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◾️三種の神器


言わずと知れた、

曲玉

であり、アマテラスが、下界の世の中がまあまあ安定してきたので、孫のニニギを降臨させることにした。その時に持たせたのが、玉、鏡、剣だという。


藤原不比等らの創作が含まれている、という説がある。玉はもともと含まれていなかったが、不比等らが挿入したのではないか、とも言う。


金属の鏡や剣は、もともと列島にはなかった。したがって、葦原ナカツクニに何度も天から先遣隊を送り込み、さて頃合いかという時に、鏡と剣を持たせて孫を派遣したアマテラスさんって?、ガイジンなの?、という疑問が浮かんでしまう。


銅鏡銅剣が列島に持ち込まれ出したのが、紀元前200年くらいとして、そうだとすると、アマテラスはたいへん最近の神さまになってしまう。


天孫降臨が、もっともっと古い時代だということに即すと、アマテラスは大陸の異国から銅鏡銅剣を調達していたことになる。


日本書紀編さん時にも、そのことが問題になったのだろう。アマテラスの時代に、銅鏡銅剣があったのだろうか。しかもそれらは、天孫と他の(天孫に仕えるべき)有力者を区別する、最重要アイテムなのだ。


そこで、曲玉というわが国最古の宝を、付け加えた(のではないかという説もある)。


剣については、天皇さえもその実物を見てはいけない。しかし、ある者が盗み見たところ、それは銅合金の矛だったという。見てはいけないということは、もしそれを見ると、たちまち「アマテラスの時代にこんな剣があった?」という疑問がふつふつと湧いてしまうからなのだろう。


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-21 03:30 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️七支刀(しちしとう)2


七支刀の意義は、


1大陸から伝わった七支刀が、百済で複製され(あるいは文字を追加され)、「倭王のためにこれを造った」と印されている


百済の使者が、「七枝刀」を持参し、神功皇后に献上した、と、日本書紀に明記されている


実物の「七支刀」と思われるものが、明治の始めに、物部氏の武器庫(奈良県天理市の石上神社)から見つかった


このように、古代の大陸、半島、列島で、特定の物とその年代が、時空を超えて認識された例は、他にない。


一方、神功皇后の成果は、日本書紀によると、常に武内宿禰の全面的な協力によって、成し遂げされている。宿禰というのが身分の高い文官を補佐する、武官だとすれば物部氏との関係は?、という疑問が生じる。妄想たくましい古代史ファンも、武内宿禰には手を焼いているようで、そのうち挑戦したい。


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-20 02:58 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️七支刀(しちしとう)2


百済が七支刀をくれたのは、百済が鉄を産し、製鉄・精錬をし、金で文字を象嵌できることの(原型は大陸からもらったにしても)誇示ですが、百済が、見返りとして求めたのは、新羅との戦争に至った場合の軍事協力でしょう。


今の言葉で言えば、片務的な安全保障と言い得ます。日本が百済を救う事態は想定できますが、日本が例えば新羅に攻撃されて、百済が救援に駆けつけるということはないように思えます。


したがって、日本は百済との同盟をたてに、高句麗まで遠征して、それを当然の権利として片務性の穴埋めとした。


七支刀が発見されたのは、物部氏の総氏神を祀る石上神社(奈良県天理市)。金象嵌の文字も錆に埋もれ、1874年まで意義は忘れ去れていた。


七支刀が372年の時点で、百済王から「倭王」に贈呈され、日本書紀の記述から、その倭王を「神功皇后」とした場合、強力な天皇ファミリーの政権が、畿内ヤマトに存在していることになる。


そうなると私は困る。なぜなら、天皇ファミリーの広域政権が実際に誕生するのは、663年の白村江の戦い以降、というのが私の妄想のキモだから、(笑。


抵抗を試みる。


372年当時、畿内ヤマトは、武内宿禰一族の支配下にあった。

武内宿禰は数代続いた畿内ヤマトの王権で、軍事力で九州ヤマト連合と拮抗していた。(武内宿禰が何者であるかはとても難しいが、物部氏や秦氏とは親密だったのではないか)


神功皇后の事績が、半島との戦争に埋め尽くされているのは、内政の事実がないからだろう。


そういう状況下で、北九州に百済の使節が七支刀を土産に持ってきた。接遇するのは、物部氏だ。物部氏が、それを渡す相手が、すなわち倭王だ。物部氏は進上物の奇妙な刀を見て、怪訝であったが、金属製品に詳しい秦氏に預けて研究させた。結局は、物部氏は、七支刀を自分の武器庫に放り込んで忘れてしまった。


しかし、その研究成果は、鉄剣に文字を象嵌する日本製の刀として現れた。(埼玉県行田市稲荷山古墳、推定471年)、(福岡市元岡古墳、推定570年)。


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-19 00:02 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️七支刀(しちしとう)


