承前:
柳田國男の遺書ともいえる「海上の道」には、若き日に見た伊良湖岬の海に寄る「ヤシの実」から連想を得たと書いているが、着目されるのは「貝の道」の指摘だろう。八重山、特に宮古島の「宝貝」が日本列島に古くから流通していた事実だ。柳田國男ははっきり書いてはいないが、「貝の道」は「稲の道」にも繋がっているのだろうか、という疑問はあったかもしれない。ただし、沖縄への稲作の普及はずっと遅れるので「貝」と「稲」を直接繋げることはできない。 ↓タカラガイ/Wikimedia commons
承前:
柳田國男の遺書ともいえる「海上の道」には、若き日に見た伊良湖岬の海に寄る「ヤシの実」から連想を得たと書いているが、着目されるのは「貝の道」の指摘だろう。八重山、特に宮古島の「宝貝」が日本列島に古くから流通していた事実だ。柳田國男ははっきり書いてはいないが、「貝の道」は「稲の道」にも繋がっているのだろうか、という疑問はあったかもしれない。ただし、沖縄への稲作の普及はずっと遅れるので「貝」と「稲」を直接繋げることはできない。 ↓タカラガイ/Wikimedia commons
承前:
やはり、口述の集積だけでは事実が見えて来ないということだろうか。柳田國男にしても膨大な収集から、何かの理論構築を試行すると、結果は不可知なものになる。というより素材と方法論を結ぶことができない。一方、折口信夫のマレビト論は「国文学の発生(第三稿)」にあるように、結論から始まる異様な構想だ。このふたりが突然友好関係を失ってしまうのも、道理だと思う。 ↓伊良湖みさ/Wikimedia commons
承前:
などなどと考えているうち、それではこれまでの民俗学とか民族学とか人類学というものがいったい何だったのだろうか、とわからなくなった。日本の場合は、どうしても中国の歴史書を下敷きにして出発せざるを得ないために、最初から足枷がついている状態で、やっとそこから脱出しても時間切れになる。そういう中で、「遠野物語」すらまともに読みきれていない。 ↓「遠野物語」初版/Wikimedia commons
承前:
そもそも、中国側のいう「リュウキュウ」とはどこのことかが明確ではない。台湾説もある。秦時代の徐福のように、強権政治からうまく逃れるつもりの人もいたかもしれず、大混乱の隋末にも「東方の島を攻略する」と称する詐欺師がいなうわけではないだろう。中国人は黒潮を恐れていたので、南西諸島にたどり着くのは簡単ではない。 ↓黒潮/Wikimedia commons
承前:
中国の隋末、隋の沖縄進攻があって、沖縄は唐の時代を含めて大陸との関係を絶ったという説もある。隋書の一節に、隋の一軍が「リュウキュウ」に到達したが会談は決裂し、「布甲」(主に布製の甲冑)を取って帰国した。その布甲をたまたま隋に来ていた倭国の使者に見せると「邪久國人所用也(ヤク国人の使うものだ)」と言ったという。その倭人は、小野妹子の遣隋使の者だろう。「ヤク国」というのは屋久島を含む南西諸島で、隋が到達した「リュウキュウ」と、倭国の遣隋使のいう「ヤク国」はほぼ一体と思える。 ↓ 屋久島/Wikimedia commons
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