タグ:2018日記 ( 94 ) タグの人気記事

「農業化」によってすべてのヒトが水田稲作農民になってしまったわけではない。縄文人そのままの生活をしているグループもあったはずだが、水田稲作に適さない地へと移動せざるをえなかったと思う。そういうヒトビトは、「右脳的」なものを、長く保持していたのだろうか。そのことはおそらく日本人の心に特別な文化を生むことになるのだろうが、それについてはまた後日考える。


しかし、右脳はおそらく、ストレスに弱いのではないか。


さて、現代日本の世帯の経済構成調査(平成17年の国勢調査)によると、


1 農林漁業 1.7%

2 非農林漁業 69.2%

3 上記の混在 2.0%

4 非就業 25.8%


ということだ。今の日本がいかに奇妙な社会で成り立っているか、一目瞭然だと思う。実は、欧米の農業人口も同じようなレベルであって、いわゆる先進国の存立基盤が怪しげであることがわかる。日本に限って言えば、水田稲作を潰さないことが最低限の安全保障と言えるだろう。


そもそも日本人に小麦を食わせようというのは、戦後のアメリカ政府と穀物メジャーが一体となって強力に推進した政策だった。1500年以上続いた日本の水田稲作とコメ本位制が、穀物メジャーというグローバルスタンダード仮面に倒されるのかどうか、まだ戦後体制の桎梏は続いている。


TPPの議論で、主に北海道の農業関係者から、これでは日本の農業は生き残れないという強い反対意見が出された。関税に守られていれば日本の農業に希望が残り、個人営農者が復活するのか?


とかなんとか言いながら、律令制崩壊過程について考えてみようと思うのだけれど、律令制崩壊過程とはちょっと大きく出すぎた感がある。班田制度の行き詰まり、とか言ったほうが可愛げがあるかもしれない。


水田稲作(農業化)が土地制度と組み合わさり、税制や戸籍制度や兵役を引きずって七転八倒したのだ。単に政策実現という程度のものではなく、律令という成文法をもってした。ありていに言うと、引っ込みがつかないのである。もしワタシがその時代のコッパ役人だったとしたら、不安で夜も寝られなかったと思う(ウソ)。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


e0022344_16452140.jpg
e0022344_16455756.jpg








by kugayama2005 | 2018-12-19 01:40 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

2018日記【090+】妄想日本古代史、修正版---への追加


【◾️西暦230年頃

・「倭国大乱」に伴い九州ヤマト国の王イワレが九州離脱。東進し大和ヤマト国を創立。(投馬国(當麻?)の要人も同行か?)】


ここで、「(投馬国(當麻?)の要人も同行か?)」と書いておいたのが何か、について追加する。


投馬国の長は「ミミ」副長は「ミミナリ」と、魏志に書いてある。「ミミ」とは、結論から言うと、「巳身」=蛇神であり、「ミミナリ」はその形象。「なり」を「形」の意として現代日本語でも使う。


そこで大和ヤマト国のシンボルである、大和三山および三輪山について独断をしたい。三輪山が、とぐろを巻く蛇の形象だとする説があるが、三輪山を巳輪山と解すればそのものずばり。


大和三山の「うねび」山は蛇の蛇行であり、「みみなし」山は蛇の形だ。「かぐ」山はカカ山であり、「カカは蛇の意」と吉野裕子先生がおっしゃっているのでその通りです(断定)。


九州ヤマト国でも蛇信仰はあったかも知れないが、投馬国が「ミミ」によって統治されていたとすると、九州ヤマト国の不信任された男王とともに、投馬国「ミミ」の系統も東遷したと考える。さらに、畿内に「當麻寺」もあるので、投馬は當麻のことと考える。當麻は現代の日本語では、大麻と書く。


なお、イワレは一貫して鳥信仰(ヤタガラス=三本足のカラス、金鵄=金色のトンビ)の色彩が強いので、蛇信仰のミミさんも同行していないと、こうも大和ヤマトが蛇だらけにはならないと思うのだが。


さらに付記すると、日本にはそんな立派な蛇はいないと言う向きもある。ヤマタノオロチしかりであるが、揚子江以南には、人間を呑み込む程度の蛇はふつうにいた、とする主張もある。


妄想、南方系のミミさんと、北方系のイワレさんは、隣国どうし仲が良かった。


【写真】掛川城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は浜松城を本拠地として義元なき今川領を圧迫、掛川城を奪取した。


e0022344_03383264.jpg








by kugayama2005 | 2018-12-18 03:06 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

大和ヤマト朝廷には、もはやヒミコやトヨの持っていた近未来予知の力は、実質的にはなく、それは宗教行事として継承された。


しかし、別の実質的な近未来予知の能力がある。春に種もみを蒔けば、秋に稲穂が実る、というのも立派な近未来予知だ。


暦と農業技術を授けましょう、それらを厳密に使うことによって、みんながシアワセになれるのです。ワタシたちは、大海を越えて北方の巨大国家とも友好関係を築いています。どうですか、グループに入りませんか?


