して来たなかで、ある程度言葉を曖昧にせざるを得ない。近江朝を攻め滅ぼすのか、お諌めするだけなのか、大海人さまとてお迷いになっておられるでしょう」


大海人皇子「なるほど、小子部もそこを考えておるのだな。瀬田川を渡ったら結論を出そう。ところで、大きな声では言えぬが、額田、十市の母娘はどうしておる?」


朴井雄君「ふふふ。やはりそこが気がかりですな」


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_02170052.jpg

e0022344_02142641.jpg

















by kugayama2005 | 2019-11-06 02:29 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

壬申の乱(672年)で特異な動きをした2人について、考えてみよう。


1 朴井雄君(えのいの おきみ) 美濃の物部氏


2 小子部連鉏鉤(ちいさこべの むらじ さひち) 尾張国司守


その前に、「美濃」とか「尾張」という地について、いにしえ人はどういう印象をもっていたのか?、「人国記」からの引用。


1 美濃国(東山道)

・美濃人の心は水晶のように清い

・日本でも4、5カ国にしかみられない良い風俗だ

・しかし、心が真っ直ぐで正しいとはいえ、時節にかなっている人は2割程度だ


2 尾張国(東海道)

・尾張人は、善悪両極端に走りがちだ

・勇気は伊賀、伊勢、志摩を凌ぐが、頑固で情にかける

・謀反、一揆などが昔から多く、セクト主義が横行している。言葉を尽くして各々を説得し、善導して和合させるべきだろう


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0

e0022344_02114484.jpg

e0022344_02115263.jpg


















by kugayama2005 | 2019-11-05 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

さて壬申の乱(672年)の強い動機づけになったもの。私説:


◾️東国(尾張・美濃など)による政権交代の強い要請

・西国も実戦には参加していないが同意していた


背景は、


◾️白村江の戦いの戦後処理への強い不満

・西国は戦争派遣で疲弊

・東国は戦後の防衛負担で疲弊


◾️戦争責任を果たさないまま遷都し、亡命百済貴族などを多数登用する近江朝廷への怨嗟


◾️清く出家した大海人皇子(後の天武天皇)への共感


【写真】京阪石山坂本線(比叡山坂本⇄石山寺)SONY DSC-RX0


e0022344_16290818.jpg

e0022344_16263331.jpg

















by kugayama2005 | 2019-11-04 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005