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この迷稿は、うののさららを道しるべに律令国家の誕生を考え、菅原道真を頼りに律令国家の崩壊過程の兆しを探る(つもり)。


645年 うののさらら誕生

845年 菅原道真誕生


なんときっちり200年差。ちなみに今から200年前は、江戸の文化文政時代。


この探索を思いついたのは、実は菅原道真がきっかけ。道真は文章博士で一生を送りたいのにそうはいかず、讃岐国司にされたりしてそこで地方政治の実態をつぶさに経験している。朝廷中心の政治改革に着手しようとするが、実力派官僚の総スカンにあって、太宰府に単身赴任、逝去。


うののさららの祖母、斉明天皇を補佐したのが、かまたり(後の藤原)。道真失脚の背景も藤原である。その間に一本の線、律令制度があるという見立てなわけだ。


律令制の崩壊過程で日本は実質的な戦国時代に突入し、家康の元和偃武までそれは続く、私見、平家滅亡が1185年、元和偃武が1615年、570年戦争なのです。いつまで戦争やってんだよという感ですが、英国人が日本の歴史を知ると、なんやこれ英国と同じやないかと思うそうです。


【写真】金沢城/SONY DSC-RX0

城ファンではないのですが、勢いで、加賀百万石。


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by kugayama2005 | 2018-12-31 00:33 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

持統天皇(うののさらら)=左脳的(法律制定)

額田王(ぬかたのおおきみ)=右脳的(蛇巫、詩人)


と、トンデモ本のような書き方で恥ずかしい感じですが、「農業化」による心の変化を、日本における最古級(と言っても相対的にはそれほど古くない)の文字記録が捉えていたと解釈します。


ジュリアン・ジェインズは、「イーリアス」(紀元前1000年前後に成立)によって右脳的な機能を解析しようと試みている。しかしそれはちょっと古すぎるので、その後の歴史との繋がりがわからない。私見では、旧約聖書の方が史料的価値が高いと思うけれど、荷が重い。


日本は、ユーラシアの他の地域に比べて「農業化」が多分に遅れたので、西暦600年代の心の変化、その新鮮な記録が残っているともいえる。


気になるのは、遊牧民の系統で、もしかしたら左脳化は、彼らの中でもっと早く起こっていたかもしれない。そのことを考えるには、シャーマニズムを調べなければならないけど、それはまた後で。スペインが征服する以前の米大陸先住民に、カギがあるような気がする。


【写真】名古屋城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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by kugayama2005 | 2018-12-30 01:11 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,ph.D.)の著作から、右脳・左脳の特徴を抜き書きします。(ヒトによって右脳・左脳の働きが逆の場合もありますがここでは一般的に多数派(85%程度)の場合)


右脳の働き

・物事の関係を憶える

・瞬間以外の時間は存在しない

・規則に縛られず自由

・共感や感情移入を生む

・言葉以外のコミュニケーションを理解する


左脳の働き

・言語で考える

・右脳が作り出した複雑で膨大な瞬間瞬間の情報を直線的な時間軸につなぎ合わせる

・自我(エゴ)によって自分と他者を常に比較する

・文の構文や細部を理解する


それはそうと、彼女の体験では、左脳が不自由になり、右脳は健在という状況で、宇宙と一体となったような幸福感を感じたそうです。これはいわゆる臨死体験ですね。臨死体験というのは、死後の世界を体験したわけではなく、右脳の世界を体験したということです。


【参考】ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」<Jill Bolte Taylor:My Stroke of Insight(2006)>


【写真】名古屋城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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by kugayama2005 | 2018-12-29 00:47 | 2018日記 | Trackback | Comments(2)

あれが左脳的、これが右脳的などというと、血液型占いのようでちょっと気分がすぐれないのですけど(笑。


ニンゲンの脳を実験的に扱うことはないできないわけで(以前はずいぶん乱暴なことをしていたようですが)、医療の一環として知りえた情報が分析されてきたわけです。最近では、磁気共鳴によって脳のニューロンの働きが詳細に解明されつつあるらしい。


しかし、現実に自分の右脳・左脳がどう働いているのかを、分離して体験することは不可能です。が、ここに、ジル・ボルト・テイラー(Jill Bolte Taylor,ph.D.)という脳科学者の著書があります


彼女は、左脳に出血を起こし、左脳の機能が失われていく体験をし、一命はとりとめ、その後時間をかけて回復しました。その体験を克明に伝えています。脳科学者が、自分の左脳が破壊されていくことを観察するという体験です。


彼女は、その過程において、左脳的・右脳的な働きを理解したのです。


【参考】ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」<Jill Bolte Taylor:My Stroke of Insight(2006)>