七支刀の意義は、


1「百済王が倭王に贈呈した」ことと年号が、刀身に金象嵌で明記されている

日本書紀の神功皇后52年には、百済の使節が、「七枝刀(ななつさやのたち)を献上したと書かれている。

諸説あるが、七支刀が日本に来たのを、372年と仮定する。


辰韓消滅 356

七支刀 372

広開土王碑 391


ここには何らかの連続性がある。


当時の百済の使者は、「山で鉄鉱石を採っている」と言っている。それは、辰韓の秦人が西域から持ち込んだ、製鉄技術だ。そこで製造された鉄材を、倭人も買い求めていた。鉄材は「ねりかね」と呼ばれもし、精錬されていた。


列島では鉄鉱石も発見されず、製鉄はできなかったので、鉄板である「ねりかね」を入手して加工していた。(後に砂鉄や隕鉄から製鉄が可能になった)


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-18 20:26 | 2019日記 | Trackback | Comments(2)

つまり、私は、斉明(天智・天武)持統期の日本書紀の記述内容は、ほぼ事実に「由来する」と考えたい。潤色や、強引な編集はもちろんあるが、それはまた別の話。


その時期に至るまでの、私的妄想のまとめ。


1 九州ヤマトにおいても、畿内ヤマトにおいても、後に天皇ファミリーを形成する氏族は、政治的・軍事的な大勢力ではなかった。(時代的には倭国が騒乱する時期)


2 九州ヤマトと畿内ヤマトの抗争は、全面的な軍事衝突ではなかった。しかし、抗争を通じて明らかになっていったのは、鉄器が青銅器を大きく(武器としても農具としても)凌駕するという事実だった。(時代的には九州ヤマト連合の誕生=ヒミコ)


3 畿内ヤマトは、海の物部氏、そして辰韓滅亡前後に渡海してきた秦氏と、強いネットワークを維持していた。そのネットワークは、通商網であり、情報網だ。(神武東遷と畿内ヤマトの誕生)


4 商品や情報の蓄積・流通は、広い固定地を必要としないので、負担なく全国展開が可能だった。軍事力に過度に依存することも回避できた。(ヤマトタケルの事績=大規模な戦闘はない、人間関係などで連合再編、東海道の拠点整備)


このような基本理念を危うくしたのが、斉明天皇だった。戦前に斉明天皇は、筑紫で崩御し、残された天智・天武の兄弟には不戦の選択肢はあったはずだ。藤原鎌足が亡くなる時、見舞った天智天皇に対し「軍国において役にたてなかった(無務於軍國)」と語っているが、斉明天皇の計画を阻止できなかったという以上に、不戦のチャンスを逃したという意味だと私は考える。


一方、九州連合勢力は、やる気満々だったのだろうし、戦勝後の半島経営を九州連合勢力に委ねてもよい、くらいのことを斉明天皇はささやいたかもしれない。


写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-17 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

神功皇后の「三韓征伐」は、九州ヤマト連合が半島に出兵した事実を、後追いで畿内ヤマトが主力だったかのように書いているのではないか。天皇の筑紫行、皇族の出産譚など、白村江の戦い時と似ている。


畿内ヤマトは、広開土王碑に記されたことについて、具体的には何も知らなかったのだろう。


ひるがえって、白村江の戦いは、畿内ヤマトにとって、自覚的な国際紛争だ。畿内ヤマトとしては、


1 九州ヤマト連合と百済が、密接な同盟国になると、畿内ヤマトにとっては死活問題

2 畿内ヤマトは、戦後の半島に「新三国時代」の均衡が生まれ、唐もそれを認知することが理想

3 九州ヤマト連合には、半島との通商の窓口としての名誉と実利を与えて懐柔


というわけで、斉明天皇が天皇ファミリーをそっくり連れて筑紫入りした迫力は、並大抵の覚悟ではなかった。


しかし、思惑はすべて崩壊。その原因は、唐の「新羅と組んで半島を統一する」という戦略について無知だったからだろう。唐は、日本からの遣唐使を軟禁して、周到に情報漏れを防いでいた。


畿内ヤマトとしての戦後は、敗戦による九州ヤマトの無力化という、余禄があったといえる。「磐井の乱」のような親半島・反畿内ヤマト的な勢力はなくなり、「熊襲討伐」も必要でなくなった。


畿内ヤマトは、対半島・大陸の戦後処理を、筑紫で丁寧にこなした。私の妄想では、(後の)天武天皇が戦後処理のリーダーであり、壬申の乱であらわれた人望もそこでつちかわれたと思う。サポートしたのは古くからの官僚や、海人の有力者と、古い時代の渡来人である秦氏ではなかったか。どうも百済の亡命貴族は、仕事に向いていないように思いますが。