グループに入っても既存の権利はそのままで、安全保障にも資するようだ。美味い米が大量に収穫できるなら、耕地面積の拡大は喫緊の課題ではなくなる(つまり戦闘は避けられる)。


これはいわば継承されたパックスヒミコーナ(ヒミコの平和)かも知れないが、その時期は短く、パックスヒミコーナを駆逐したのは「鉄と馬」ではないか。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。


e0022344_16435062.jpg

e0022344_16443647.jpg







by kugayama2005 | 2018-12-17 01:30 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

「倭国大乱」(西暦230年頃)から「関ヶ原の戦い」(西暦1600年)まで、歴史的な基調はそれほど変わらないように見えますが、


・ヒミコとトヨの平和

・大和ヤマト朝廷の成立


は別の「ゆるやかな連合」が基調になっていると見えます(後には強い集権化---そのツールが律令制)。


例えば、古事記によるヤマトタケルを考えてみると、前半は熊襲退治です。九州ヤマト国が消滅した後、大和ヤマト国が何度も南九州に出兵しているようだ。


しかし、ヤマトタケル後半の事績は、東国への浸透で、そこには戦闘があまりない。そこでは、最新の稲作技術、農具(後には鉄器、馬なども)の贈与、結婚による縁組などが主な行為だったのではないか。


ヤマト朝廷の米を持参し、種もみとして贈り、また同時に試食会を開催(実際に宴会も多かったらしい)。東国のヒトビトは、こんな美味い米が大量に収穫できるなら、ヤマト朝廷グループに試しに入ってみても良いと思ったろう。もっと積極的にヤマト朝廷グループ入りを希望した者は、娘をヤマトタケルに嫁がせようとした(もしかしたらヤマトタケルが天皇になるかもしれないしな)。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。


e0022344_16412083.jpg

e0022344_16421476.jpg






by kugayama2005 | 2018-12-16 03:38 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

「倭国大乱」とヒミコの平和。その背景には、「農業化」のレベルが上がり、定着した事実がありそうです。


その結果、耕地に造成できる残地はなくなり、土地や水利にまつわる抗争が起きる。いわばそれは「男の論理」だったので、戦争を終結させるために男王が退き、女王を立てた。


近未来予知者として、ヒミコやトヨが優れていたという側面もあります。「農業化」が高度になるにしたがって、ヒトビトの右脳的活動が弱まり、近未来予知の人材が貴重なものになっていたのでしょう。


「農業化」と戦争は不可分なもので、戦争がスパイラルに進行してしまう。農地、水利、人口確保のために戦争が起こる→戦争を継続するために農地、水利、人口を確保する、の繰り返し。


その結果、一種のディアスポラが生じ、それはイワレだけでなく、また時期も前後していたと思う。多くの彼らはお互いに連絡を取り合っていた。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。


e0022344_16390584.jpg

e0022344_16400569.jpg







by kugayama2005 | 2018-12-15 02:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(6)

妄想日本古代史、修正版(笑


◾️西暦230年頃

・「倭国大乱」に伴い九州ヤマト国の王イワレが九州離脱。東進し大和ヤマト国を創立。(投馬国(當麻?)の要人も同行か?)


◾️西暦230年頃

・イワレを継いでヒミコが九州ヤマト国の女王となり「倭国大乱」が収束する

・ヒミコの登場により北九州各国は連合国となるが、南方の「クの国」は引続き九州ヤマト国を攻撃する


◾️西暦280年頃~390年頃

・「中つ国(出雲から諏訪あたりまでの地域)」の盟主であったオオクニヌシの覇権を大和ヤマト国が奪う

・大和ヤマト国が熊襲(「クの国&ソの国」か?)に派兵(この頃にはすでに九州ヤマト国は消滅?)