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。


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by kugayama2005 | 2018-12-28 01:31 | 2018日記 | Trackback | Comments(4)

うののさらら(後の持統天皇)

・西暦645年生まれ

・出自 父は後の天智天皇、母は蘇我氏の名門

・子 草壁皇子(天武天皇の皇太子)


ぬかたのおおきみ(額田王)

・西暦627年頃の生まれ(推定の根拠なし)

・出自 地方豪族(吉野裕子説では蛇巫女)

・子 十市皇女(父は後の天武 天智の子・大友皇子の妻)


うののさらら(鸕野讃良=後の持統天皇)が、父天智、ぬかたのおおきみ(額田王)を激しく憎み、反面、己の子や孫に愛情を注いだというよくある説は、私見では正しくないと思う。


うののさららは、誰からも愛される姉と、言葉を発しない夭折することになる弟とともに、母を喪って祖母斉明天皇に引き取られた。(後の)天智天皇の子であり、母は蘇我系の長老の娘という良血だ。しかし自身が将来、天皇になるという機会はまったくないようだし、希望もなかった。


そして祖母斉明天皇に接して、苛烈な政治の実態、その律動するプロセスの知識を、幼児期から叩き込まれた。知識だけではない、百済救援の軍船で、祖母、父、夫らとともに九州に航海し、数年とどまった。庇護者、祖母の崩御。そしてその地で長男を出産した。敗戦による混乱、そして帰京。夫(後の天武天皇)は戦後処理のため、長く九州から帰れなかった。


かまたり(後の藤原)のような、実力派官僚との接触もあったはずだ。そして、ぬかたのおおきみ(額田王)との交流もあったはずだ。ぬかたのおおきみ(額田王)は、うののさららより、(だいたい)18歳年上。祖母の軍船に乗って西下する航海の時、15歳の彼女の目に映るぬかたのおおきみ(額田王)33歳は、冷徹な彼女(うののさらら)にしても圧倒されるものだった。憎しみの対象にはならなかった。


彼女(うののさらら)は、ーー「(自分たち)娘4人セット」が「美女詩人(ぬかた)ひとり」と等価であるーーという現実を直視した。しかし、自分たちより4倍の価値がある天才詩人を憎む理由はない。


さて、いろいろ書いてきましたが、ちょっと後戻りして、


「ジュリアン・ジェインズや、スティーヴン・ミズンによって指摘されたこと(農業化によってニンゲンが変化した)を踏まえれば、この時期のニンゲンは経済基盤の変遷に並行して、心的動揺にさらされたということになる。その結果、自然の声を聞いていたニンゲンに自然の声が聞こえなくなり、その代わりに「水田稲作イデオロギー」に支配されたのではないか。(2018日記【076】2018-11-30)」というところを思い出します。


持統天皇こそが、左脳的と言えるのではないでしょうか。


それに対し、額田王(ぬかたのおおきみ)はあまりにも右脳的です。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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by kugayama2005 | 2018-12-27 00:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(2)

ぬかたのおおきみ(額田王)と、うののさらら(後の持統天皇)との関係。「うののさららは12歳になると、1年年長の姉おおたとともに(あるいは姉に1年遅れて)、後の天武天皇と結婚するが、それは「後宮に入る」ということ」と書きました。


しかし、具体的に「後宮」というものがあったのかどうか、よくわからない。が、そこ(後の天武の後宮)に、ぬかたのおおきみ(額田王)がいた。そして、(天智の娘である)おおた+うのセットが、叔父(天武)の後宮入りした際、ぬかたのおおきみ(額田王)と引き換えのように交換されている。


「おおた+うののさらら」+α(計4人)

天智(兄)→→ 天武(弟)


「ぬかたのおおきみ」

天武(弟)→→ 天智(兄)


レヴィ=ストロースは、「結婚とは女の交換だ」と指摘しているが、おおた+うのは、まさに交換の玉になった。この交換トレードは、天智(兄)・天武(弟)間で何か得るものがあったかというと、


天智(兄) 「美女蛇巫詩人」ひとりを手に入れた

天武(弟) 「次代天皇の娘」よにんを手に入れた


◾️あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る


ぬかたのおおきみ(額田王)の有名な万葉歌です。「ほんのりと茜色をしている紫草の野、そこは朝廷の御料地、あなた(天武)がそこでそんなに私を欲しがるなんて、野守(天智)が見ているでしょ?」(ちなみに古代では、貴人でも野原で男女がいちゃいちゃするのが普通だったらしい)