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-16 00:04 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️九州ヤマト(倭国)と、近畿ヤマト(日本)の半島へのアクセス 2


承前、九州ヤマトからと思われる度重なる渡海、新羅攻撃。


神功皇后条を例にとれば、各国に軍船の拠出を命じ、さらに兵を集めた、とある。実情は、傭兵だったのだろう。当然、支払いの多くは、分取ってきたものが原資となる。


この事情は、白村江の戦いにおいても変わらないと見たいが、白村江の戦いは東アジアの覇権戦争だ。神功皇后の、金銀財宝の掠取を目的とする局地戦とは、まったく違う。


斉明天皇崩御(7月)直後のできごと、


1 日本で人質になっていた豊璋を、百済に送り王位につけた(9月)

2 唐とトルコ系の連合軍が、北方から半島に侵入し、高麗を攻撃した(12月)

3 日本は百済を防衛しつつ、百済の実質的な統率者である鬼室福信に、新羅と戦わせ使い捨てにするつもりだったのではないか

4 北方からの唐・トルコ系連合軍が、高麗を占領し、西方からの百済・日本連合軍が新羅を圧迫すれば、戦後の均衡が生まれるだろう

5 ところが高麗は善戦し、唐との戦線は厳冬の中、膠着し、唐軍の兵は寒さに飢え、凍えるばかり(唐は河川が凍結する厳冬期、大型の攻城機を前進させた。)

6 それを見た新羅は、高麗を南方から攻撃し、高麗は唐軍と新羅軍に挟撃される事態となり、日本軍に救援を求めた(3月)

7 日本軍は、唐軍と新羅軍を分かつ要衝に布陣し、高麗を掩護した(3月)

8 国の西辺を百済と日本軍に破られた新羅は、高麗攻撃を中止し、目標を百済に変更して対峙(おそらく唐・新羅連合で百済・日本軍を排除する方針が決まった)

9 百済で防衛方針(居城の選定)をめぐり混乱(12月)

10 百済豊璋王が、実質的な百済の統率者である鬼室福信を殺害(翌6月)  ※おそらく離間工作があったのだろう

11 新羅は、鬼室福信の死を知って百済攻撃を開始(8月13日)

12 唐水軍が、西海岸に先着していた日本水軍を撃破(8月27日)  ※百済王豊璋は船で高麗に逃走しその後行方不明

13 百済降伏(9月7日)

14 生き残った百済貴族たちの一部は日本船で脱出、亡命した(9月25日)


【写真】植物園

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by kugayama2005 | 2019-04-15 04:30 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️九州ヤマト(倭国)と、近畿ヤマト(日本)の半島へのアクセス


前掲、九州ヤマト(倭国)の新羅に対する攻撃を、後代の倭寇のごとしと書いたが、最近、倭寇についての新しい説を、読みかじった、


1 倭寇が起こったのは、南北朝時代(鎌倉と室町のはざま)である

2 活動資金に困った南朝側が、政治資金調達のため(間接的にでもあれ)、倭寇を資金源にしたのではないか


なるほど、と思いました。商船は、時に海賊船に変身しがちですが、最初から奪えるものなら奪ってしまえ、というわけです。


神功皇后への神託、「海の向こうにまばゆい金銀がたくさんある。それを新羅の国という。山に登れば海上に見える」、すなわち、新羅に行って金銀財宝絹織物を取ってこよう、というわけです。ということは、百済には大したものはなかったのか。(日本書紀の神功皇后条には、新羅の貢物が良いか、百済の貢物が良いか、という節がある。また、傾向として新羅には金銀のイメージが、百済には鉄のイメージがある)


神功皇后の夫、仲哀天皇は、「山に登って海の彼方を見たが、国なんてありません」と言うと、また神が神功皇后に託宣し、「国がないなどと神をそしるのか。(新羅行きを)実行しないなら、天皇失格だ」とマジギレ。


仲哀天皇は、神の言葉を無視して、熊襲討伐に失敗。その後、急病で崩御。事の詳細は不知としても、神功皇后の目には、金銀財宝が光り輝いていたこと、間違いなし。「山に登って見たが新羅なんてありゃしない」という真面目な仲哀天皇がしのばれます。


ところで子どもの頃、桃太郎の話を読みまして、それはまあ結構なのですが、最後に桃太郎が、鬼から取った金銀財宝をリヤカーに乗せて帰ってくるところには、何か違うんじゃないかと密かに思っていました。


【写真】アオサギ劇場

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by kugayama2005 | 2019-04-14 00:14 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️九州ヤマト(倭国)と、近畿ヤマト(日本)の半島へのアクセス


単純に新羅の歴史書や、日本書紀に現れた表現を比較(ごく一部の抜書き)