・大和ヤマト国が東国に派兵


◾️西暦391年

北九州各国連合が大陸に出兵(帯方郡復興計画?)し好太王軍に大敗


◾️西暦391年頃

大和ヤマト国(応神?)の勢力が九州に派兵


◾️西暦413年

倭王讃(日本名?)が中国に朝貢

・倭王讃が大和ヤマト国の元首であれば、九州ヤマト国であった時代の外交戦略を再開したことになる。倭王讃が北九州各国連合の王であれば、磐井の乱(西暦527年)のころまで大和ヤマト勢力は北九州に浸透していなかったことになる。


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0


ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。


e0022344_16380387.jpg









by kugayama2005 | 2018-12-14 12:25 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

いち早く「農業化」した北九州は、成長の限界に達していった。その結果は、「倭国大乱」だったが、ヤマト国のヒミコ、トヨの2女王の時代は、ヤマト国中心の国連合が成立し、平和を取り戻した。


しかし、トヨの時代が終わると、国連合は崩壊した。それまでも南方から継続して攻撃を受けて来たヤマト国は、きわめて不安定な状況となった。結果、当時の王、イワレによる九州離脱を果たし、東方に向かった。おそらく投馬(當麻か?)国も同行した。


王が去った後、ヤマト国の地は「クの国」勢力に吸収され、さらには九州一帯が軍事的に統合されて、海を越えて北へ向かう。しかし帯方郡(の存在したあたり)にまで北上したところ、広開土王軍と遭遇し、壊滅的な敗北を喫する。この北行は、私的には、伊都国に置き去りになった旧帯方郡官僚の、帯方郡奪還計画だ。


その直後、大陸との平和的な交渉に登場するのは、「倭の五王」であり、彼らは約150前にイワレを先頭に九州から去り、東の地にヤマト国を再興した系統だった(はず)。


そこで計算をしてみると、九州ヤマト国のイワレが、ヒミコ・トヨ時代の終焉後、九州を離脱して大和ヤマト国を創立したとする場合、


◾️西暦280年頃~390年頃

・「中つ国(出雲から諏訪までの地域)」の盟主であったオオクニヌシの覇権を大和ヤマト国が奪う

・大和ヤマト国が熊襲に派兵

・大和ヤマト国が東国に派兵

◾️西暦391年

・倭人が好太王軍に大敗

◾️西暦413年

・倭王讃が中国に朝貢


と、やたらに忙しいのである。ということは、実は、イワレの九州離脱は、ヒミコ・トヨ女王の登場前の「倭国大乱」の頃という方が自然なのかもしれない。


つまり、男王では治らないゆえに、放逐された王がイワレなのか?


【写真】浜松城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。今川氏の衰退によって、遠江、駿河の地に空白が生まれた、家康は浜松に進出。武田の強大な軍事力が北方に控える緊迫の地だ。城郭にも戦塵のにおいがする。


e0022344_16100099.jpg

by kugayama2005 | 2018-12-13 00:15 | 2018日記 | Comments(0)

邪馬台国、つまりヤマト国は、場所はいわゆる魏志倭人伝(「三国志・魏書」第30巻東夷伝倭人条)で示された通りだとすると、北九州から、


1 南至り投馬国(5万余戸)、水行20日

2 南至り邪馬台国女王の都(7万余戸)、水行10日と陸行1月


計、水行30日では太平洋に突き抜けてしまい、陸行1月と言っても陸がないだろう、というのが邪馬台国「非」九州説のスタートですね。


しかし、普通に読んで、伊都国までは現実に即した記述であり、さらに伊都国は「帯方郡との往来に常駐する場所」と明記されている。帯方郡の官僚が滞在し、慣れ親しんだ地なのだ。あからさまに言えば、帯方郡の官僚が政治的に関与し、漢字による文化伝播もあった。


だが、それより南は倭人から聴き取った内容で、帯方郡の関係者が足を運んだわけではない。投馬国(當麻か?)で地理的にあやしくなり、邪馬台国では荒唐無稽になる。


「南」が実際は「西」だったのではないかという邪馬台国畿内説は、危険な妄想だと思う。畿内に邪馬台国的な遺跡があるのは、後期ヤマト国(大和ヤマト国)がその地にあったというのが私的妄想である。


さて、帯方郡の役人を、倭人は丁重にもてなしていたと思う。お土産も頂戴しただろう。しかし、南方事情をあからさまに話すわけにはいかない。また、連合の盟主、邪馬台国には行ってほしくない。邪馬台国の南には、女王連合に加盟しない狗奴国、さらに「クの国」や「ソの国」(熊襲)もあり、彼らは非友好的だ。北九州連合国は、微妙なバランスに乗って存在しているのだ。(熊の国は「ク」の国、すなわち「狗奴国」=「ク」の国と同一という考えもあります。奴という字は単なる現代でいう「の」という解釈です。それで思ったのですが、クの国、ソの国というのは、9カ国、10カ国という意味ではないか。邪馬台国の南には、女王連合に加盟せず攻撃的な9カ国があり、さらに10カ国がある。それらの国の住民は縄文人と未知の外来人では?)