というわけで、天武としては「美女蛇巫詩人」を手放した(奪われた)ことが、後々までの痛恨事だった。しかし、「天皇当選確実の天智」の「娘4人セット」獲得は、天武、あるいは天武系にとって、天皇に次ぐ地位がほぼ約束されたことになるので、天武にとっても悪い話ではなかったらしい。


それはともかく、「娘4人セット」のセット売り(独禁法違反)の玉になった娘たちはどうだったのか。他の3人はともかく、うののさらら(後の持統天皇)はどうだったのか。


このことで、うののさららは父(後の天智天皇)を深く憎むようになったという説もある。私見ではそれよりも、12歳の少女が、もともとそういう性格であったが、さらに世の中に冷徹な視線を向け出したと考えたい。


特に、「娘4人セット」が「美女詩人ひとり」と等価である(しかもそれを父と叔父(夫)が量った)という現実を直視したことは、彼女にとって大きな出来事だったろう。ぬかたのおおきみ(額田王)が、熟田津でも脚光をあびている時、どう感じていたか。後に、持統天皇として柿本人麻呂を称揚しているのも、(美貌や詩才や呪力ではあの人にはとてもかなわないという)心の傷を感じさせる。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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by kugayama2005 | 2018-12-26 00:55 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

斉明天皇の軍事行動(北方攻略・百済への援軍派遣)から推察すると、東国・西国の実力者は、天皇政権にほぼ協力的になっていたようだ。協力的ということは、現実的なメリットを感じていたということだろう。


天皇ファミリーを引き連れての九州行きは、当然、募兵をしながらというものだ(したがって敗戦処理も困難を極めることになる)。


◾️熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


ぬかたのおおきみ(額田王)の有名な万葉歌ですね。にぎたつ(熟田津)は温泉の出る港、という地名から、道後温泉あたりかと推察されています。


ぬかたのおおきみ(額田王)は、後の天武天皇の最初の妻であり、この航海の前にはすでに、とおちのひめみこ(十市皇女)という天武にとっての初の子を生んでいる。言わずと知れた、ずば抜けた美貌と詩才に恵まれた女性だが、吉野裕子先生は、ぬかたを、蛇巫(だふ)と推察している。


蛇巫とは何か、というと蛇神と交わり、子蛇を産む巫女であり、古代日本では大きな影響力を持つということになるらしい。


斉明天皇の軍船には、斉明天皇、(後の)天智天皇・天武天皇兄弟と、おおた・うの姉妹のような若い妃たち、ぬかたのようなスターも乗っていたわけだ。そのような船に寄港されれば、進んでか渋々かは別として、地元の実力者は協力しないわけにいかない。


◾️熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな


この歌の語尾は、同意をうながすものである。天皇家の嫁といえどもそんなこと出来ない。蛇神の巫女ぬかたが、義母斉明天皇になりかわっているのだろう。うののさららの視線は、そういうぬかたをどう捉えていたのか?


さて、この歌の「月」はどういう月?、という疑問があるけれど、道後温泉あたりから九州方面に船で行くわけである。だから、西へ流れる強い潮が好都合だ。ということは、満月(大潮)に近い月が西に没して行く頃、早朝ではないかな? 月待てばを、東の空に昇ってくる満月に近い月と解釈すると、潮流は逆流になってしまうのでは?


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。駿府城、発掘中。


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by kugayama2005 | 2018-12-25 03:50 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

3 うののさらら

◾️九州行きから敗戦まで


・西暦660年(15歳) 斉明天皇は百済救援のため軍を発し筑紫朝倉宮に遷幸。うののさららも夫とともに同行する。

・西暦661年(16歳) 祖母斉明天皇が筑紫で崩御

・西暦662年(17歳) 草壁皇子を筑紫で出産

・西暦663年(18歳) 白村江の戦いで大敗


祖母斉明天皇の庇護のもとに成長した、おおた、うののさらら姉妹は、斉明天皇、父(後の天智)、叔父であり夫(後の天武)らとともに九州へ向かう。


斉明天皇がいかに特異で、激しい政治的人間だったかが垣間見える。軍船に天皇ファミリーを乗せて、難波津から九州まで押し渡り、百済救済の軍を督戦する。2人の息子を従え、実務に当たらせる。


この九州行きの直前には、北方に派兵し、東北の勢力を攻撃して、アイヌ以北の粛慎人とも交戦させている。


しかし、斉明天皇は、軍が渡海する前に九州の地で崩御。


うののさららは662年に草壁皇子を、姉おおたは663年に大津皇子を九州で出産した。


白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗し、戦争は終わる。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は駿府城を陥すが、その後、江戸への国替え。晩年、家康は駿府城に戻り逝去。駿府城跡は今、発掘中。


