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さて、

◾️ジュリアン・ジェインズによる「二分心」(Bicameral Mind)の喪失=神の声を聴く「脳」の喪失。そして、神というものへの確信が揺らぎ、消えていく。


その契機は、

  言語の発生

  文字の使用

にあるのか?


そして「イーリアス(ギリシア神話の叙事詩)」にジュリアン・ジェインズは、「二分心」(Bicameral Mind)の典型をみているが、


  古代ギリシア人が、「二分心」の典型なのか?

  詩人(ホーメロス等)が、「二分心」の典型なのか?


という疑問が、この列島に照らし合わせて浮かんできます。


イーリアスは紀元前1,000年以上からの歴史を持ち、文字化されたのも2,000年近く前であり、その後、アレキサンドリアの学者が紀元前200300頃に念を入れて校訂したものだという。


つまり、イーリアスをもって「二分心」(Bicameral Mind)の典型を考察することはできるが、書物として記録されたイーリアスに「二分心」の事実を求めるのは無理があるのではないか。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-25 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

馬韓は、東方の土地を亡命者(秦人)に割譲した


どうも太っ腹な馬韓ですが、「翰苑(かんえん)」という書物(後漢書等から転記)によると、


馬韓の人は、金銀錦などを貴ばない

牛馬に乗ることを知らない

玉を重要視し、衣服や体につける

田植えの時期、鬼神をまつり、昼夜酒宴を催し、みんなで歌い踊る

秋の収穫時も同様


これは私的妄想で言うと、倭人そっくりです。というより、半島南部はほんらい、(大陸からみて)倭と似ているものと思います。というのは、魏志にいわく、「韓は帯方の南にあり、東西は海で限られていて、南は倭に接している」。


「東西は海に限られている」と正確に認識されており、続いて「南は倭に接している」ということは、半島の南辺は、「倭」だということになります。


北方から南下してきた人たち、すなわち、辰韓の秦人や、高句麗、新羅の人たちは、金属を貴び牛馬に乗りますが、


倭人や馬韓人は、

もともと金属や乗馬を知らず

玉を貴び

田植えや収穫の祭りで飲酒し、歌い踊る(つまり北方系の人たちは、そういうことはしない)


というわけです。倭人や馬韓人は、秦人などの金銀鉄をみて、また乗馬する姿をみて、それらを取り入れるため、秦人などの移住を歓迎し、秦人も、倭人や馬韓人を良い顧客と判断したのではないか。


どうやら半島においては、北方から流入した「畑作」民(辰韓)と、南方から流入した「水田稲作」民(馬韓)とが接していたようです。


さらに、近年になって揚子江流域に巨大な文化圏(長江文明)があったことが判明した。半島・列島へ中華文明が伝播した的歴史観が相対化されて、むしろ南方からの「水田稲作」が深層を形成したと考える方が自然ではないだろうか。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-24 00:07 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️辰韓での秦人との鉄材取引を空想


これは「翰苑(かんえん)」という書物によったもので、実は空想ではありません。翰苑とは、太宰府の保存していた写本ですが、中国の周辺民族について、諸本から抜き書きしてあるものです。奇妙といえば奇妙な本なのですが、太宰府(外交拠点)としては、大陸そのものもさておき、東アジア周辺国の実態にすこぶる興味があって当然ですね。


秦人については、後漢書から引用していて、内容は、


(始皇帝の)秦国の苦役を避けて、(秦人が)韓国に亡命した

馬韓は、東方の土地を亡命者(秦人)に割譲した

秦人は秦語に似た言葉を話し、(邦を)秦韓(=辰韓)とした

五穀豊穣の土地であり、養蚕をし、鉄を産出した

濊(わい=半島北方の国)、倭、馬韓(の商人は)順番待ちをして鉄を買った。

秦人は鉄の貨幣を用いた

秦人は牛馬に乗り、身長は高く、髪が美しい


つまり、倭国の商人はいちはやく辰韓の産出・精錬する鉄を買い求めるため、北方の濊国や、馬韓の商人と競い合っていた。(それがいつの頃かというと早くて紀元前3〜4世紀。この時期の半島南部には北九州で出土する弥生式土器が発見されているらしい。)


その過程で、秦人の乗馬も見たし、養蚕も見たわけだ。貨幣経済も知った。買うのは鉄材だけではなく、真綿や、馬、馬具も仕入れただろう。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-23 00:01 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

例えば、辰韓での秦人との鉄材取引を空想してみよう。辰韓とは、始皇帝の強権支配を忌避して南下し、半島に移住してきた秦人の国だ。


秦人とは、ペルシア商人だという魅惑説もあるけれど、それはさておき、政治には関係したくない人々であるらしい。半島が三国時代(高句麗・新羅・百済)に入ると百済に併合される。彼らは取引先のひとつだった倭人に誘われて、渡海もしただろう。