帯方郡の官僚が来日する航海術をもってすれば、北九州から海路で南九州へ回り込むことは十分可能。彼らが南九州の勢力と、独自に友好親善関係を結んでしまえば、北九州の先進的地位は危なくなる。


「水行20日で、投馬国、さらに水行10日、さらに陸行1月」という思いっきりの上乗せをして邪馬台国を遠いものに仕立てあげた。そこには北九州倭人の外交に臨む決意が込められており、押し切った感がある。


この時代の邪馬台国(ヤマト)は、現在の熊本県北部の水利の良い土地にあったはずだ。彼らは、ヒミコ、トヨの時代以降、南方の勢力との抗争に疲弊し、かといって北方にはもう入り込む余地はない。そして、はるか東方に、例えて言えば「約束の地」があり、その地でのヤマト再興を・・・(と、まあ、この辺で終わりましょう ^ ^)


【写真】岡崎城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。岡崎城で生まれた家康は、幼時から織田・今川氏に人質のたらい回し。桶狭間の時は、今川軍に同行していた。今川義元の敗戦を機に今川勢から離脱、岡崎城に入城した。


e0022344_15533741.jpg








by kugayama2005 | 2018-12-12 02:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

ヒミコの話が出てしまったので、ちょっと邪馬台国に行きたいのですが、その前に、山口県の土井ヶ浜遺跡に見る渡来系シャーマニズムが、古代の日本とどうつながっているかです。


北アジアのシャーマンと、例えばヒミコやヤマトトトヒモモソヒメ、あるいは沖縄のユタ、下北のイタコなどとを同列に比較するのは無理があると思います。


鶏占いは古代ローマでも重要視されており、土井ヶ浜遺跡から鶏占いの女性の遺骨が出てきたからといって、古代ローマと関係があるというのが強引であるのと同様に、北アジアのシャーマニズムが古代日本に影響を与えたというわけではない。


しかし、神社の鳥居はいったいどうして「鳥居」なのかという問いに、鳥居は水田稲作と同時に伝来したという説もある。また、出雲の鳥信仰が日本神話にも見える(オオクニヌシの息子の「とりあそび」)という説もある。何らかの深い関係が、ヤマト、イズモ問わずあるのかもしれないし、関係なく独自の鳥信仰ないしは鳥占いがニンゲン普遍の感性から生まれたのかもしれない。


それはさておき、弥生時代には実に多様なヒトビトが列島にやってきていて、北九州のような中央部では、縄文人と弥生人の多文化が定着していた。そのことと、「農業化」は同時に進行していたと考えられる。


そういう中央に対して、周辺には先住民の縄文人が圧迫されて移動したり、日本海側の遺跡に見られるような特異な集団も渡海して来ている、という状況だったと思います。


古事記(や日本書記)には、それらの痕跡が残っていると私は思うのです。


【写真】岡崎城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


e0022344_15525208.jpg

by kugayama2005 | 2018-12-11 01:05 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

ヒミコもトトヒモモソヒメも、近未来予知の人だったと思います。ジュリアン・ジェインズ言うところの、農業化によってニンゲンが失ってしまった「右脳的能力」を、少数の者はまだ保持していたのです。


神の声(自然の声と言い換えてもいいですが)を聞くことができるヒミコ、また後継のトヨ以外の男王では、連合国体制が崩れてたちまち戦乱の世になってしまった(「三国志・魏書」第30巻東夷伝倭人条)。男はすでに「右脳的能力」を失っていたのだろう。


連合国ができたり、あるいは連合が崩壊して戦時体制になったりという現象は、背景にすでに「農業化」が安定的に進んでいることがうかがえます。「農業化」は水稲による農業マニファクチャーです。耕地と水利と耕作者を囲い込みます。人口は増加し、周辺国との緩衝地帯は激減します。


そして個々の国には、世俗的な王権が発生し、統治機構もあった。しかし、国の平和的な連合を実現するとなると、ヒミコのような神との対話なしには困難だったろうと思う。


【写真】岡崎城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


e0022344_15521012.jpg

by kugayama2005 | 2018-12-10 15:51 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005