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by kugayama2005 | 2018-12-24 00:56 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

2 うののさらら

◾️母の死から結婚まで


・西暦651年 母を喪った姉おおた、弟たける、うののさららの3人は、祖母である退位した京極天皇(父の母)に引き取られる。

・西暦655年 元京極である祖母が斉明としてふたたび天皇に(重祚)

・西暦657年 後の天武天皇(叔父)と結婚

・西暦659年 弟たけるを喪う


うののさららが、6歳から12歳までの間、京極・斉明天皇という特異な祖母のもとで育った意味は大きい。ほとんど彼女の方向性を決定づけるようなものだったろう。


京極・斉明天皇の孫に対する情熱は、主に姉おおた、弟たけるに注がれた。うののさららは、添え物程度という見解もあるが、おそらく彼女の冷静な性格が溺愛の対象にならなかったのだろう。うののさららは、優しい姉の影にいて、じっと経験を積み重ねていった。


うののさららは12歳になると、1年年長の姉おおたとともに(あるいは姉に1年遅れて)、後の天武天皇と結婚するが、それは「後宮に入る」ということで、後宮の女性たちは、のべ10人くらいらしい。その10人の女性から生まれた子は、16人くらい。


姉おおたが序列1位、うののさららは2位。蘇我氏系の良血姉妹だったのだ。


【写真】駿府城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は駿府城を陥すが、直後江戸への国替え。晩年、家康は駿府城に戻り逝去。


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by kugayama2005 | 2018-12-23 00:02 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

持統期は、農業(水田稲作)化と成文法の制定が、天皇国家イデオロギーとともに一気に成熟しようとした。そのすべてを、うののさらら(持統)が掌握していた。その特異な才能は、どのようにして開花したのか。


少し迂遠になるけれど、うののさらら年表を補完していく。


1 うののさらら

 ◾️誕生から母の死まで

 

・母 おち(遠智)いらつめ(娘)


・西暦644年 姉 おおた(大田)ひめみこ(皇女)誕生

・西暦645年 次女うののさらら(鸕野讃良)ひめみこ(皇女)誕生

・西暦651年齢 弟 たける(健)おうじ(皇子)誕生


うののさららを取り巻く身近な環境は、母、姉、弟の3人だ。もちろん父は(後の)天智天皇ではあるが、一緒に暮らすわけではない。


うののさらら誕生の西暦645年とはどういう年か?、というと「乙巳の変」だ。「乙巳の変」とは言うまでもなく、うののさららの父が、京極天皇(祖母=斉明天皇と同一人物)の面前で蘇我入鹿に斬りかかり、殺害した年だ。


うののさららの母、おちいらつめ(遠智娘)は蘇我系の出身で、父は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだの いしかわまろ)という。石川麻呂も入鹿謀殺の支援者であり、その現場にいた。(4年後に誣告により自殺)


「日本書紀」の記述はあえて忘れるとして、蘇我系の長老・石川麻呂を支持者に巻き込み、蘇我の巨魁・入鹿を討つという手法は、時間をかけて練り上げられたものだろう。石川麻呂が自殺に追い込まれるのも、計画の一環だ。


おちいらつめ(遠智娘)が2人の娘を産む間、この計画は進んでいたのだ。京極天皇(後の斉明天皇=「おおた・うの」姉妹の祖母)は、目の前での惨劇に動揺し、翌日、天皇を譲位した。というが、天皇が息子の計画を知らないわけがないと思う。


それ以上に、おちいらつめ(遠智娘=おおた・うの姉妹の母)の受けた衝撃は激しかった。おちいらつめは、その4年後に父石川麻呂を謀殺され、6年後、末子たける(健)おうじ(皇子)を産むと病死した。たける(健)は、言葉を発しない子どもだったという。


吉野裕子先生は、「祖父の非業の死と、母の狂死は、父(天智)への憎悪となって(持統の)生涯を支配した」(1986年刊『持統天皇』)と書かれているが、私はどうもそれより、うののさららの冷徹な視線を感じてしまうのだが。


うののさらら

・誕生 父が蘇我入鹿を朝廷で謀殺

・4歳 祖父(母の父)が誣告により自死

・6歳 母が(吉野先生のいう)狂死


 ※満年齢は単純計算


【写真】掛川城/SONY DSC-RX0

ふと思い立って、徳川家康に縁のある城を見に行きました。家康は浜松城を本拠地として義元なき今川領を圧迫、掛川城を奪取した。


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by kugayama2005 | 2018-12-22 01:32 | 2018日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005