倭人は辰韓にある秦人の店に行って、鉄材を購入する。あるいは秦人は養蚕の技術者でもあったので、絹を購入する。その際のやり取りは、まず漢字の表記から始まるだろう。


漢字は、鉄材の輸入とともに列島に入ってきた、というのが私的妄想。


その後の、列島での漢字魔改造によるカナ文字(アルファベット)の創作も、文字の日常化をもたらした。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-22 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

◾️神というものへの確信が揺らぎ、消えていく


ジュリアン・ジェインズの「二分心」(Bicameral Mind)は、ニンゲンの意識と言葉との関係について述べているのであって、言葉と文字との関係にはあまりふれていないと思うが、再確認したい。


言葉の発生というあいまいな現象ではなく、文字の発生が「二分心=Bicameral Mind」の衰退、すなわち神の声を聴くことが「できない」脳をつくったのではないだろうか。


世界史の視点では、文字の発生は歴史的事実として捉えにくいが、日本ではあきらかに、大陸から輸入しました、あるいは大陸から文字を知るニンゲンがやってきて、文字を使うようになりました、ということがわかっている。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-21 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

折口信夫は「鎮魂歌は舞踊を伴う歌詠」であり、本来、「うた」ではなく「ふり」と言われる、と書いている。それが時代とともに、「ふり」も「うた」に吸収されてしまう。


その過程には、おそらく文字の採用があったのだろう。文字で記録すると、「ふり」も「うた」になってしまう。


さらに、

◾️「ふり」は、「神に奏上するもの」であり、

◾️「うた」は神になりかわって「宣下するもの」

だという。


これらの区別があいまいになるのは、すなわち人にとっての神というもの、その確信が揺らぎ、消えていくからに違いない。


【写真】東北本線(小牛田盛岡)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-20 00:00 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

奇跡的に残った初期歌踊の本質が、観阿弥世阿弥にあるとして、しかし、応仁の乱、全国的な戦国とさらに時代は武力におおわれていった。


そのことはさておき、やはり初期歌踊の時代というのは、非文字にあり、万葉集で言えば第1巻の柿本人麻呂までであり、奇しくも日本書紀で言えばそのもの、つまり持統期までだと思う。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-19 02:45 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

今様はもちろんのこと、田楽や猿楽なども、在野から宮中に浸透していったわけで、さらに後の武家政権では積極的に支持された。


猿楽(観阿弥世阿弥)は足利義満によって、今日に伝わる寂滅が主調となった。足利義満は、私見、源氏の総大成者だ。対大陸貿易など、多く平清盛を意識しているが、文化面では平家物語の世界観に共鳴しているようにみえる。


平家物語は、源氏による長大な平氏鎮魂歌であり、今日では読むものと認識されているけれど、実は琵琶法師によって演じられるものだ。


足利義満は、平氏の鎮魂から離れて、表現に広く生死の世界を求め、その意を汲んで観阿弥世阿弥が猿楽を大成したものと思う。


義満の死後、世阿弥は追放されたが、猿楽の世界が残ったのは、武家政権の背景に抜き差しならない生死感が存在していたからだろう。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-18 01:12 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白拍子と今様の組み合わせは、確かにそれまでの雅楽とは違って、心躍るものだったかもしれません。


メロディーは、越天楽の応用だったらしいです。


越天楽と言っても実感がわかないかもしれないけど、現代に生きてている越天楽歌謡は、黒田節です。


また、今様は、7音5音を繰り返す形式なので、日本語の歌謡の基本とも言えます。


そこに男装の巫女風麗人が登場するわけですからね。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-17 00:58 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

白拍子は朱のハカマをはいているので、巫女風と言っていい。その白拍子は、刀を差して男装しているので、これもまた妖しいのだ。


(後の)後白河帝は、皇位継承など回ってくるはずもない身だったので、大いに遊び暮らし、「今様(流行歌)」の稽古にはげんで、今様集「梁塵秘抄」を残した。後白河帝が今様に接しえたのも、遊芸の民々を招き寄せていたからだ。後白河帝の時代に白拍子が存在したかどうかは知らないが、巫女踊りが神事を離れて、芸能化していたことは想像できる。


【写真】石巻線(石巻小牛田)SONY DSC-RX0


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by kugayama2005 | 2019-06-16 00:05 | 2019日記 | Trackback | Comments(0)

君の名前の意味を聞いたら “山のきつね” まき毛はいかんせん狐色 瞳は草の緑をうつす好奇心。


by kugayama2005