◾️九州ヤマト(倭国)と思われる時代


 ・西暦14年  倭人、兵船100余隻で海辺の民家を襲う

 ・西暦122年  倭人が襲ってくるという噂が流れる

 ・ 西暦232年  倭人、金城(新羅の都=現在の慶州市)を包囲する

 ・西暦253年  倭王、将軍于道を遣わし新羅を討つ

 ・西暦295年  倭人、城や村を犯す

 ・西暦346年  倭人、金城を包囲する

 ・西暦393年  倭人、金城を包囲する

 ・西暦405年  倭人、明活城(金城の支城)を攻める

 ・西暦444年  倭人、金城を包囲する

 ・西暦477年  倭人、五道に来侵する

 ・西暦663年  白村江の戦い

 ・西暦668年  唐が倭国を攻めると見せかけて新羅を滅ぼすという噂が流れる


 ※以上はすべて新羅本記による

 ※何度も首都を包囲するなど、倭の執拗な攻撃。倭人の構成は単一ではなく、九州各国のさまざまな組み合わせだったのではないか。後年の倭寇を思わせる暴れぶり。


◾️近畿ヤマト(日本)と思われる時代


・西暦759年  亡命新羅人の送還

・西暦760年  帰国しない新羅人を武蔵国に配流

・西暦668年  天武天皇の遣新羅使

・西暦687年  帰化新羅人を武蔵国や下野国に配流

・西暦731年  日本国の軍船300隻東辺を襲う

 ・西暦786年  日本王が新羅を討とうとするが、新羅に万波息笛(新羅王朝の宝物の笛)があると知り、軍を撤退させて金50両で笛を買おうとする

 ・西暦804年  日本が金300両を進上する

 ・西暦882年  日本国王が金300両と珠10個を進上する


 ※上の4記事は日本側の記録、下の4記事は新羅側の記録、

 ※百済からの亡命貴族と比べると、新羅人には冷たい扱い。天武天皇は親新羅路線だが、「金300両」進上は日本側の記録にはない。後の882年はもう菅原道真の時代で、唐への関心すらなくなっていた。この時期の献金は、貿易取扱を狙った者が、日本国王の使いと称して贈ったものではないか。当時は新羅商人が大活躍していた。


※日本の使節が、「国号を日本に改めました」と言ってきて(新羅本記670年12月条=倭國更号日本 自言近日所出 以為名(倭国が国号を日本と変えた。日の出る所に近いから、(日本と)名付けたと彼らは言う)、それ以降、新羅本記は倭という表記を一切やめて、日本と表記している。真面目な官僚制。


【写真】アオサギ劇場

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by kugayama2005 | 2019-04-13 05:37 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

広開土王碑(高句麗が倭軍を撃退したという碑文)が建てられる40年ほど前、辰韓消滅(356年)という歴史があった。


辰韓とは、おそらく秦韓の意であろう。秦国の圧政に耐えかねて、秦人が半島に亡命してきて、国をつくった。当時の半島南部はのどかだった。後漢書などにいわく、


1 秦国から亡命者が苦役を逃れて、半島にやってきた。

2 馬韓(後の百済のあたりの国)は、自国の東部の土地を、亡命者に割譲して与えた。

3 亡命者の言語は、秦語に似ている。ゆえに、彼らの国を秦韓と呼ぶことにした。

4 彼らの土地は、肥え美しく、五穀が実った。

5 養蚕をして、目の細かい絹織物の作り方を知っている。

6 牛馬に乗って婚礼の儀を行い、その際は、皆道を譲る。

7 製鉄を行い、濊(わい=半島北部の民族)人や、倭人、馬韓人は列をなしてその鉄製品を買った。

8 もろもろの交易は、鉄製の貨幣で決済した。

9 弁辰と秦韓は、同じ城に雑居していた。その両者は、衣服は同じでも、言語や風俗は違うところがあった。

10 彼らは身長が高く、髪は美しい。衣服は清潔だ。

11 刑法は厳しかった。


これだけはっきり書かれているのだから、妄想は不要だろう。養蚕や機織り、製鉄や鋳造貨幣、刑法の概念などを携えて半島へ、列島へ来たのは秦人だ。


半島の戦乱を経て、高句麗、新羅、百済の三国時代となる。新羅と百済に挟まれた秦人や倭人の居留地は、多くは百済に併合されていったのだろう。


秦人は倭人の近くにいたわけで、交流もある。秦人の国や倭人の居留地が百済などに併合された後、さらに新羅の攻撃によって百済が進退窮まると、列島移住も選択肢になった。


秦河勝(推定567年ー推定650年)は、そうして移住してきた一族で、製鉄、貨幣鋳造、養蚕、絹織物、法の知識などをもって、聖徳太子の懐刀になった。


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by kugayama2005 | 2019-04-12 02:17 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005